石
諸星モヨヨ
第1話
その家の前で、
8月の炎天下。雲一つない空に、太陽だけが燦然と輝いていた。じっとしていても、焼けた肌から脂の混ざった嫌な汗が滝のように溢れてくる。
今すぐにでも、日陰へ飛び込みたくなるほどの耐え難い暑さだった。
しかし、その暑さの中にありながらも、陽介は影はおろか、家の敷地へ入る事すら躊躇い、しばしその場にじっと佇んでいた。
四方から聞こえるアブラゼミの声が、平衡感覚を鈍らせ、暑さが思考を鈍麻させる。
いつもそうだ。この家にはいる時は、必ず躊躇ってしまう。
理由は明白だった。
陽介はため息を吐いて、背丈ほどの草木の生えた庭を見つめた。
ジャングルの様相を呈したその庭に、巨大な冷蔵庫やテレビ、そしてタンスやベッドなどの家具が無規則に並べられている。半開きになった玄関のドアからは、白いゴミ袋が溢れるように外へはみ出していた。
窓という窓は山積みになったゴミに覆われていた。
陽介は天を仰いだ後、ため息を吐き、敷地へ足を踏み入れた。
半開きになった玄関のドアを覗き込み、家主の名前を呼ぶ。
家は大学時代の友人、
宝と知り合ったのは大学の時、きっかけは共通の趣味だった。宝も陽介も、とあるトレーディングカードにのめり込んでいた2人は、出会ってすぐに意気投合した。
幼い頃からそのカードを集め始め、それなりの収集家だという自負を持っていた陽介は、宝のコレクションとその狂気的な収集癖に、完全に打ちのめされた。
数十シリーズはあるそのカードを全て網羅しているのは当然の事、限定品や非売品、果ては市場に流れてはいない試作品までも、どういうルート使ってか入手していた。
収集という趣味は金が物をいう。確かに宝の実家は製薬会社を営む、地方ではちょっとした大家だった。しかし、それを抜きしても宝の物を集めるという事に対する情熱は人並み外れていた。
彼は大学生にして、一軒家をあてがわれ、その中にありとあらゆるものをコレクションしていた。
“物が僕に呼びかけてくるんだよ。集めてくれってね”
彼はそう言ってよく笑っていた。
そんな宝がおかしくなり始めたのは、大学を出て少ししてからだった。
その頃から彼は、道端に落ちているガラクタやゴミ捨て場に置かれた粗大ごみを集めて回るようになった。
それなりに大きく、庭もあった立派な一軒家は1年も経たないうちに今のような有様になってしまった。
いつまでたっても帰って来ない返答に陽介は半開きのドアに体をねじ込み、家の中へ入った。
8月の昼下がり、部屋の中はむわっとした湿った熱気が漂い、動物的な腐臭が充満していた。
この家はクーラーが動いているのだろうか。数日前から、宝とは連絡が取れなくなっていた。
この熱さだ。もしも、クーラーが無ければ……
最悪の想像が頭を過る。逃げ出したくなる気持ちをグッとこらえ、陽介は奥へと進んで行った。
ゴミの山を押しのけ、一番奥にある宝の自室へ向かう。
恐る恐るドアから中を覗き込むと、ゴミの中に座り込んだ宝の姿が見えた。彼は手に持った本を熱心に読み耽っている。
安堵のため息を漏らし、陽介は中へ入る。
部屋にはクーラーがあったものの、動いてはおらず、一台の扇風機が室内に満ちた腐臭をかき混ぜていた。
「なんだ君か、」
宝は本から顔を上げ、呟いた。
「家に入る時はチャイムを鳴らせよ。いくら友人でも、礼儀ってもんがある」
「チャイムは壊れてるだろ」
陽介は汗を拭いて反論した。
「ああ、そうだったか」
陽介の反論にそっけなく返答すると、宝は本に視線を戻した。
「じゃあ声を掛けるという発想はなかったのか?」
「かけたよ」
「聞こえなかったな。前から思っていたんだが、君は少し声が小さい気がするな。そういうやつは大抵、自分の意見に自信がないか、責任逃れをする傾向がある」
ページをめくって馬鹿にしたように言う宝に、陽介はムッとして反論する。
「聞こえなかったのは僕のせいじゃない。こいつらのせいだ」
陽介は宝を囲むように堆積したゴミの山を指さし、声を荒げた。
宝はフッと気だるそうな笑みで陽介に返答した。
「なあ、宝。やはりこの家はどうにかした方がいい。お前だって嫌だろ」
陽介の言葉も意に介さず、宝はため息を吐いてページをめくる。
「君も懲りないな。これで何度目だ?」
おかしくなった宝を説得するために、陽介が彼の元を訪れるようになったのは約1年前。もう幾度となく彼を説得しようと苦心し、その度に妙な理屈を付けられては、家の片づけを断られている。
その回数を一々数えていればキリがない。
「最初はお前の事を阿呆か、ただの善人だと思っていたが、こう何度も何度も来られると、さすがに何か裏があるかを疑いたくなる」
顎に出来たニキビをポリポリとかいて、宝は言う。
「君の正体はなんだ? 宗教か? それともマルチか?」
陽介は呆れたようにため息を吐いた。
「それこそ、何度も言わせるな。カウンセリングって言っただろ」
「君の物欲を消し去ったというあれか」
宝に及ばずとも、陽介もまた社会人になると同時にある種のタガが外れてしまった。数十万の月給を月給を手にするようになった陽介には、物欲のリミッターは儚くも崩れ去った。
月に十万以上、給与のほとんどを趣味やカードの収集に費やし、足りない分は借金した。
借金はみるみるうちに膨らみ、一時は破産寸前まで陥った。そんな時、友人の勧めでメンタルヘルスクリニックへ罹ったのだった。
「いいか、宝。はっきり言って、今のお前は病んでる」
聞いているのか、聞いていないのか、宝は本から目を動かさずジッと静止していた。
「人がどうして物欲に憑りつかれるのか。分かるか? それは、心が満たされていないからだ。満たされない心の隙間を埋めようとして、人は何かを欲し、集めようとする。だが、そんなものでは心の隙間は埋まらないし、満たされることも決してない。どころか、物欲は人を破滅させる」
陽介はゴミの山に一瞥を送った。
「で、君にはその物欲がない、と」
「ああ。物欲は心の問題なんだ。外からやって来ることはない。結局それは、自分の中にしか存在しないものなんだ。だから、方法さえ知っていれば、自分でコントロールすることが出来る」
宝が声上げて笑った。わざとらしく、体を揺らし、見せつけるような笑いだった。
「陽介、君は何もわかってない。本当に何も」
「宝、お前が笑いたくなる気持ちは分かる。だが、このままではお前は破滅する。今なら、まだ引き返せる。頼む、親友の頼みだと思って聞いてくれ。俺と一緒に、病院へ行ってくれ」
陽介は深く頭を下げた。額から汗がゴミの上にポタリと落ちる。数秒の沈黙の後、宝は笑った。
またダメだったか……ため息を吐いて、陽介は床に腰を落とした。暑さで頭がくらくらしてくる。
茫乎としている陽介に宝は唐突に口を開いた。
「……分かった。カウンセリングを受けてやる」
予想外の反応に、陽介の返答が一瞬遅れた。
宝は雑誌から顔を上げ、ニヤッと笑う。
「ただし、条件がある」
つづく
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