3 会長の孫

 根岸が言いかけた時、のんびりと階段を下りてくる足音が聞こえた。

 振り向いた根岸の目に、ラフな格好をした大学生らしき青年が見える。ミルクティーブラウンに染めたマニッシュショートが目を引き、両手をジーンズのポケットに突っ込んで、今にも口笛を吹きそうなのんきな顔をしている。

 青年は根岸と目が合うなり、人なつこい笑みを浮かべて近づいてきた。

「もしかして、お客さん?」

 色素の薄い瞳の奥に、見たことのない光が見えた。見つめられているだけで体がびりびりとしびれるようだ。この感じには覚えがある。

 無意識に根岸は背筋を伸ばし、硬い口調で答えた。

「警視庁より参りました、魔法捜査第一課の根岸と申します」

「葉沢です」

 とっさに葉沢も根岸にならい、青年は嬉しそうに顔を輝かせた。

「魔法捜査一課だ! 聞いてるよ、話。この前、野上さんが来てさ――って、その前に自己紹介だよね。俺は暁月善あかつきぜん、会長の孫だよ」

「か、会長ってまさか……」

 驚く葉沢にかまわず、根岸は冷静に返す。

「やはりそうでしたか。一目見てそうではないかと思っていたところです」

「やだなぁ、そんなに固くならないでよ。俺、そういうの嫌いなんだ。気楽に行こうよ」

 頭を下げる根岸の隣で、葉沢はおろおろするばかりだ。すると暁月は言った。

「そうだ、狛犬が脱走したんだった。悪いんだけど、探すの手伝ってくれる? すぐに結界を張ったから、敷地の外には出てないはずなんだ」

 根岸は冷静に返した。

「もちろんご協力しますが、闇雲に探すよりまずは情報が欲しいです」

 暁月は納得した顔ですぐに教えてくれる。

「山奥の神社で保護した狛犬だよ。何年か前まで境内で飼われてたんだけど、神社の管理者がいなくなってから放置されてたんだ。普通は二匹でいるものなんだけど、片割れは死んじゃったみたいで、一匹しか見つからなかったんだって。

 警戒心が強くてビビりだから、捕まえるのも大変だったらしいね。で、ここに連れて来たのはいいけど、目を離した隙に逃げられた」

「結界の有効時間は?」

「うーん、残り十分ってところかな」

「敷地内の地図はありますか?」

 暁月はカウンターの中へ入ると、幻気術学部の受験生に向けた大学案内のパンフレットを取ってきた。数ページほどめくって、敷地内の各建物を紹介するページを開く。

「今いるのがここ、事務センターね。で、すぐ隣にあるのが幻獣保護研究センターなんだけど、ここは魔法生物学科の学生と研究室の関係者のみ、立ち入りを許可されてる。

 次にこっちとこっちの建物が学部棟。まだ春休みだからそんなに学生は来てないはずだけど、隣のサークル棟にはけっこういるかもね」

 事務センターから時計回りに説明され、根岸は考える。警戒心の強い狛犬ということは、おそらく人がいない場所に身を隠しているはずだ。

「人があまりいない場所はどこですか?」

「それなら断然、幻獣保護研究センターだね」

 暁月が紙面上の建物を指さすが、根岸は言う。

「でも幻獣がいますよね。怖がりな狛犬が身を隠すとは思えません」

「ああ、そっか」

「俺の勝手な推測ですが、狛犬は人も幻獣もいない場所に隠れているのではないですか?」

「うーん、人も幻獣もいない場所……」

 根岸がじっと様子を見ていると、暁月は顔を上げてひらめいた。

「それって、ここじゃない? 一階と二階には人がいるけど、認識してない人も多いし。三階と四階には今、俺たちくらいしかいない」

「灯台下暗しですね。探しましょう」

 ほっとしながら根岸が言うと、何故か暁月は手を出して制止した。

「ちょっと待って。葉沢さんだっけ、俺と上を見に行こう。根岸さんは一階に下りて待ってて」

「は?」

「特効タイプじゃん、根岸さん。近くにいたら狛犬がビビって出てこられないよ」

 暁月はすぐに「行こう、葉沢さん」と声をかけてから、階段を上がっていった。

 残された根岸は「特効?」と、眉間にしわを寄せる。どういう意味なのか、ちっともピンとこない。そもそも、そんな風に言われたのは初めてだ。

 しかし、暁月家は日本における魔法使いの元祖とも言われている。自分自身では分からないことでも、彼のような特別な生まれであれば分かってしまうのかもしれない。

 根岸は微妙な気持ちになって息をつくと、素直に階段の方へ向かった。


 一階の窓から外を見ると、協会の職員たちがあちらこちらを探し回っていた。ちょうど正門の辺りに結界の端が見え、根岸は暁月のすごさを実感する。結界は空間に干渉する魔法であり、魔力がよほど強くなければ使えない。

 とりあえず邪魔にならないところで待つことにして、根岸は階段近くの壁にもたれるとポケットから文庫本を取り出した。しおりひもを挟んだページを開き、黙々と読み進める。

 葉沢たちは十分もしないうちに戻ってきた。声が聞こえて顔を上げた根岸は、きちんとしおりひもを挟んで文庫本をポケットへしまう。

「あっ、根岸さん!」

 階段の踊り場から葉沢が声をかける。彼の腕の中にはつぶらな瞳の白い狛犬がおり、どうやら無事に捕獲できたようだ。

 階段を下りてきた暁月は建物の外へ出ると、結界を消して叫んだ。

「みんなー! 狛犬見つけたよー!」

 中からその様子を見ていた根岸へ、葉沢が横に立ちながら問う。

「根岸さんの言ったとおりでした。この子、屋上に出る扉の前でうずくまってたんです」

「いや、俺は何もしていないが」

 と、根岸が返すと葉沢はやや強めに言う。

「推理したじゃないですか。暁月くんも褒めてましたよ?」

 おどおどしていて頼りない男かとばかり思ったが、葉沢は押しの強さも持ち合わせているらしい。

 根岸は視線をそらした。狛犬が怯えたように根岸を見ており、気まずくなって言う。

「それよりまだ登録が済んでない。戻るぞ」

 職員たちが続々と戻り始めており、そのうちの一人が葉沢へ駆け寄っては狛犬へ腕を伸ばした。

「すみませんでした。見つけてくれてありがとうございます」

「いえ、どういたしまして」

 にこにこと笑いながら葉沢は狛犬を職員へ渡し、根岸は先に三階へ戻るべく歩き始めた。

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