第3話「名無しの少女」


***


それから十日が過ぎても男は現れなかった。


あれほど山菜採りや畑仕事に精を出していた少女が何もしない、ただボーッとする時間を過ごした。


(変なの。お腹が空くこともない)


虚無感に何をすればいいかもわからず、寝ころんで畳の目を数えるほどだ。


たまに障子扉を開き、部屋から眺めることの出来る庭に目を向けた。


風が吹いて木々が葉音を鳴らし、蝶々がひらひらと花を転々とする。


(どの花にも住み着かない。不安にならないのかな?)


こんなにもゆっくりとした時間。


静かすぎる日々に何でもない光景で空想に耽っていた。


そこにドスドスとした大きな足音が近づいてくる。


(強い音。機嫌が悪い?)


身体を起こしてその場に正座をすると、即時に障子扉を開き切って畳部屋に足を踏み込んだ。


土地神様と呼ばれる美しい男が険しい表情をして少女を見下ろす。


何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか。


乱暴な足取りと鋭い眼差しに少女は首をかしげる。


「あっ……」


ひんやりとした手が少女の腕を掴む。


身体の半分が浮いて、バランスが悪くなったことに少女は表情を歪めた。


痛いはずなのに何も言わない少女に男はさらに眉間のシワを深くした。



「お前、逃げなかったのだな」


その言葉の意味がわからず、首を傾げた。


「あやかしの贄にされたとわかったら怯えて逃げ出すものだろう」


(そうなんだ。……そうなんだね)


だとすればその意志がない少女には笑いごとだ。


男が手の力を抜き、少女はその場に座りなおす。


絹のような手をそっとほどいて少女はこなれた笑みを男に向けた。


「逃げません。それにここは人の生きる場所ではないでしょうから」


「ほぉ……冷静だな」


「十日も時間が経てば。……私に帰るところもありませんし」



この十日で十分すぎるほど置かれた現実を痛感した。


しょせん、養父に捨てられた生贄である。


少女が逃げ出せばこのあやかしは村を滅ぼしてしまうかもしれない。


それを信じさせるほど、男から圧倒的な強者のオーラがただいていた。


生け贄にされたことにより村に災いがないだけでも安堵した。


恨みを抱かない思考。


ただ微笑むだけの姿は自身の生に執着していないことが浮き彫りにした。


その歪さに男は不審に少女を眺めたあと、イタズラに口角をあげて立ち上がる。


気ままに少女を引っ張って部屋から出し、高下駄を履いて庭を歩く。


カラコロと鳴る足音に少女はもたもたして小走りに男についていった。


「あ、あの……?」


「ずっと部屋にこもっているだろう。庭は眺めるのも良いが、歩いてみるのも良い。広く美しい場所だ」


糸のように細く、艶やかに輝く男の髪。


庭よりもその繊細さの方が目を奪われる。


そう感じたところで少女の頬は紅潮し、パッと目を反らした。


(あ……)


視線が移ると眺めてばかりいた庭との距離が近くなっていた。


松の木、石畳の道、流れる水、木の橋。


隅々まで洗礼された光景。


見たこともない花があると、近くに来て庭の広さを実感する。


遠くで見るだけの世界はよく見ればたくさんの生き物が生息しており、池には紅白や金などの鯉がゆったりと泳いでいた。


橋の上から池を覗き込むと鯉が口をパクパクさせながら近づいてくる。


山菜採りに野菜づくりと決まった日々を送っていた少女にはすべてが新鮮だ。


草木の生い茂る自然もよいが、こうして趣のある計算された空間もよい。


眺めるだけでは抱かなかった生命の動きにだんだんと少女の頬はほころんで、心は弾みだしていた。


「美しいだろう」


「はい。それはとても」


「なら良い。私には持て余す庭だからな」


池の上にかけられた赤い橋の手すりを指でなぞる。


流水音に馴染む銀の髪が背に流れ、蒼い瞳は飲み込まれそうなほどに神秘的だ。


「私はまだそなたの名を聞いておらぬ。名は?」


つい見惚れていたが、男の問いに現実に戻る。


少女は餌をもらえないとわかって離れていく鯉の背を追いかけながら、唇を薄く開いた。


「……名はございません」


返答に男は目を丸くする。


「名がないだと?」


「はい。名をつけてもらう前に親はいなくなりました。貧困に苦しんでいましたから仕方ないことでした」


まるで他人事のように淡々と語る。


「養父からも名前をいただいていないのです。ずっと"名無し"と呼ばれておりました」


決まった原稿を読むようにつらつら説明する姿はあきらめの色が強い。


駄々をこねても致し方ないのだと少女は笑うばかり。


養父に住む場所を与えられていただけよかったとせっせと働き、生きることを許される場所として養父の背を見つめていた。


(それも意味はなかったけれど)


少女が話し終えると、沈黙が流れた。


こんなことを語っても自分に酔っているだけと思われる。


相手からどう見えるかも把握し、さらに少女自身も自語りを醜いと考えていた。


生け贄に説明されて厄介者と斬られてもおかしくない。


期待するだけ損だと目をふせると、男は少女の髪に触れ流れるように耳にかける。



「怒らないのだな」


親指でこめかみをなぞり、耳たぶを挟む。


「怒る?」


「いや、いい」


少女から手を離し、さっさと先に進む男。


言葉を飲み込んだ男の背を眺め、ひゅっと酸素を吸い込んだ。


「月冴(つきさ)」


「えっ?」


「私の名だ」


白檀の香りが風に乗って少女の鼻をくすぐった。


胸に針が刺さったかのようにチリチリと痛む。


なんだろうと胸に手を置いてみてもわからない。


「月冴さま……」


(わからないけど、今は追いかけてみたい)


これも期待の一種だろうか。


いつ月冴に見捨てられても平気なように少女は鉄壁を築き、普通の娘を装って月冴を追いかけた。

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