第50話 ささやかな挑戦の終わり

学校へと続く大通りを、蓮司は風よりも早く駆け抜けていく。

すぐに息があがるが、止まっている時間はないので、歯を食いしばってがむしゃらに走り続ける。

運良く赤信号に当たることもなく、いつもの待ち合わせ場所を通り抜けると、パンの香ばしい匂いが鼻についた。


『ここから、あと5分…!』


蓮司は遠くに見える時計塔の長針を凝視する。

このままでは間に合うかどうか、ギリギリといったところだ。

既に鉛のように重くなった足に力を込め、蓮司は最後のスパートをかける。

髪が大きく逆立ち、シャツが乱れているが気にしている余裕はなかった。


校舎にたどり着いた蓮司は、全力の早歩きで1年B組の教室へと向かう。

まだホームルーム開始のチャイムは鳴っていない。

なんとか間に合った蓮司は、勢いよく教室の扉を開いた。


「古川さん!」


クラス中が驚いてこちらを振り向くなか、蓮司は自分の席の隣、美咲の席を見る。

しかし、そこに彼女の姿はなかった。

唖然とする蓮司のもとに、小田切がやってくる。


「古川さんなら、さっき屋上に行くって言ってたぜ。」


なんだってーー。

時間はあとわずかしかない。慌てて駆け出そうとする蓮司に、小田切が声をかけた。


「おい蓮司、よく来たな。みんなお前が来るのを待っていたんだぜ。」


蓮司が教室のほうに向き直ると、そこにはクラスメイトのみんなが集まってきていた。


「早く行ってあげて。待たせたら悪いだろ?」

千葉がケラケラと笑いながら言った。


「漢を見せる時ですよ! 頑張ってください!」

内村が小さな体を精一杯使ってガッツポーズをする。


「羨ましいぞ、この野郎!」

根田が不細工な顔を歪ませて微笑んでいる。


その後ろでは、葵や茉莉、七菜やくるみが笑顔でこちらを見ていた。


「ありがとう。」


蓮司はみんなに向かってそう言うと、急いで屋上へと向かっていった。

階段を駆け上がり、ついに屋上に出る扉の前にたどり着く。

ドアノブに手をかけようとし――、ふと気がついた。

今の自分は汗びっしょりで、髪の毛だってめちゃくちゃだ。

こんな格好で美咲の前に行くわけにはいかない。せめて汗くらい拭こう。

そう思って鞄を探るが、肝心のウェットティッシュがどこにもなかった。

朝出る時に入れ忘れたらしい。


そうこうしているうちに、頭上のスピーカーからジーっという音がし始めた。もうすぐチャイムがなってしまう。

もう行くしかない。蓮司は意を決して屋上に飛び出した。


――まばゆい光に、一瞬だけ目が眩む。

だんだんと目が慣れてくると、屋上の真ん中に、ひとりの女の子が立っているのが見えた。

肩まで伸びた美しい黒い髪、くりっと大きな目に長いまつ毛、綺麗に整った鼻筋に、笑みを浮かべた口元。

それは現世に舞い降りた天使のように美しい少女――古川美咲だった。


「立花くん、おはよう。ギリギリセーフだね。」


美咲がそう言うと、学校中にチャイムが鳴り響いた。


「古川さん、これ…。」


蓮司は息を整えながら、彼女の書いた便箋を差し出した。

美咲は頬が少し赤く染まったかと思うと、ペコリと頭を下げる。


「あの、このあいだはごめんなさい! 私、どうしたらいいかわからなくなっちゃって、立花くんにひどいことしちゃった。」


蓮司は一瞬きょとんとしたが、すぐに先日の告白の時のことを言っているのだと理解する。


「そんな、古川さんが謝ることじゃないよ。いきなりあんなこと言った俺が悪いし。」


蓮司の言葉に、美咲はふるふると首を振る。


「違うの、私逃げたの。なんて答えたらいいのか考えてたら、すごく恥ずかしくなっちゃって。あんなこと言われたの、はじめてだったし、みんなも見てたし、それに…。」


美咲は一度言葉を切ると、恥ずかしそうに目を伏せる。


「それにあのとき、ほとんど裸だったし。」


蓮司の脳裏に、手ブラにビキニのパンツしか身につけていない美咲の姿が浮かんできたが、慌ててかき消した。


「だから、私、逃げたの。それがすごく申し訳なくて、悔しくて、立花くんに謝らなきゃいけないと思ってた。そしたら、立花くん学校に来なくなっちゃって…。」


美咲のつぶらな瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

言葉に詰まった彼女は、また少しだけ俯く。


「このままずっと、立花くんが学校に来なかったらどうしようって、そう考えたらすごく悲しくなっちゃって。全部私のせいだって思って、だから手紙を書いたの。」


美咲は震える声で、言葉を絞りだす。


「立花くんは勇気を出して告白してくれたのに、それに答えられなくて、本当にごめんなさい。」


美咲はぺこりと頭を下げると、そのままじっと動かない。

その様子に、蓮司はぼんやりと天を仰いだ。


思い悩んでいたのは、自分だけではなかったのだ。

蓮司は肩を震わす美咲の姿を見て、昨日までやさぐれていた自分が馬鹿馬鹿しく思えた。

本当に、自分のことしか考えてなかったな。


「違うよ、古川さん。俺はただ、自分が情けなくなって、部屋から出れなくなっただけなんだ。古川さんのせいじゃない。」


蓮司は美咲に優しく声をかけた。

顔を上げた彼女に、精一杯の微笑みを贈る。


「だから、古川さんが気に病むことはない。古川さんは悪くない。」

「ううん、そんなことない。それに、それだけじゃないの。」


美咲は蓮司の目をじっと見つめながら続けた。


「私、今まで男の人ってあんまり得意じゃなかったの。何て言うか、ちょっとしたことでも嫌らしい視線で見てきたり、すぐ破廉恥なことを言ったり、なんだか気持ち悪いって、ずっと思ってた。」


蓮司は、これまでのゲームで見てきた彼女の姿を思い出していた。

美咲は純粋なのだ。

純粋がゆえに、エッチなことには耐性がなくて、過剰なほどに拒絶する。

でも、エッチなことは、本当はそんなに悪いことじゃないはずだ。

人は愛し合って生まれてくる。

彼女もいつか誰かと愛し合う時が来るのだ。

あんまりエッチなことを拒絶するのも、正しいことではない気がした。


「でも、立花くんと一緒にゲームをして、そういう人ばかりじゃないってわかったの。立花くんも…ちょっとエッチだけど、それ以上に私を大切にしてくれるし、他の人みたいに嫌な感じがあんまりしなかった。男の人にもこういう人がいるんだなって思ったの。」


――少しだけ引っかかることを言われたが、蓮司は気にせず頷いた。


「そんなことを思ったのは、立花くんがはじめてだった。」


美咲はそこで言葉を切った。

しばらくの間、ふたりは無言のまま見つめあう。


「だから、私は私の気持ちを、ちゃんと伝えたい。」


そう言った美咲の目はもう、泣いていなかった。

力強い瞳には、星のような光がいくつも煌めいている。


「俺も…。」


蓮司も口を開いた。


「古川さんに会ってから、人生がまるで違って見えたんだ。こんなにも綺麗な人がいるなんて思いもしなかったし、見た目と同じくらい心が綺麗で、一緒にいるだけですごく幸せな気持ちでいられた。今までは適当に生きてきたけれど、古川さんと仲良くなるために色んなことを頑張ってたら、それも悪くないなって、思えるようにもなったんだ。」


美咲はしっかりと頷きながら話を聞いている。

少しだけ照れくさくなって、鼻の頭を触りながら続けた。


「俺も少し後悔していたんだ。どうせ告白するなら、この気持ちをちゃんと伝えればよかったって。あのときは勢いばかりで、突然すぎて、古川さんがびっくりするのもしょうがなかったと思う。」


美咲は目を細めると、少しだけ何かを考えている。


「立花くんもそう思うんだったら、お願いがあるの。」


美咲はゆっくりと、丁寧に言葉を選ぶ。


「もう一回だけ、告白してくれない? もう一度、あの時言ってくれた言葉を言ってほしい。今度は、私も、逃げないから。」


美咲の言葉に、蓮司は深く息を吸い込んだ。

平凡な人生を変えるため、ささやかながらも続けてきた挑戦。

すべてはこのために、この時のために。


「古川さん――。」


蓮司は拳を握りしめる。

潤んで霞んだ目を開いて、ただまっすぐに、美咲の瞳を見つめる。


「俺は、世界で一番君のことが好きだ。君を一生守りたい。だから――俺と付き合ってください。」


言葉が口から溢れ出し、空気を確かに震わせる。

美咲は嬉しそうな表情をしたあと、満面の笑みで、答えた。


「はい。よろしくお願いします!」


その瞬間、一陣の風が吹き抜け、美咲の髪を優雅に靡かせる。

どこまでも透き通る、真っ青な空に映えるその姿は、蓮司がこの世で見たもののなかで、最も美しい光景だった。


破廉恥ゲーム ~天使は裸を晒さない~ 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る