第2話
放課後になり、進はすぐに教室を出た。誰かが何か言っていたが、振り返ることはしなかった。昇降口で靴を履き替え、駐輪場に向かう。そこから自分の自転車を見つける。高校入学のときに買ってもらったクロスバイクだ。
校門から出て、右へ走る。本格的にペダルを回すと徐々にスピードを上げていく。病院への行き方は事前に確認していて、大体15分くらいの距離だった。
やがて周りより頭一つ飛び抜けている建物が見えた。この街で一番大きな総合病院は駐車場も広く、タクシー乗り場やバスの停留所まで敷地内に入っている。駐輪場は病院の横手にあり、少し影になっているそこは病院関係者の駐車場も兼ねてあった。
自転車を止め、病院の入り口に向かう。
入口は入場口と出口が分かれていて、どちらも回転式の扉になっていた。
入ろうとしたところで、扉の横にスマホや電子機器の取り扱いを伝えるポスターを見つけた。進はスマホを取り出し、少し悩んでマナーモードに切り替える。その間にタクシーから降りてきた人が回転扉に入っていく。進もその人に続いていく。
扉を抜けた先は幅の広い通路になっていて、丹念に磨かれた床が奥まで続いている。見上げるほど高い天井と、天井から床まで伸びる窓のおかげで、夕方の時間帯でも院内は明るかった。窓の下にはカフェにでもありそうなテーブルとイスが置いてある。
反対の壁には観葉植物や自販機、スタッフ専用の扉があるが、受付のカウンターは見当たらない。先を見ると通路は右に折れ曲がっている。おそらくそこに受付があるのだろうと足を踏み出したとき、ふいに声を掛けられた。
「こんにちは。誰かのお見舞いでしたか?」
ドキリとして声のした方を見る。そこには笑顔を浮かべた警備員が立っていた。その背後にはもう一人警備員が立っていて、進を見ながら無線で何かを話している。
入り口から院内へ入る人は他にもいたが、他の人は呼び止められず奥へと進んでいる。
「はい。あの、昨日ここに運ばれた、柳竜太君のお見舞いです」
「お約束はしていましたか?」
怪しむようにジロリと目線を送られて、怯みそうになるのを堪えた。
「いえ、特に約束はしてないんです。心配になって来ただけで……」
少し間が開いて、警備員は口を開く。
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
進が自分の名前を告げると、それを聞いた警備員は目をスッと細めた。
もう一人の警備員に何か合図を送っていたが、進は気付かなかった。
あの……と言うと、あちらでお待ち下さい、と入り口近くにある長椅子を指し、進から離れていった。
長椅子に座ると、もう一人の警備員と目が合った。気まずくなって目を逸らすが、警備員は来院する人がいない限り、進のことを見ているようだった。
その間にも、多くの人が行き来していた。首から名札や許可証といった類のネックストラップを下げている。
スマホを使うのも躊躇われ、どうしようかと考えを巡らせていると、通路の先からこちらに歩いてくる女性の姿があった。
緑色のネックストラップを首にかけ、閉じられた半そでシャツの前でネームプレートがぶら下がっている。
肩まで切り揃えられた髪は整っていたが、少しだけ跳ねている所があった。
しかしその後ろから先程の警備員が来ているのに気が付いて、慌てて視線を逸らす。
女性がにこりと微笑んだ。その表情はどことなくぎこちないものに感じた。
「こんにちは。竜太の母の由貴子です。あなたは、竜太のお友達、でいいのかしら」
トーンの低い声に、警戒しているのが伝わってくる。
「竜太君とはクラスが違うんですが、高校が一緒なんです。小学校から知っています。友達と言うほど、一緒に遊んだ訳ではないのですが……」
そこまで言って、進は深い関係性ではないのにも関わらず、ここまで来たのは迷惑だったかと考えた。特別仲が良いわけでもなく、同じクラスですらない。そんな人間が病院に来ているというのは不信感を持たれても仕方がないと思った。
それに対して、由貴子は何も言わなかった。その代わりに、窓の側にあるテーブルに案内した。それを見届けて、警備員も離れていく。
向かい合う形で椅子に座る。テーブルの上に重ねられた由貴子の手は、窓から差し込む光で白く見えた。
由貴子の瞳が、進を捉える。
「じゃあ、来てくれたのは何故?」
由貴子が早速切り出す。進は一息吸って答えた。
「俺…僕は竜太が竜神川で溺れるなんて、そんなこと、信じられないんです。」
由貴子の手がピクリと震える。進が続ける
「溺れるどころか、竜太は川に入ることだってしないんじゃないですか。そんな性格してるとは、思えないですよ。それなのに、どうしてこんなことになったのか、いくら理由を考えても思いつかないんです」
由貴子の顔を見る。長いまつげの奥にある目は伏せられ、どこを見ているのか分からない。口を固く閉ざし、何も語らない。
窓から差し込む光が、少しだけ暗くなる。陽の光が当たらない床が黒く塗られていく。すると窓から離れたところにある照明が付き始めた。その灯りが、やけに眩しく感じた。
「ごめんね」
視線を戻すと、由貴子は下を向いたまま話していた。
「私にも、分からない。……だから、その答えは、教えてあげられないの」
ごめんね、という弱弱しい声が、空気の中に溶けていく。
それ以上何も聞くことは出来なかった。母親こそ、何故息子がこんなことになったのか知りたいはずだった。進の質問に憤りを感じたかもしれない。けれどそんなことをおくびにも出さない由貴子の気持ちを考えると、進は自分を恥ずかしく思った。
「すいませんでした。無神経で勝手なことばかり、言ってしまいました」
由貴子に向かって頭を下げる。その姿を見て、由貴子は大丈夫と言った。声に力が戻っていた。
「心配してくれてありがとう。竜太には、貴方がお見舞いに来てくれたことを話しておくわ」
優しく微笑むと、由貴子はスマホを取り出した。
「何かあったら、こちらから連絡するわね。すぐに会わせてあげられるか、分からないけれど……」
進もスマホを取り出し、電話番号を交換した。電話帳に、柳(母)が登録された。
回転扉の前まで、由貴子は進を見送った。入り口付近は薄暗く、手を振る由貴子の表情には影が差していた。
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