第2話 ベントリーの黒い噂

夕暮れに染まる本村へと向かう人馬と馬車が麦畑に長い影を落としている。馬車の御者台にはジーク、彼が騎馬兵から奪った馬は長兄が引いていた。馬車は質素なもので、下級貴族とはいえ男爵家の令嬢であるシンシアが乗るものではない。これならナボレス領の辻馬車つじばしゃの方がマシに思えた。この辺りも何か事情があるのだろう。先頭をいく父と長兄が何か話している様だが、後列にいる村人達の陽気な声にかき消されて、会話の内容は聞き取れなかった。


本村の中央広場の横にアルムンド邸がある。こじんまりとしたレンガ造りの二階建てだ。ジークにとっては懐かしの我が家だった。その我が家の中央にある玄関口が内側から開けられ、中から執事が、少し遅れて母と妹が出てきた。ジークは御者台を飛び降り、改めて家族に帰宅の挨拶をし、次いで馬車から降りてきたシンシアを引き合わせた。母はシンシアと久しぶりに会えた事に喜んだが、彼女の様子に何か感じたのか、直ぐに二階の客間へと彼女を連れて行ってしまった。


夕食を待つ間、ジークは父の書斎で父と長兄から近隣の状況を聞かされた。最近では盗賊団が出没し、ベントリー領が大きな被害にあった事、シンシアの父であるベントリー領主が討伐に失敗して亡くなった事、新しく領主となったのがシンシアの伯父である事、そして伯父家族から遠ざけられシンシアが辛い立場にある事など。加えて、現在のベントリー領主には黒い噂が付き纏っているそうだ。


「それで、黒い噂とは何でしょうか?」


父によると、最近は隣領に身元不明のならず者達が増えているという。その中には違法な奴隷商人もいて、強引な手段で領民を奴隷へ落とし、他所よそへ連れて行くらしい。どうしてこんな悪行がまかり通っているかといえば、現領主がならず者達を厳しく取り締まらず、仮に捕らえたとしてもわずかな期間で釈放してしまうからだそうだ。ならず者達と奴隷商人、そして最近の盗賊団までもが、現領主とグルなのではないか...それが父の推論だった。領内に於ける領主の権限は非常に強い。王国法で領主権限は守られており、ゆえに領内でこの状況を変える事は出来ず、また他領の者が口を出すのは難しいという事だった。


「夕食の時間だよ。早く早く。」


妹が呼びに来たので書斎での話はそこまでとなり、ジーク達は食堂へと移動した。アルムンド家の食堂はそれほど大きくない。それでも数名の客人を招き入れるくらいは出来るのだが、食卓には母だけが座っていた。シンシアは体調が優れず、食事は彼女がいる客室でるという事だった。そうして全員が着席したところで母が話し始めた。


「当面の間、シンシアさんを当家でお預かりします。」


そう話した母の瞳には強い意志が感じられた。家の中のことは女主人である母の裁量に任されているのだが、突然のことで父と長兄は理由を求めた。しかし母は理由について一切話さず、ただシンシアさんの件を口外しないで欲しいとだけ言った。通常であれば、他家の令嬢を相手当主の許しを得ずに預かる事は出来ない。誘拐を疑われても仕方がないからだ。今回の襲撃の裏で何かあったのか、そんな事を考えながらジークは黙々と夕食を口に運んだ。裏庭で育てているハーブのサラダと鹿肉のシチューとパン、ジークの好きなメニューだったが、味を楽しむ余裕はなかった。


翌朝、シンシアの体調は未だ回復せず、彼女が客間から出てくる事はなかった。母やメイドが食事や衣服を抱えてシンシアの部屋を出入りしているので、一応の生活は出来ているのだろう。ジークもシンシアを見舞おうとしたが、メイドが申し訳なさそうに断ってきた。それでは妹と近所を散策しようかと考えたがそちらも駄目、父と長兄は領地経営で忙しく、仕方なくジークは鍛錬たんれんや狩をして過ごした。そして3日後の夕食、シンシアが家族の前に現れた。


「先ずは皆様へ感謝を。助けて下さった御恩ごおんは忘れません。」


そう言って食卓に座ったシンシアは、落ち着いた仕草、先日よりは顔色が良くなり、髪も整えられ、貴族令嬢然とした雰囲気をまとっている。幼年期の活発な少女だった頃との違いに驚き、しばらくジークはシンシアを見ていた。長兄は何度か彼女に話しかけていたが、隣領りんりょうの話になると母にキツくにらまれ、その度に申し訳なさげに小さくなっていた。シンシアはといえば、話を振られれば言葉少なに返していたが、その微笑ほほえみにはが残っていた。


翌日から何故なぜか男性陣の中でジークだけがシンシアと個別に会う事を許され、早速その日の夕食前にお茶会のような場を設けた。幼少の頃の思い出話、ナボレスでの生活、今日あった出来事など、ジークが話すのは他愛たあいのない内容だが、シンシアはうなずきながら楽しそうに聞いていたし、彼女の奥に垣間見える悲しみがわずかずつだが薄れていくのを感じた。この日からナボレスへ戻る日までの間、ジークとシンシアは幾度も語らい、お互いの距離を縮めていった。

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