第二十二話 スパイダー
氷川駅から二十分ほど南下した地域で、スラムと化している僻地である。
先日の誘拐事件で犯人が拠点としていたコーポ木崎から徒歩で十分ほどの距離にある。
汚れた用水路があり、その周辺には不法投棄された電化製品や粗大ゴミが散乱している。
更に進むと大きな河川敷があるが、そこはホームレスや難民のテントが立っている。
治安が悪く、一般人は近付かないが、犯罪者はその限りではない。
老朽化が進んだ五階建てのアパートの一室にオスカルと呼ばれる男が住んでいる。
年齢は二十代後半で、アジア人の容姿をしているが、スペイン系移民の父親と中国人の娼婦から生まれたハーフである。
黒髪は天然パーマでくるくるとしており、顔は西洋人らしく堀が深いが、スペイン人には見えず、やはりアジア人の特徴を有していた。
眉は薄く、大きな二重をしており、比較的整った顔をしている。口元にはヒゲが生えていて、耳にはピアスを付けている。
オスカルは
素手で触ると指紋や尿検査で逮捕される可能性があるし、
DMPの目利きが可能なオスカルは勿論異人であった。オスカルのチームは[スパイダー]と名乗っている。
大きな工場は協会や警察に摘発される可能性があるので、メンバーは異人街の各地に散らばり、各自作業をこなしている。
輸送には大手の宅配サービスを利用している。検問に引っ掛かり、または配達員に盗まれ、「ブツが紛失」することもあるが、それは経費だと割り切っていた。
今日は一日雨である。雨の日はDMDの注文が増えるので忙しい。オスカルの携帯電話は鳴りっぱなしである。
「ああ、その時間は無理だけど、遅れても必ず届ける。金は払ってくれよ」
オスカルは電話の向こうの顧客に敬意を払う。ドラッグの密売はビジネスだ。誠実に取引をしなければ客が離れていく。目先の利益より信頼と継続だ。
適当にドラッグを打って、酒をあおり、女と遊んでいるわけではない。オスカルは一日十三時間働いていた。
オスカルがドラッグの密売を始めたのは十二歳の頃だ。父親はスペインの麻薬組織に雇われた殺し屋である。支払いが滞った顧客がターゲットだった。
母親は父の愛人である。彼女は売淫の傍ら、「お得意様」にドラッグの密売をしていた。
つまりオスカルは生まれた時からドラッグの世界を見てきた。この世界しか知らないのである。そこに善悪は存在しない。
百年以上前の顧客は上流階級の西洋人だったが、現在はアジア人がメインとなっている。特に埼玉の異人街は需要が大きい。
父親は既に他界しており、母親はアルコール中毒で病床に伏している。先は長くないらしい。アルコールはドラッグ以上に毒である。母は毎日死に近付いている。
何故アルコールは年齢制限だけで、ドラッグが違法なのか、オスカルには理解できない。
愛人の子だろうが、オスカルは母を慕っていた。
片親になってから随分と世話になったのだ。売人でもある母は、自分も麻薬の離脱症状に苦しみながらオスカルを育て上げた。
オスカルは母の手伝いからこの業界に入ったのである。
(母さん。俺が稼いで送金してやるからな。長生きしてくれ……)
十人の売人がいたら、一年後に残るには一人だと言われている。
ドラッグが原因で刺されたり、撃たれたりする人を見てきた。警官が襲われる光景や、麻薬を注射してそのまま心臓が止まってしまった客も見てきたのだ。
この業界は常に死と隣り合わせだ。
オスカルも過去に逮捕された経験があるが、凶悪犯罪者でない限り、更生プログラムへの参加で刑期が短くなる。
しかし無鉄砲で短気だったオスカルはそこで暴力事件を起こし、独房へ入れられたのだ。
激情に駆られて喚いても大人には届かない。絶対的権力の前ではなす術もない。
独房で一週間まともに食事にありつけなかったオスカルは、根負けして丁寧に謝罪をし、外に出ることを許された。彼は子供ながらに社会のルールを学んだのである。
(あの経験があって今の俺がいる。胸は熱く、頭は冷静に……だ)
時計の針が正午を指した時、アパートの呼び鈴が鳴った。覗き窓を見ると女性が一人立っている。オスカルの知り合いだ。彼はドアを開けた。
「入れよ」
一声掛けて、部屋に戻る。
「ありがとー、レッド。上がるね」
レッドとはオスカルのニックネームである。外で本名は呼ばない決まりだ。
女性を招き入れてオスカルは梱包作業を再開する。
招かれた女性は日本人である。名を
ハイトーンの金髪、セミロングで肌も白い。特徴的なのはオッドアイで、右目は青、左目は緑である。大きく丸い目をしており、小柄で小動物のような可愛らしさを持っている。
年齢は不明だが、未成年であろう。
ピンク色のハーフジップパーカーの下にホワイトのシャツを着込み、ブラウンのショートパンツを穿いている。
オーバーサイズのパーカーでスタイルは分かりにくいが、童顔に似合わない体型をしているようだ。
「今日はずっと雨だね-。オスカル。電話鳴りっぱなしでしょ」
子供のような口調は相変わらずだ。愛には社会人の常識が無い。
「まあな。ブルーが外回りしてるよ。商売繁盛ってやつさ」
愛は狭いアパートの床にあぐらで座った。その顔はにこにこと笑顔である。大きい瞳をぱちくりしている。その雰囲気は小型犬を彷彿とさせる。
「今日は何人やれば良いの?」
愛は笑顔で手を差し出した。
オスカルは愛の方は見ずに一枚の紙を渡した。それには支払いが滞っている客の名前と住所が書いてある。要は暗殺リストだ。
「えーっと。今日は二人だね! 了解だよー! 顔写真はメールしてね」
愛はすくっと立ち上がり敬礼をする。彼女はスパイダーのメンバーではなく、フリーの殺し屋である。ターゲットは異人であることが多いので、彼女も当然異人である。
暗殺に異能を用いることもあるが、手段は狙撃や毒殺、刺殺など多岐にわたる。
「愛も最近忙しいよー。今度の
愛は銃を構えるポーズを取り、オスカルの手元に視線を落とす。
彼はせっせとDMDを袋詰めしている。スパイダーは一週間で五キロのDMDを十時間かけて梱包するのだ。
「随分多いね-。それはどこに売るの?」
オスカルは愛の方は見ずに答える。
「これは
愛の視線は袋に入れられたDMPの方に移った。
「そのパウダーやばいねぇ。ダークマナがぷんぷんするもん。オスカル、早死にしちゃうよ? そんなもの扱ってると」
「いいよ、別に。母さんより先に死ななければそれでいい」
オスカルは答えながらも、その手は止まらない。愛はにっこりと笑った。
「ふーん。でも、もしオスカルが暗殺のターゲットになったら、その前に愛が殺してあげるね。でも友達だから痛くない異能でやってあげる。あはは」
物騒なことを言うが、派手に稼いでいるとオスカルも他の組織から狙われる可能性は十分ある。勿論、彼はそのリスクは承知している。
「じゃあ、またねー」
愛は手を振りながら部屋を出た。玄関ドアの向こうで、またオスカルの携帯電話が鳴っている。
雨の日に注文が増えるのは、単に暇だからか、それとも捜査員のマークが甘くなるからか――。
「繁盛繁盛、千客万来―」
愛は満面の笑顔でアパートを後にした。雨はその勢いを増しており、用水路の流れが激しくなっていた。
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