第2話 村役場
時計は午後5時を指していた。
あと30分で終わりだな、と考えながら、
総合窓口のカウンターでは、生活保護担当の
「今月分の収入申告書、確かにお預かりいたしました」
「一人親支援の件ですね、少々お待ち下さい…あ、
生活保護受給者の老人を相手にする青射は、丁寧な口調ながら少しつっけんどんだ。が、スリット入りの青いタイトスカートから覗く長い脚を見るだけで、受給者の老人は随分と満足そうである。
対してシングルマザーとその子どもの前でにこやかに笑う緑は、左右の太い三つ編みとソバカス、丸い眼鏡という出で立ちも相まって、市役所職員というよりは幼稚園の先生のような印象だった。
「今日は何とか、平和に終わりそうね」
赤音の隣の席でパソコンを叩いていた
定時で帰宅できるのは、公務員の特権…とは言え、昨日のように終業ギリギリの時間になって、他市町村へ引っ越すからと転出証明書を取りに来る客が何人も来たりする。
黃美華はそれに加え、帰宅すれば夫と子どもの世話もしなければならない。
「花金ですしね。やっぱ、早く帰りたいっすよ」
独り者の赤音に予定は無いのだが、わざと
田舎の市役所は古い人間が多いので、この方が年長者の評判が良い。
「何だよ赤音ちゃん、彼女できたのかー?」
すっかり週末気分でスマートフォンを弄っていた地域振興係長の
支所長の
「青射さんも見習わないとな。もう28だろ?」
窓口対応を終えた青射が、太った中年男の茶太郎に冷めた視線を送る。
「セクハラですよ? 労働組合と人事課に伝えておきますね」
茶太郎は弛んだ頬をぷるんと震わすと、気まずそうに視線を逸らした。
青射の、こういうところが苦手だ。
赤音は、心のなかで溜息をつく。
青射という女は、黙っていれば美しい部類だろう。
しかし、いかんせん中身が腐っている。
究極に空気が読めないのか、ただ単純に性格が悪いのか、とにかく周りが言ってほしくないことを次々と口にするし、女性にはしてほしくない振る舞いをするし、その上自分が周りからどう見られているかなんて毛ほども気にしていないのである。
村社会の田舎町なのだから、大人しくしていた方が生きやすいのに。
入庁以来、周辺との人間関係を常に気にしてきた赤音には到底理解できない。
「青射さんったら。茶太郎係長も、黙っていれば良いのに」
黄美華が、面白くなさそうに唇を尖らせた。
「でも緑ちゃん、セクハラすらされないのね。あの子ってば、若いのに地味だから」
黄美華の言葉に、赤音が曖昧な笑みを浮かべる。
確かに緑は、青射に比べれば大人しくて好感が持てる。
だが、惜しいことに若すぎるのだ。
あくまで、赤音にとっては、だが…。
「なぁに、赤音君。彼女できちゃったのぉ?」
甘ったるい声に振り返ると、産業建設係の紅一点である
「も、桃代さん」
桃代のブラウスはボタンが2つ外され、白い胸元が露わになっている。赤音は、慌てて目を逸らした。
もう40代も半ばだというのに、桃代の色気は衰えない。
どころか、増している気配さえする。
「ちょっと、桃代さん。ここ、総合窓口の係なんだけど」
黄美華が、横から口を挟んだ。
「産業建設のデスクはあっちでしょ」
軽口の応酬が許されるのも、気楽な週末勤務ならではだ。
窓口にも、エントランスにも人は少ない。自販機で買った飲み物を手に、のんびりとお喋りを楽しむ老婆が2人。青射が書類を受けとった生活保護の受給者は、何か鼻歌をうたいながらその辺をうろうろ歩き回っている。
いつもの週末。
のんびりと流れる、田舎の村役場の時間。
「ねぇ、これ、なーに?」
ふいに放たれた幼い声に、赤音は何故かぎくりとなった。
「え? ああ、これかな?」
窓口の方を見ると、緑が困惑した表情でそう呟いていた。
手元にある冊子には、地元の祭りの写真が印刷されている。
絵本に飽きた太矢君が、窓口にあったものを引っ張り出したらしい。
「えーと…『えらばれました』…?」
緑が、怪訝そうな顔で広報を読み上げた。心なしか、髪の毛を赤く染めた太矢君の母親も不安げな表情を浮かべている。
「黄美華さん、これ、何だかわかります?」
緑が広報のページを開いて見せる。何事か、と、他の係の者までわらわらと集まって来た。
「えらばれました…ふーん、これだけか」
茶太郎が腕を組んで唸った。
いくら田舎がゴシップに飢えているとは言え、広報を隅々まで読む奴はまず居ない。
高齢者の健康だとか、献血のお知らせだとか、毎月変わり映えのしない記事をだらだら載せた後ろのページなら尚更だ。
その、何の面白みも無い、だからこそ誰も興味を示さなかったページの最後に。
その言葉は、確かにあった。
「これだけじゃ、何に選ばれたのかわかんないわねぇ」
さり気なく赤音の肩に手を掛けながら、桃代が甘い声で言った。
「誤植かしら」
黄美華も眉毛を寄せる。
青射だけは興味も無さそうに欠伸を噛み殺していたが、他の文字列と遜色ないゴシック体で書かれたその一文は、どうにも何だか不吉なもののように思えてならなかった。
「ねえ、皆」
灰色のスーツを着た支所長の灰二郎が、受話器を持ったまま声を上げた。
「さっきから、電話、通じないんだけど…」
嫌な予感がした。
赤音はこっそりとスーツの尻ポケットに手をやると、業務時間内にも関わらず、スマートフォンを取り出して画面を確認した。
圏外だった。
「やだ、私も圏外だ」
赤毛のシングルマザーが声を上げる。
「こっちも」
青射が、自分のスマホを見て呟く。
途端に、誰もが弾かれたようにスマホを手に取った。
電波が生きているものは、ひとつも無かった。
あり得ない。
赤音の顔から血の気が引いていく。
いくら田舎の限界集落とは言え、今どきはお年寄りでもスマホを使う。山奥というわけでもない。現に、さっきまでは普通にスマホが使えていた。それは、茶太郎が証明しているではないか。
「ただの電波障害、とかよね」
黄美華がわざとらしく明るい声で言ったが、赤音はいつものような曖昧な笑顔を上手く作れなかった。
生活保護受給者の老人が、エントランスで歌いながら踊るように動き回っている。
「え、え、えらばれた。にーえ、にえ、贄。ヒトデナシ様のお目覚めにぃー…」
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