第2話 舞い降りた天使

「古川さん、おはよう。」


蓮司は自分の席に座ると、横を向いて美咲に話しかけた。

少し声が上ずっていたかもしれないが、まずまずの挨拶だ。


「立花くん、おはよう。ギリギリセーフだね。」


美咲は顔を上げると、蓮司に向かって笑いかけた。

その瞬間、まるで後光が差したかのように目の前がまばゆい光に包まれる。

入学してからもう3か月になるのに、未だに彼女の顔を直視すると周囲の景色が霞んでしまう。

光の中にいる彼女の姿は、控えめに言っても天使としか思えなかった。


「うん、なんとか間に合ったみたい。」


蓮司は声を絞りだして答えた。

彼女の反応が変わっていたかもしれないと思うと、結果的に遅刻しなくて良かったと言える。葵にはあとで感謝しないといけない。


「そうだ。桃子ちゃんが来る前に、これ。」


蓮司はそう言うと、出発前に丁寧に包んだ袋を取り出した。

周りに見えないように、机の下で美咲のほうへと差し出す。


「わあ、ありがとう! 続きを楽しみにしてたんだ。」


美咲は嬉しそうに袋を受け取ると、にっこりと目を細めた。

長いまつ毛の一本一本が美しく、微かに見える瞳は輝きを放っている。


手渡したのは、今大人気の漫画本だ。

呪いを武器に戦う主人公が悪霊を成敗する話で、最近アニメ化もされたので女の子でも知っている人は多い。

蓮司は昔からのファンなので単行本は全巻持っていたが、最近は本屋でもなかなか手に入らないらしく、クラスメイトからよく貸してほしいとせがまれていた。


しかし、当然彼らは二の次だ。

蓮司は美咲へ貸し出すことを最優先にし、こうして毎週のようにこっそり手渡している。

美咲は手にした袋を丁寧に鞄へとしまうと、先週渡した分を取り出した。


「いつもありがとうね。」


美咲の一言に蓮司は天にも昇る思いだった。

かろうじて保った意識で紙袋を受け取る。


「今回も展開がすごくて、読んででドキドキしちゃった。」

「古川さん、すっかりハマってるね。」


楽しそうに語る美咲に、蓮司は相槌を打つ。

思えば、こうして漫画の感想を言い合えるようになったのも、大きな進歩だった。


入学当初、蓮司は隣に座る美少女を見て、人生のすべての運を使い切ったと思った。

美咲は蓮司がこれまで出会った女性の中で誰よりも美しく、それでいてどこか愛らしさもある可憐な少女であった。

彼女の隣に座るだけで、蓮司は暖かな安らぎのようなものを感じたし、むしろ彼女から何か特別な力が発せられているとさえ思っていた。


しかし蓮司は、それから約2か月の間、彼女に一度も話しかけることができなかった。

これまでの人生で女の子とは縁遠い生活(葵を除いて、だが。)をしていた蓮司にとって、目の前の天使は遥か高嶺の花、触れることなどできなかったのだ。


転機が訪れたのは先月のこと。

小田切に貸していた例の漫画本を受け取ったとき、美咲のほうから蓮司に話しかけてきたのだ。


「立花くん、その漫画ってもしかして…?」


子供みたいに目を輝かせて、身を乗り出してきた美咲の姿は今でも目に焼き付いている。

それからというもの、漫画本を通じてふたりの交流が始まった。

感想を言い合ううちに、少しずつ世間話も増えてきている。


「来週期末テストだから、今回は急いで読まないと。」

「古川さんなら勉強しなくても大丈夫でしょ。」

「そんなことない、また点数悪かったら怒られちゃうし。」


美咲は少し目を細め、えへへと微笑む。

彼女の家は小さな病院を営む医者一家で、厳格な両親のもとで英才教育を受けているらしい。

もちろん漫画やゲームの類は禁止で、蓮司の貸した漫画本もこっそり読んでいるのだとか。


「いつもすごいよね。勉強もできるし、部活も頑張ってるし。」


蓮司の言葉はお世辞ではなく、本心からであった。

美咲は弓道部に所属していて、中学時代は大会でも良い成績を収めていたと聞いたことがある。

何もかも、自分とは正反対の存在なのだ。


「ありがとう。立花くんはいつも褒めてくれるね。今回のも読み終わったら、またお話しましょう。」

「うん。」


蓮司がそう返すと、美咲は前へと向きなおった。


そう、美咲との会話はいつもこれで終わる。

奥手な蓮司は、漫画本を介してしか彼女と会話することができない。

本当はもっと美咲の好きなものだとか、普段何をしているかだとか、色々なことを聞いてみたいのだが、どうしてもその勇気が出なかった。


彼女が読んでいるのはまだ中盤くらいなので、しばらくは大丈夫だが、漫画本という繋がりがなければ、また元のように何も会話しなくなってしまうかもしれない。


その前に、古川美咲と仲良くなること。

これが蓮司の、ささやかな挑戦だった。


毎週漫画本の貸し借りをする度に、蓮司は美咲に思い切って質問したりする。

うまくハマって会話が続くこともあれば、その場で終わってしまうことも多い。

まだコツは掴めていないが、少しずつでも、美咲との距離を縮めようと努力していた。


最新刊を貸すまでの間に、何か別の接点を持ちたい。

それだけで、蓮司の平凡な高校生活は、彩り溢れるものになると思っていた。

そして"いつか"は、もっと仲良くなって、ふたりだけで遊びに行ったりして、それから――。


「失礼するぞ!!」


蓮司の意識が妄想の世界に飛びそうになったその時、廊下から大声で叫ぶ声が聞こえてきた。

それと同時に教室の前の扉が勢いよく開け放たれる。


自由気ままにおしゃべりしていたクラスメイトは、途端に静まり返り、開かれたドアのほうを振り返った。

明らかに担任の桃子ちゃんではない。


みんなが固唾を飲んで見守る中、教室に入ってきたのは長い髪の女性であった。

女性は蓮司たちと同じ制服を着ている。つまり、この学校の生徒ということだ。

彼女は、クラス全体を見回すと、にやりと不敵な笑みを浮かべる。

その様子に、蓮司は嫌な胸騒ぎを覚えるのだった。

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