第三十一話 ソジュン
ソジュンの祖先は在日朝鮮人である。二十世紀の大戦中に日本へ渡り、そのまま定住した一族だ。終戦後に米ソ冷戦が勃発し、祖国へは戻らなかったのである。
一族は差別と貧困に苦しみ、村八分を恐れて日本名を名乗っていたらしいが、ソジュンに反日感情は少ない。
日本のアニメは好きである。異人アイドルのカリスの歌とアニメは海外でも大人気だ。飯も美味い。ソジュンは日本を気に入っていた。
特に異人街は好きだ。外国人が多く、日本人に気を遣うことが少ない。とても住みやすいと思っている。
では、これまで全く差別がなかったかと言われると、そうではない。学校でくだらない苛めはあったし、就職でつまずくこともあった。賃貸アパートを契約できなかったこともある。
ソジュンに自覚はないが、過去に経験した、ささやかな差別の連鎖は、深層心理に蓄積されていた。
ソジュンは十三歳で東銀へ来た。当時は母親と二人暮らしだったが、母は水商売で家を空けることが多く、ソジュンは孤独な時間を過ごした。
日々の生活でつまらない差別はあったので、次第に荒んでいき、不良グループに入ったのである。そのグループのケツ持ちが中国系移民をルーツに持つ反社組織[
龍尾にはソジュンと似たような境遇の人間が多く在籍していた。移民や難民は勿論のこと、異人と呼ばれる超能力者が在籍していたのである。彼等は皆、差別に苦しんでいた。
頭領の顔は見たことがないが、東銀でも指折りの実力者だと聞いている。ソジュンは龍尾の格好良さに陶酔しており、チームに尽くすことが生き甲斐となっていた。
ソジュンは十五歳の頃、十年年上のハオランと呼ばれる男に誘われて実家を出た。ハオランは龍尾傘下の小さい組織に所属しており、面倒見がいい男だった。
彼に連れられ、建築現場や廃棄物処理の仕事をやらされたが、特に不満は無かった。娼婦のスカウトをやっていたこともある。
ソジュンはハオランを信頼し同行している内に、気が付いたら反社組織に所属していたのである。ここまで来るともう表社会には戻れなかった。
ソジュンが
若い頃は龍尾への憧れがあったが、今は畏怖を抱いている。ハオランは最初優しかったが、怒ると怖い男だと分かった。送迎中に車で急ブレーキをかけると殴られ、電話に出ないと蹴られる。足抜けしようとするメンバーに灯油をかけ、ライターをちらつかせて脅す。
反社組織はアメとムチを巧みに使い分け、若者を抱き込むのである。
DMDは危険なドラッグだ。一口舐めるだけで意識が飛ぶ。ソジュンは興味本位で一度試したが、バッドトリップを起こし、自殺未遂をした。
幻覚剤だけでも危険だが、そこにダークマナが混ざると、強力な麻薬へと変化するのである。中毒で命を落とす人を何人も見てきた。東銀は深刻な薬物汚染に見舞われている。
ソジュンは自分がとても危険なモノを売っていると知り、今では恐怖を抱いているのだ。毎日、カリスの音楽を聴いて心を落ち着けている。
ソジュンのお気に入りは「無色透明」と題するアルバムである。カリスの歌はまるでソジュンのことを知っているのか、と錯覚するほど、心に染みこんでくるのだ。
最近のカリスはSNSの更新が停滞気味だが、ソジュンは毎日チェックしていた。
ソジュンは百八十センチの長身で、さらりとした黒髪だ。前髪はセンターで分かれており、ナチュラルなウェーブがかかっている。黒いジャケットが似合うイケメンである。
最近の彼はDMD密売を辞めたいと考えていた。そのようにハオランに申告したいが、何をされるか分からない。
ソジュンは東銀から少し外れた位置にある老朽化が進んだアパートへ帰ってきた。二階建てで六世帯入っている。壁が錆びていて汚らしい外観だ。夕暮れ時の空が更に寂しい印象を与えていた。
この物件の入居者は皆訳ありらしい。アル中やヤク中、生活保護受給者が入っている。詳細は知らないが、龍尾の息がかかっているのだろう。
共有スペースに半裸で寝ている男、前科ありの精神障害者、男を部屋へ連れ込む娼婦……。様々な入居者がいるが、DMDを密売している自分も大差ないのだろう。
(いや……。異人街の薬物汚染に関わっている自分が……一番醜い)
自室を目指して通路を歩いていると、男の怒鳴り声やポルノ動画の音声が聞こえてくる。いや、動画ではないのかもしれない。興味は無いが、静かにして欲しいと思う。
ここは世界から忘れ去られた掃き溜めだ。
入居したての頃、優男に見えるソジュンは質の悪い住人に絡まれることがあった。しかし、ハオランに鍛えられたソジュンはいとも簡単に撃退し、それ以降は避けられるようになっていた。
ソジュンは異人であり、マナの扱いに長けていた。【
(そう言えばシンユーは龍王の後藤とやり合って警察に捕まったって聞いたな。まあ、もう釈放されただろうけど。今度慰めてやるか)
異人喫茶の小競り合いが発端となり、龍尾と龍王の関係は最悪となっている。近々抗争に発展する可能性があるのだ。ソジュンが龍尾を抜けたいと思う理由の一つである。
(ハオランやシンユーには恩は感じている。だけど……死にたくはない。ケンは死んだと聞いている)
先日の異人喫茶の事件で死者が一名出た。ソジュンの同期のケンだ。胸を撃ち抜かれたらしい。犯人はまだ捕まっていない。
彼の死はソジュンに衝撃を与えた。
どこで歯車が狂ったのだろう。自分が表社会に立つ機会もあったのだろうか。ドラマに出てくるような煌びやかな会社で、同僚と笑い合う平凡な人生もあったのだろうか。
ハオランに連れられ、実家を出た時の母親の顔を思い出す。肺を病んで青白い顔をしていた。ストレスが多い水商売で疲れ切っている母の姿はもう見たくないと思っていたが……。
(まだ生きているのかな。気になるけど、DMDをやっている僕に会う資格は無いだろう)
家を出てからがむしゃらにやってきたが、最近は子供の頃のことを思い出す。日本は好きだが、苦労は多かったように思う。それは何故だろう。
(僕が……日本人ではないから……なのか)
ソジュンは自室の前まで来た。錆びた玄関が目に付く。
子供の頃の自分はささやかな夢があった。奇麗な家で家族と仲良く暮らす。それだけである。しかし、現実はドラッグにまみれ、錆びたアパートで暮らしている。
(誰を恨めばいいのだろう。自分を? 日本を? それとも世界を?)
ソジュンは今日何回目かの溜息をついた。ドアノブに手を伸ばすと、横から声を掛けられた。
「じゅんじゅん~。 やっほ~」
声の方に視線を向けると、そこには女性が一人立っていた。
ハイトーンの金髪、セミロングで肌は雪のように白い。右目は青、左目は緑のオッドアイ。ピンク色のパーカーの下にブラックのシャツを着て、ホワイトのハーフデニムを穿いている。
人懐っこい笑顔を浮かべて手を振っていた。左手にはコンビニのビニール袋を持っている。
「ああ……。愛ちゃんか。来たんだ」
ソジュンは先程までの鬱々とした気分が晴れていくのを感じた。
「近くに来たからねー。上がっていい?」
「うん、いいよ」
ソジュンは愛を部屋に招き入れた。部屋はお世辞にも奇麗とは言えない。いや、ソジュンの掃除が行き届いていないわけではなく、築五十年のアパート特有の経年劣化だ。
狭くはない。2DKの間取りで四十平方メートルだ。痛んだ畳にはタバコで焦がした跡がある。ソジュンは非喫煙者なので、前の住人によるものであろう。
愛は木目調の丸いローテーブルの前に置いてあるクッションの上にあぐらで座った。大きな目をぱちくりしていて小型犬のような愛くるしさを感じる。
「な、なんか飲む? ああ、お酒は飲めないんだっけ? じゃあ紅茶でも入れようか」
愛の仕草に緊張しながら、ソジュンはキッチンへ向かう。
「いらなーい。愛、自分でお茶買ってきたよ。じゅんじゅんの分もあるから」
そう答えると、ごそごそと袋からペットボトルのお茶を出している。
「あ、ああ。そうなんだ。ありがとう」
ソジュンは愛の対面へ座ったが、彼女はソジュンの横に移動し、肩に寄りかかった。
彼女の体温を感じる。日常で荒んだ心が癒やされていくように感じた。
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