第三十二話 売人の夢
ソジュンが愛と出会ったのは東銀のバー「テロワール」だった。ハオランの商談へ同行し、解散した後、一人で飲みたい気分になり立ち寄ったのである。
長身で容姿端麗なソジュンは女性にもてる。カウンターで一人飲んでいると何度か声を掛けられたが、やんわりと断っていた。
ソジュンはジントニックを飲んでいた。バーにとってジントニックは名刺代わりである。カクテルの基本と言っていい。バーテンダーの力量が顕著に出る。
ソジュンは一杯目のオーダーをジントニックにすると決めていた。美味しければ二杯目に、そうでなければ次の店へ……である。
(テロワールは龍尾とは関係ない店だよな。プライベートだし、良いだろう)
フードを摘まみながら二杯目を飲んでいると、カウンターでオレンジジュースを飲んでいる女性客に気が付いた。オッドアイが特徴的だったので気になったのだ。それが愛であった。
試しに話しかけてみると気が合った。それからテロワールで何度か会い、自宅に来る仲になったのである。
愛は変わった女の子であった。一言で表すと天真爛漫。いつも笑顔で子供のような純粋さを残している。
年齢を聞いても「忘れたー」と答える。嘘ではなく素で忘れている可能性を感じさせるほど、物事に頓着がない性格をしていた。
「夕飯何にする?」と聞けば「何でもいいかなー」と答える。
「俺たち付き合ってるの?」と聞いても「どっちでも良いと思うよー」と答える。
「母親が病気なんだけど会いに行くべきかな?」と聞くと「うーん。愛、わかんなーい」と答える。
愛は自分の意見を述べない。相手を否定も肯定もしない。そう、会話にならないのである。しかし、それが愛の魅力でもあった。
ふらっとやって来て、いつの間にか帰っている。野生の小動物のように気ままな女性である。
ソジュンは隣にいる愛に目をやった。愛は部屋の隅にある金庫をじっと見ている。
「じゅんじゅんー。あれは何?」
金庫にはDMDや注射器が入っている。あれは今週中に売りさばく必要がある。持っているだけで法に触れるブツだ。愛に知られるわけにはいかない。
「ああ。通帳とかお金が入っているよ。この辺り、治安が悪いから金庫は必需品なんだ」
緊張しながら適当に嘘をつく。それを悟らせないようにペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「へー。そうなんだね-」
愛は納得したらしい。いや、よく分からなかった。彼女の感情は読めない。
ソジュンは愛の肩を抱いた。彼が龍尾を抜けたいもう一つの理由は愛との結婚を考えているからである。
ソジュンは出会って間もない愛に本気で惚れている。彼女となら表社会に出られるかもしれない。そのためにはドラッグの世界から足を洗う必要があった。
しかし、資金が必要だろう。この業界の稼ぎは良い。ソジュンはもう少し貯金ができたら龍尾を辞めるつもりだった。
「愛ちゃん。もう少し金が貯まったら引っ越そうと思うんだ。そうしたら一緒に住まないか?」
ソジュンは愛の顔を見詰める。愛は大きな瞳を宙に向けて人差し指を口元に添える。
「うーん。その時が来たら考えるー」
愛は笑顔で答えた。ソジュンにとっては想像通りの回答である。愛は未来に興味が無い。過去もそうだ。現在しか見ていないのだ。
「シャワー浴びてくるー」
そう言って愛は部屋を後にした。ソジュンはその背中を見送る。
(……焦ることはない。幸せはすぐそこまで来ている。そう、焦らなくていい)
DMDは危険だ。こんなものは無くなってしまった方がいい。……しかし、もう少し稼がせてもらおう。
ソジュンはタブレットで、カリスの「無色透明」を流した。疲れた日に毎日聴いている。今日もカリスのSNSをチェックするが、更新されていなかった。
(カリスどうしたんだろう? もう二週間も更新されていない……。まあ、半年休止していた時もあったし。東銀にいるって噂があるけど、本当かな)
カリスは素顔を明かさない異人アーティストである。アバターでファン交流をしているが、未だに正体は謎だ。
(会ってみたいな。多分美人なんだろう)
ソジュンは窓の外を見た。すっかり夜になっている。空にはぼんやりと月が浮いていた。
好きな音楽を聴きながら好きな缶チューハイを開け、好きな人と過ごす。
(今度こそ幸せになるんだ。そうしたら母さんの顔を見に行こう。胸を張って)
ソジュンはチューハイを飲みながら未来に思いを馳せた。
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