ゴキカブリのヒトデナシ
酒呑み
第1話 プロローグ
何ごとも、実際に経験しなければわからないものだ。
むせ返る血の匂いで頭がくらくらする。
白いシャツと紺色のスーツの中心で、赤い飛沫の飛んだ職員証が所在なく揺れている。
それにしても、意外だった。
こんな時に1番役に立つのが、ノコギリでもチェーンソーでも出刃包丁でも鎌でもなくて、ましてやエアガンの類でもなくて、
鋤。
長い柄の先に長方形の刃の付いた、畑を耕す為の道具である。
「おらぁっ!」
ゆらゆらと歩いてきた老婆の頭頂部に、
刃物としては然程斬れ味の良くない農具だが、リーチがある分扱いやすい。
鋤の錆びた刃は老婆の頭がい骨を真っ二つに叩き割り、頬骨と顎を砕いて面のように割れた顔面をだらりと胸元に垂れ下がらせた。
老婆のしなびた顔面は既に無い。色褪せた桃色のカーディガンの上に、皮一枚でぶら下がっているだけだ。真紅の断面に、ちぎれた筋繊維の名残と潰れた眼球の名残が見える。破壊され、えぐられた口元に銀歯の破片を見つけた時、
「おいババア、吐いてんじゃねーよ」
青射は眉間に皺を寄せると、鋤を担ぎ上げたまま不味そうに煙草を吐き出した。
「ただでさえくっせーんだからよ。これ以上足引っ張ったら、てめぇからブチ殺すぞ」
「そんな言い方、無いでしょう」
赤音は黄美華の背中をさすりながら、震える声で抗議した。
「黄美華さんは、青射さんの先輩なんですよ」
青射相手に、何を言っても無駄だとはわかっていた。だが、赤音は黄美華に…今、自分が守らなければならない相手に、少なくとも赤音だけは味方なのだと知らせたかっただけだ。
「なーにカッコつけてんだよ、マザコンの熟女趣味がよ」
青射がケラケラと笑う。
水色のストライプシャツに包まれた、青射の形の良い乳房も、タイトスカートから覗くすらりとした足も、鮮血でしとどに濡れている。
「昨日も黄美華オバチャンにしゃぶって貰ったのか? ああ?」
赤音が何も言えなかったのは、図星だったからだ。
死の危険が近づくと、子孫を残すために性欲が強まる。これは生物として仕方の無いことであり、現在26歳の赤音よりも黄美華が25歳年上であることなど問題ではないのだ、多分。
「こーんなことになっちまって、今更先輩もクソも無いでヤンスよ。赤音クン」
「ほぅーら、これが現実でヤンス」
青射に顔面を割られた老婆は、どろりと流れ出す脳とキラキラ光る銀歯を晒しながらふらふらと歩いている。
いや、この老婆ばかりではない。
辺り一面が似たような光景だ。
胸の前に、お面のように縦に割られた顔をぶら下げて。目玉や歯や骨の破片を生臭く赤い傷口にくっつけて。
血塗れの老人たちが、ぎくしゃくと四肢を揺らしながら村中を歩き回っている。
「ジジイとババアしか居ねーのはラッキーだったな」
「動き遅いッスもんね。限界集落様々でヤンス」
ふいに、青射が緑を抱き寄せた。
返り血を浴びた唇が重なり、湿った音を立てる。
こいつらに、赤音たちをとやかく言う資格は無い。だが、それを指摘するつもりも無い。
青射が顔面を破壊した老婆は、昨日も窓口に来ていた。
夫を亡くして一人暮らしで、病気で田畑を手放し、生活保護の申請が通ったのは昨年で、窓口に医療費の手続きに来る際はいつだって申し訳無さそうで…。
「考えたって仕方ねーだろ。こうなっちまったら、元に戻らねえ」
昨日までは、青射はこんな喋り方をしていなかった。悪態をつくことはあったが、少なくとも来所者には表向き丁寧に接していた。
それは、緑も同じこと。
赤音だって…。
不倫の願望なんか無かった。
青射と緑が女同士で恋仲になるなんて、考えてもみなかった。
「
青射の首には、赤音と同じ職員証が下げられている。
五鬼火舞李村支所、総合窓口係。
地方公務員の肩書なんて、今更何の役に立つのだろう。
「全部、全部終わったとして、よ」
赤音の腕にすがりつきながら、黄美華が鼻をすする。突き出た頬骨の横のほうれい線に沿って、血と汗と崩れた化粧が深い谷を描いていた。
「戻れるのかしら。元の、五鬼火舞村の職員に戻れるの…?」
戻れるわけが無い。
でも、とにかく生き残らなくては。
赤音は黄美華に肩を貸すと、青射と緑の後を追ってよろよろ歩き始めた。
変わり果てた村の中で、老人たちの襲撃に怯えながら。
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