第2話

 陽介は立ち止まり、肩から下げたタオルで首筋の汗を拭った。顔を上げると、大きな入道雲の下に山道が遥かに続いている。

 背負っていたバックパックから飲み水を取り出し振り返ると、ぜぇぜぇと息を切らす、宝の姿があった。

「少し休むか?」

 ぼたぼたと汗を垂らし、宝は首を振る。

「いや、このまま行こう。もう少しで目的地だ」


 宝が出した条件。それは“石”だった。

 “石が欲しんだよ”

 腐臭漂うゴミ屋敷の中で、彼はそう呟いた。そう言って彼が見せてきた写真には、何の変哲もないただの石が写っていた。

 宝はそれをとあるブログで見かけたのだという。

 大きさで言えば1.5mほど。大人が1人で持つにしては少し大きい程度のサイズだ。石と呼ぶには大きい気もするが、岩と呼ぶには小さすぎる。他に適当な言葉が見つからない以上、陽介はそれを石だと判断した。

 “この石を一緒に運んでほしい。協力してくれるのであれば、カウンセリングを受けてもいい” それが彼の出した条件だった。

 本末転倒のような気もしたが、説得すれば話がこじれるだけだと陽介は思った。それに、ゴミを収集するような異常行動は見せても、嘘をついたり、約束を破るような人間ではない。

 陽介は少し思案したのちに、彼の条件を吞むことにした。

 件の石は、一見しただけでは特に変わったところはない。所々に何かが混ざった様な形跡があったが、それも取り立てて注目するには値しない。

「なにか特別な石なのか?」

 陽介は尋ねたが、宝の回答はあまり要領を得なかった。上手く言語化出来ない様子の宝を見て、陽介は納得した。

 実際の所、この石は本当に無価値なただの石なのだ。しかし、宝にとっては何か重要な意味を持っている。

 何故にこの何でもない石を宝が欲しがっているのか、彼自身が言葉にできない。もし、その正体が分かれば彼の抱えている病理の一端が見えるかもしれない。

 彼の条件を呑んだのには、そんな理由もあった。


 だが、出発から既に数時間、陽介は同行したことを後悔していた。

 石はゐ尾市の山、鳳来山にあった。車で6時間。そして山道を4時間。軽い気持ちで了承したわけではなかったが、登山がここまでの苦行だとは思っていなかった。

 日ごろの運動不足がたたり、もうずいぶん前から気持ちの悪い息切れが続いている。普段部屋に籠っている宝は尚更で、苦悶に顔を歪め、荒い呼吸と共に何度も呻きを上げた。ただ、そんな苦しみに苛まれながらも、彼は殆ど休憩を取ろうとは言わなかった。

 一刻も早く石を手に入れたい。その気持ちが彼を突き動かしていた。

 背中に宝の喘ぎを聞き、少し歩くと森が開け、一面に藪が広がった。尾根に出たようで、遠くにはカルストの大地が広がっていた。

「あそこだ」

 宝は藪の中を指さした。見ると、わずかばかり藪が切れ、細い道が奥へと続いている。藪は人一人がようやっと通れるほどのサイズに鋭利な刃物で切断された跡があり、自然に出来た道というよりは、誰かが意図的に作ったもののようだった。

 これまでの登山道とは明らかに雰囲気の違う細道に戸惑っている陽介を横目に、宝はさっさと奥へ入っていった。

 先ほどまで引きずるに近い重さだった宝の足取りが、少しずつ早まり、力強いものになっている。

 目的の石はもうすぐそこまで迫っているのだろう。軽快な宝の背中を見て、彼を駆り立てるものの正体は一体なんだろうかと、陽介は考えた。


 ゴミ屋敷を作ってしまう人間は2種類。ゴミをため込んでしまう人間か、ゴミを集めてしまう人間だ。その2種類共に共通しているのは、彼らがある種の偏執的な強迫観念に駆られて行動しているということだ。いつか使うかもしれないから、もったいないから捨てられない。まだ使えそうだから、得をした気持ちになるから拾ってきてしまう。

 物はなんだっていい。大事なのは、そこに本人がどんな意味を見出すかだ。

 宝はたまたま、とあるブログでこの石の写真を見つけたと言った。その写真を見た瞬間、彼の心に潜む何かが、石と強く結びついたのだろう。それは言葉や理屈では説明できない。彼の中にしかない価値として、彼自身を強迫的に駆り立てたに違いない。

 だから、彼は質問に答えられなかった。陽介は思った。石に対する価値は彼自身の不可知な情動から来ている。どれだけ考えても、その価値を論理的に説明することは出来ないのだ。

 だから、大事なのは石ではなく、石に宝が抱いている感情だ。石は重要ではない。その石は、宝の中でしか価値をなさないものなのだから。そう考えていた陽介は、件の石の前に来て少し動揺した。

 そこに人がいたからだ。

 それも、1人や2人ではない。10人近い人間が、石を囲むように、座ったり寝転んだりして眺めている。

 行きがけの登山道の閑散具合を考えれば、異常な盛況ぶりだった。それも、大きな道からは外れている。

「おい、これはどういう……」

 陽介の呟きに宝は答えず、ゆっくりと石に近づいていった。

 陽介も後を追い、石に近づく。

 間近でも見ても、やはり陽介にはピンとこなかった。石は一抱えほどの大きさで、色はグレー。よく観察してみても、化石が付着している形跡もなく、煌びやかな鉱石が埋まっていることもない。形はごつごつとして、良くも悪くも凡庸だった。

 陽介は簡易な担架を作って運搬しようと考えていたが、この人の多さでは持ち去るわけにもいかない。

「宝、どうする?」

 陽介は宝に尋ねたが、彼は既にその場に座り込んで石を眺め始めていた。名前を呼び掛けてみたが、空返事を返すだけで、心ここに在らずというような有様で埒が明かない。

 陽介はあきらめたように、宝の隣に座り込んだ。集まった人の多さに、ひょっとすればこの石は本当に何らかの価値があるのではないかと陽介は思った。

 しかし、石を見つめる周囲の人々の表情を見て。すぐにその考えを打ち消した。石を見ている人々の表情に恍惚や羨望などは見られない。彼らは皆一様に口から魂が抜け出た抜け殻のように、無感情で呆然と石を眺めている。

 彼らもまた、宝と同じ偏執的な執着に憑りつかれた人なのではないか。陽介は思った。

 彼らが執着を覚える物には、ある種のパターンがあって、この石はそれらを全て満たしているのではないか。

「誰かの付き添いですか?」

 群衆の顔を一人ずつ観察していた陽介は、突然の声に振り返った。

 話しかけてきたのは恰幅のいい、髭面の男だった。年は50代ぐらいで、片手には長いピッケルを持っている。如何にも登山家というような風体の男だった。

「え?」

「いや、ここに来る人は大抵石を見に来ているので」

 男は陽介の隣に腰を下ろし、バックパックから簡易のコンロを取り出して湯を沸かし始めた。

 友人の付き添いであることを告げると、男は納得したようにうなずいた。

「どうりで、石を見ずにキョロキョロしていたわけだ」

「なんなんですか、あの石は」

 男は紙コップにドリップパックをセットして笑った。

「興味のない人には、奇妙に見えるかもしれないですね」

「なにか珍しいものなんですか?」

 男はまた笑った。

「いいや。あれは流紋岩ですよ。溶岩が地表近くで冷えて固まって出来る、どこにでもある石です。本来は、二つ向こうの山で取れるものですけどね。噴火で拭き飛ばされたのか、長い年月をかけて転がってきたりしたのでしょう」

 男は作り立てのコーヒーを陽介に手渡した。

「まあ、本来この山で取れる石ではない、という意味で言えば珍しいですけどね」

 湯立ったコーヒーを吐息で冷まし、陽介は口に運ぶ。

「じゃあ、なぜみんなは」

「どういうわけか、あの石を見ていると心が落ち着くんです。ずっと、眺めていたくなって、それで……」

 男はコーヒーに口を付けると、穏やかな顔で笑った。

 結局陽介は、石を運搬することも、宝に帰ろうと言い出すことも出来ないまま、日がな一日その石を眺め続けた。

 宝はその間も、微動だにせず石を眺め続けていた。陽介も手持ち無沙汰にぼんやり石を見つめてみたが、心には何も生まれなかった。陽介にとっては、それはどこまで行ってもただの石だった。

 日が傾き、太陽が夕陽に変わると、集まっていた人々も流石にぽつりぽつりと立ち去り始めた。

 空が青白く染まり始めたのを見て、陽介も宝の肩をゆすった。

「そろそろ、」

 宝は何も言わず、こくりと頷いて立ち上がる。

 同じく撤収作業をしていた髭面の男性に礼を言うと、陽介は元来た道を戻っていった。

 宝は何度も振り返って、その石を最後まで目に焼き付けようとしていた。




つづく



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る