第八話 ソフィア=エリソン
ソフィアは目を覚ました。古い部屋の臭いがする。カビと埃の臭いが鼻をつく。
腕は縛られ、口にはガムテープが貼られている。辺りを見渡すと、自分が汚いアパートの一室に監禁されていることが分かった。
玄関付近で三人の女が言い争っているのが見える。そのうち二人はトイレで話しかけてきた女であった。どうやら自分は誘拐されたらしい。
白い服を着ている女がソフィアのスマートフォンを持って、何か操作をしている。
黒いタンクトップの女が、白い服の女に掴みかかっていた。
「どういうことよ、メイ! 百万ドルあれば
メイと呼ばれた女が、その手を振り払った。
「ディアン! だから聞きなさいよ! そのソフィアって子の父親! フィルって奴は旅行ではなくて非公式に
金髪の女が間に入る。ヨーロッパ系の奇麗な女性だ。
「二人とも仲間割れはよしてってば! もうメッセージ送っちゃったでしょ! 大体、水門重工のネタ元は信頼できるの? メイ」
ディアンをなだめながら、メイに問いを投げかける。
「ほら、異人街に来たばかりの時。チェンって名乗った子供に仲介役頼んだでしょう? あいつからの情報よ。ミラ、覚えている? あいつよ! あのガキ」
メイは金髪の女に同意を求めた。
「ええ、覚えているわ。あいつブローカーでしょ? まずいわね、この部屋もあいつが用立てたのよ」
ミラと呼ばれた金髪の女が美しい顔を歪ませている。再びディアンが声を荒げる。
「そのブローカーにいくら払ったと思っているの? 今回の身代金でペイする計画だったでしょう! メイ、どうするのよ?」
ソフィアは驚くほど冷静に、醜い仲間割れの様子を観察していた。話の流れから、この女達は父の「敵」であることだけは理解できた。
ディアンがソフィアの視線に気が付いた。
「この子、目を覚ましたわよ。ねえ、この子にも聞いてみましょうよ! 何か知っているかもしれないわ。全部デマならただの杞憂よ?」
女達が近付いてくる。ソフィアは身をよじった。これから何をされるか分からない程、ソフィアは幼くはなかった。
「お嬢様、大声出しても無駄よ。隣の部屋は空き室だし。でもおかしな行動取ったら殺すからね」
メイがソフィアのスマートフォンを片手に持ちながら話しかけてくる。どうやらそのスマートフォンでフィルにメッセージを送ったらしい。
ソフィアは自分の中で何かが湧き起こってくるのを感じた。
メイはソフィアの口に貼られているガムテープを剥がし、寝ていた身体を起こした。
縛られた手はそのままだが、取り敢えず発言をすることは許されたらしい。
ディアンが荒っぽい口調でソフィアに言った。
「水門の商談ってデマでしょ? パパに身代金払ってもらうからね! 電話で娘の命乞いを聞けば、自分からここにお金持ってくるんじゃない? あんたのパパってあんたが大好きなのでしょ? 腐るほど財産があるなら百万ドルくらい余裕で払えるわよね」
苛立っているディアンは、ソフィアの頬を数回叩いた。それを見ている二人はディアンを止める仕草すら見せない。
自分はここで殺されてしまうかもしれない。父がどんなに悲しむことだろう。母が亡くなった時のように――。
そう思うとソフィアは胸が締め付けられた。娘は保身より父の安寧を祈る。
(パパには私しかいないから……。自ら命を絶ってしまうかもしれないわ)
「ほら! 命乞いしてみなよ! お嬢様! パパ助けてってさ!」
ディアンがソフィアの腹部を蹴り上げた。後ろにいる二人は何故か笑っている。完全に傍観者だ。
(私を殺した後も……。この人はパパに危害を加えるかもしれないわ……。何て悪い人達なのだろう――)
ソフィアは自分の体温がすーっと冷えていくのを感じた。不思議なことに、蹴られた腹部の痛みが、まるで他人事のように感じられた。
ソフィアは絶望的なその光景を俯瞰的に傍観しているような……、奇妙な感覚に陥っていた。
(パパは弱虫だから……。私が守ってあげないと――)
ディアンがナイフを取り出し、それをソフィアに向け、残酷な言葉を紡ぐ。
「耳くらい切り落としてもいいよね。その動画をパパに送りつけてあげるわ」
(こいつ等は、パパの敵だ――)
その時、母が今際の際に残した「言葉」が聞こえた気がした。
――お父さんを守ってあげて……、あの人……、危なっかしいから――
(――ソウダ……私ガ、フィル……ヲ、守ルンダ――)
カタカタカタ……と、部屋が振動している。室内の空気が圧縮されていくのを感じる。
「ちょっと、何よ! え、地震?」
地震のような震動が部屋を軋ませる。キィィンと耳鳴りがする。三人の女達は耳を塞いだ。何が起こっているのか理解できない。
感じるのは圧倒的な恐怖、そして凍えそうなほどの悪寒だった。
『……ネ』
ソフィアが何かを呟いた。ディアンが顔を歪ませながら聞き返す。
「何だよ! 何か言っ……」
ディアンが発言を終える前に、その瞬間が訪れた。
『死ネッ!』
刹那、きゅっと、目の前の空間が捻れ、ディアンの身体が弾け飛んだ。
パッと鮮血が溢れ出る。バシャッと、真っ赤な血が後ろの二人にかかった。
ディアン「だった」肉塊が、辺りに飛び散った。
一瞬の出来事で何が起こったのか理解できない。
先程まで目の前にいたディアンが、いとも簡単に絶命した。あまりの恐怖にメイとミラは動けない。へたっとその場に座り込み、血の海の中を後退りする。
ソフィアを拘束していた縄は千切れ飛んでいた。ソフィアはふらっと立ち上がり、何やら呟いている。
『……ナ』
カタカタカタ……。再び部屋が振動し、耳をつんざく甲高い音が室内に反響する。ソフィアが手をかざすと、窓ガラスが砕け散り、ゴォッと嵐のような強風が吹き込んできた。
「に、逃げ……」
『フィルヲ苛メルナッ!』
逃げようとした二人はディアンと同じように吹き飛んだ。真っ赤な鮮血が部屋を染める。
断末魔すら許されない圧倒的な力の差。まるで無邪気な子供が路上の虫を踏み潰すように、ソフィアは三人の女の命を奪った。
ソフィアの表情は――、誰かに褒めて欲しそうな子供のように、微かに笑っていた。
「……あ、ホテルに帰らないと……、パパが心配するわ」
しばらくして正気を取り戻したソフィアは、ふらつきながら出口へ向かう。眼下に広がるおびただしい血痕は視界に入っていないようだ。
その時、玄関の鍵がガチャリと回り、ギィ……と開いた。
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