2 魔法協会

 助手席に座った根岸は黙って窓の外をながめていた。

 赤信号で停止すると、葉沢がそわそわしながら話しかけてくる。

「あの、根岸さんは自分が魔法使いだってこと、知ってたんですか?」

 ちらりと一瞥してから根岸はため息をついた。

「ああ、知ってた」

「それなのに、魔法は使わないんですか?」

 今日初めて会った人間に聞かせられる内容ではない。意地悪ではあるが、はぐらかすことにした。

「葉沢こそ、どうして今まで知らなかったんだ?」

 背筋を伸ばしてから新米刑事はアクセルを踏む。車がゆっくりと走り出し、葉沢は何気ない様子で答えた。

「自分、施設育ちなんです。小さい頃に両親を亡くしてて」

 ぎょっとして根岸は彼の横顔を見つめた。少し照れたようにはにかんでいるばかりで、ちっとも悲しそうではない。いや、そう見せているのだ。

 きっとこれまでの人生で何度も、同じことを伝える場面に遭遇してきたに違いない。安易に同情されて複雑な気持ちになったこともあるだろう。

 根岸は視線をそらして返した。

「すまん。無神経だったな」

「いえ、いいんです。むしろ今は、自分が魔法使いだって知らされて、すごくわくわくしてます」

 葉沢がわずかに声の調子を強くし、根岸はどう返そうか少しだけ考えた。彼を傷つけないようにしたいが、早めに釘を刺しておくべきか。

「野上さんが言ってただろう。魔法と言っても何でもできるわけじゃないんだ。あまり期待はするな」

 できるだけ穏やかに言った根岸へ、葉沢は「分かってます」とうなずいた。

 彼に傷ついた様子がないのを見て、根岸は内心ほっとした。

「でも、魔法ってどうやって使うんでしょう? やっぱり呪文があるんですか?」

「いや、そんなものはない。黙っていても魔法は使える」

「そうなんですか? 無詠唱ってやつですね、かっこいいです」

 無邪気な子どものような感想だ。純粋で飾らないのは美点だが、刑事には向いていない性質のようにも思われる。

 ここは先輩である根岸がしっかりしなければと思い、現実に引き戻した。

「葉沢は魔法捜査一課と聞いて、びっくりしなかったのか?」

「もちろん、最初はびっくりしましたよ」

 と、葉沢は少し苦笑いをする。

「自分なんかが本庁で働けるなんて思ってませんでしたし、しかも刑事部でしょう? 何かの間違いじゃないかって、今でもドキドキしているくらいです」

「異動希望を出したわけじゃなかったんだな」

「当然ですよ。自分はまだ交番勤務でいいと思ってましたから」

「交番にいたのか?」

「はい。刑事への憧れはありましたけど、自分にはまだ早いと思ってたんです。でも、魔法捜査一課に異動になったからには頑張ります」

「……そうか」

 根岸は再び窓の外を見た。

 根岸にとって捜査一課は憧れだった。毎年異動希望を出していたが、ずっと生活安全課に留まっていた。必要があれば捜査に駆り出されることもあったため、表立って文句を言ったことはない。しかし刑事になりたいという思いは常にあった。

 念願叶い、ついに刑事になれると思ったが、ふたを開けてみれば魔法捜査一課だ。根岸は落胆し、嫌悪した。魔法嫌いな魔法使いなど、いったい何の役に立つというのか。

 そんな根岸の思いなど知る由もない葉沢は、これからの日々に期待するように明るい表情をしていた。


 魔法協会は正式名称を日本幻気術協会といい、私立暁月あかつき大学東京校と同じ敷地の中にあった。暁月大学は魔法使いのための学校であり、魔法を学ぶ幻気術学部を中心に、その他一般的な学部も併設されている。知名度は高くないが、創立百年に迫る長い歴史を持っていた。

 敷地内にはいくつもの建物が並んでいた。根岸と葉沢はそのうちの一つ、白い壁の事務センターへ入った。

 一階と二階が大学の事務局になっており、根岸たちは三階へと階段を上っていく。

 こぢんまりとしたカウンターが協会の受付だった。中にいた二十代半ばと思われる若い男性が二人に気づき、席を立ってこちらへやってくる。

 根岸はすぐに「魔法使い登録をしたいのですが」と声をかける。職員はにっこりと笑みを浮かべた。

「魔法捜査一課の方ですよね? お話はうかがっております。すぐに用紙をご用意しますのでお待ちください」

 首から下げた職員証に杉田とあった。さっぱりとしたショートヘアに痩身で、背はあまり高くないが声に張りがある。

 根岸はふと、他の職員たちから見られていることに気がついた。新設されたばかりの魔法捜査一課の人間だ。職員たちの目はいずれも好奇心を宿していた。

 用意を終えた杉田がクリップボードを差し出しながら説明をする。

「では、こちらの申請用紙ですね。お名前と生年月日、住所などの他、下の欄は分かる部分だけでかまいませんので、ご記入ください」

 根岸と葉沢はそれぞれにクリップボードを受け取った。

「あちらのソファでご記入をお願いします。終わりましたら、また声をかけてください。すぐに登録作業をしますので」

「分かりました」

「ありがとうございます」

 軽く頭を下げてから、根岸は端に置かれた三人がけのソファへ向かう。葉沢も後からついてきて、二人並んで腰を下ろした。

 クリップボードに挟まれていたボールペンを手に、さっそく用紙への記入を開始する。――根岸ながる、一九九七年九月二日生まれ、東京都新宿区……。

 しかし、下半分に差しかかると手が止まった。魔力量や魔法の使用方法についての欄には、何を書けばいいのか分からない。魔法を使うつもりがないため、なおさら書けなかった。

 葉沢の方を見ると、彼も同様にペンが止まっているようで、眉間にしわを寄せながら用紙を見つめていた。

「書けたか?」

 声をかけてみると、葉沢がはっと顔を上げた。

「あの、下の方が全然埋まらなくて」

「分かる部分だけでいいと言ってただろう。大丈夫だ、出しに行こう」

 根岸は先に立ち上がり、再びカウンターへと向かう。気づいた杉田が寄ってきて、二人の申請用紙を受け取った。

 二枚の用紙へ順に目を走らせ、内容を確認し終えた杉田は言う。

「はい、お二人とも大丈夫ですね。こちらの情報で登録させていただきます」

 根岸は野上に指示されたことを忘れずに口に出した。

「あの、魔力量の測定もしたいのですが」

「測定していかれますか? こちらとしてもありがたいです。ちょっとお待ちくださいね」

 と、杉田がクリップボードから用紙を外して、デスクへ戻ろうとした時だった。

 階段の方から騒がしい物音がした。上の階だろうか、人々の悲鳴やら怒号やらが聞こえてくる。そしてピンと張り詰めた空気。

 階段を下りてきた職員が叫ぶ。

「狛犬が脱走した! すぐに捕まえてくれ!」

「何ですって⁉」

 杉田がびっくりした顔をし、二人を見た。

「申し訳ないのですが、狛犬の方を優先させてもらってもいいですか?」

 他の職員たちもざわつき、大急ぎで外へ出ていく。その様子を横目に見ながら根岸は返した。

「ええ、被害が出る前に捕まえるべきです」

「ありがとうございます。それでは」

 用紙を机に置いてから杉田が駆けていき、葉沢が根岸を見る。

「狛犬って、あの狛犬ですか?」

「中型犬くらいの大きさで、見た目は可愛いが角がある。普段は穏やかだが、興奮すると猛獣のように襲いかかってくる個体もいるから、野放しにするのはまずいんだ」

 無防備にも職員たちのほとんどが捜索に出てしまったおかげで、辺りはすっかり静まり返っていた。

「それなら、自分たちも協力すべきじゃないでしょうか?」

「そうだな。だが、こういう時こそ冷静にだな」

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