恋情を、呑む。

青桐美幸

恋情を、呑む。

 時間を潰すために訪れた図書室。

 目的もなく書架の間を歩いていたら、必死に腕を伸ばす彼女を見かけた。

 このままだとお目当ての本が取れないだろう。ゆっくりと近づき、代わりに棚から引き抜く。

「はい、どうぞ」

「あ……っ、ありがとうございます」

 両手で受け取った本を抱き締め、礼を述べられた。

 下げていた頭が元に戻る。肩から滑り落ちた金色の髪が揺れる。

 そうして出会った温かみの宿る翡翠の瞳と、口元をほころばせた柔らかな笑顔が、忘れられなくなった。



       ***



 二階から三階へと差しかかる階段の踊り場で、一枚のメモ用紙を拾った。

 四つ折りにされたそれを広げると、流麗な字が並んでいる。


『今日の放課後、裏庭で待っています』


 途端に気まずさがこみ上げた。

 意図せず他人の事情に踏み入った気分だ。

 厄介ごとの相談か、片想いの告白か、はたまた恋人同士の逢引きか。

 いずれにしても、周囲に聞かれたくない話をするための呼び出し文に違いない。

 書いた側が渡す前に落としたのであろうと、相手がもらい受けた後に落としたのであろうと、自分が見ていいものじゃないのは確かだった。

 が、既にこうして手に取ってしまった。

 名前が一切入ってないせいで関係者に伝えることもできず、かといって処分するのも気が引ける。

 毎日掃除をしているのだから今日落とされたのは明白で、つまりここに書かれている「今日」とはそのまま本日という意味だろう。

 選択肢が一つしかない気がして、不運にも拾ってしまった俺――レアン・ウィスコットはため息をついた。



       ***



 悶々としながら授業に参加し続け、迎えた放課後。

 行くべきか行かざるべきか延々と自問し、結局問題の場所へ向かうことにした。

 事情がどうあれ、呼び出した当人が待ちぼうけを食う可能性が高かったからだ。もしも既に待ち人が来ていたら、気づかれないよう引き返せばいい。

(さて、そもそも呼び出したのは男か女か……)

 男の方が説明しやすいし、現状を受け入れてもらいやすいと思う。

 ただ、メモ程度とはいえこういった文を書くのは得てして女の方が多い。

 妙な誤解をされずすんなり物事が進められることを願いつつ、花壇の広がる裏庭に辿り着く。

 その手前にあるベンチに座っていたのは、緩やかに波打つ金髪を腰まで伸ばした女生徒だった。


「……っ、ウィスコット様」


(なぜ、彼女が)

 驚いた一呼吸ほどの間に翡翠の瞳とレアンのそれが交差し、

「グラディノーツ嬢……」

 ひそかに思いを寄せていた相手――シェリカ・グラディノーツ子爵令嬢だったことに愕然とした。

 同時に、話そうとしている内容が何となく予想できてしまって、目の前が真っ暗になった。

 友達などの同性に対して、わざわざ紙片を使って呼び出すことは考えにくい。そして、彼女に決まった婚約者がいるという噂も聞いていない。

 ということは、きっと、誰か想う男がいるのだ。

 レアンではない別の誰かに、その翡翠にたたえた温かな眼差しを注ぎ、心を預けるのだ。

(自分の気持ちを告げるどころか、まだろくに言葉を交わしたこともないのに……!)

 始まる前から失恋するとは。

 急に痛み出した胸を気休めでいいから押さえたい。

 けれど、立ち上がった彼女が近寄ってくる姿を認め、強制的に意識をそちらへ移した。

 感傷などあとだ。とにかく彼女にここへ来た経緯を伝えなければならない。

「ええと……グラディノーツ嬢。このメモを書いたのは君、でいいのかな?」

 ポケットから出してくだんの用紙を開いてみせる。

 すると、羞恥心からか頬を染めた彼女は勢いよく頷いた。

「そうです、私が書いたものです!ですが、お渡ししようと思ったらなくなっていて……。どこかに落としてしまったのかもしれないと探していたのですが、見つからないまま放課後になってしまい、取り急ぎこちらに来たのです。ウィスコット様が持っておられてよかった……!」

 意中の相手に渡らなかったのは残念だが、レアンなら誰にも言いふらさないと思って安堵したのだろうか。もちろん口外する気はなかったが。

「それで、ですね。あの……私、お伝えしたいことがあって……」

「待った。それを言う相手は俺じゃないだろう」

「え?」

「グラディノーツ嬢が差出人だとわかったから、この文は返すよ。そのために来たんだ」

 再度紙をたたみ、彼女の前に差し出す。反応がないので、失礼にならない強さで手を取って掴ませた。

 これで用事は終わりだ。落ちていたものを拾うなんて余計なことをしなければ、こんな苦さを味わわずに済んだのに。

 打ち明けることもできず内に広がる思慕の念を閉じるしかない、苦さを。

 彼女に会いたいがために通っていた図書室へも、足を運ぶことを禁じなければ。

「今度は本当に好きな人に渡せるよう祈ってる。それじゃ」

 最低限の伝達事項を完了させると、一刻も早くこの場を立ち去ろうと踵を返した。

 にもかかわらず、レアンは足を踏み出すことができなかった。


 制服の裾を引っ張られたせいで。


「どうして……?」

 届いた声があまりにも弱々しく。

 ジャケットを握る手が微かに震えていて。

 明らかに異変が起こったことに気づき恐る恐る振り向く。

 そこには、


 今にもこぼれそうな涙で翡翠の双眸を潤ませる存在が、あった。


「え……えっ!?」

「ウィスコット様のお時間をいただくことがご迷惑なのは承知の上です。けれど、今日来てくださったのは、ほんの少しでもお話を聞いてくださるつもりがあったからだと……。わ、わざわざ返すためだけにいらして、何もっ、言わせてもらえないのはあんまりです……っ」

「い、いや、ちょっと落ち着いて。だから、その話をする相手が俺じゃないって言ってるんだ」

「どうしてっ? 私がどなたをお慕いしているかご存知だとおっしゃるのですか?」

(聞きたくないから帰ろうとしたんだ……!)

「それは知らないけど、本来俺はここに来る人間じゃなかったのは確かだよ」

「な、なぜですか……? 私はあなたに告白することも許されないの……?」

「…………ん?」

「応えていただけるなんて思ってません!で、ですが、お慕いしていることもご負担だとおっしゃるのですか?」

「…………うん?」

 どうも聞き流せない言葉が耳に入ったようで思考が止まる。

「少し待ってくれ。今の流れだと、君が俺を好きだと言ってるように聞こえるけど」

 手違いで呼び出し文を目にした自分が、まさか告白などされるはずがない。

 という事実を何とか導き出したタイミングで、彼女がとうとう涙を一粒落とした。

 まるで翡翠の宝石がきらめいているような感覚に陥り、一瞬見惚れる。


「ですから、私は、ウィスコット様が……好きなんですっ!」


「…………え」

「こ、こんなはずじゃなかったのに……。見苦しくてごめんなさい」

 いや、しおらしい様子を目の当たりにして別の意味で胸が疼くんだが――と、思わず差し伸べそうになった手を意志の力で封じる。

「あの、確認していいかな? 俺はこのメモを階段の踊り場で拾っただけなんだけど……。だから、君が渡すつもりだった相手が別にいるんじゃないかと思って」

「違います。私の不注意で落としてしまったせいで、ウィスコット様がそう思われるのも仕方ないですけれど……。最初から、あなたにお渡しするつもりでした」

「俺、に? つまり、今君が言ったことは……」

「すべて、ウィスコット様にお伝えしようと思っていたことです」

 あなたのことを、お慕いしています。

 改めて告げられた。

 手順が異なってしまっただけで、このメモがレアンの手元にやってきたのは間違いじゃなかったのだ。

「それなら、俺は君を、諦めなくていいのか?」

「え……と、それは、どういう」

 先ほど押しとどめた手を動かし、今度こそ濡れた頬を指の腹で拭う。そう、してもいいはずだ。

「俺も、グラディノーツ嬢が好きだ」

 はっと目を見開き、沈黙したまま視線を合わせてくる。

 些細な勘違いで信用が揺らいでしまったなら、それを正すまで。

 せっかく触れられた権利を、みすみす逃したくないから。

「図書室で初めて会った時から、惹かれてた。君のことが、好きだ」

「…………嬉しい」

 ぽつりと呟いて、花開くようにほころぶ表情と、再会した。

 それはあの、本を手渡した際に見せてくれたのと同じ笑顔で。

 そっと引きつけられた可憐さを前に、閉じようとしていた感情がより深く芽吹いた。

「今日から名前で呼ばせてくれ。――シェリカ」



 一度目は自分の恋情を身の内に呑み下し。

 二度目は彼女の恋情を、口づけにかえて呑み込んだ。

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