第1章 破廉恥ゲームのはじまり

第1話 幼馴染と平凡な高校生活

その1週間前――。


立花蓮司は古びた本棚の前に立っていた。

眉間に皺を寄せ、並んでいる本の背表紙を舐めるように見つめている。

半開きの窓から心地よい風が入り込み、自室の空気が少しだけ潤った感じがした。


夏という季節はあまり好きじゃない。

特に最近の夏は暑すぎる。街のはずれに住む俺は通学するだけでも一苦労で、学校につく頃には汗びっしょりになってしまう。

中学生くらいのころにはそれが原因でクラスの女子から避けられるようになったので、ウェットティッシュが必需品になった。今でこそ清潔に保つ術を身に着けているが、それにかかる出費は大きく、少ない小遣いを圧迫している。


ただ、夏の中でも早朝の時間だけは心地がよい。

先ほどの風は体感的にもちょうどよく、一日中こうだったら良いのにといつも思ってしまう。


そんなことを考えながら、蓮司は本の捜索を続けた。

この本棚も小学生くらいの頃から使っているので、だいぶ年季が入っている。

蓮司は大量にある漫画本の中から、ついに目当ての一冊を見つけると、傷をつけないように慎重に取り出した。


取り出した後も、汚れや埃がないか入念に確認する。

この漫画本が重要な役割を担っているのだ。

平凡な高校生活に、終止符を打つかもしれない挑戦。

この一冊がその命運を左右するので、一切の粗相は許されない。

外観に問題がないことを確認し、念のため匂いも嗅いでみたが、乾いた紙の匂いがするだけだった。


蓮司はその本を丁寧に袋に詰めると、鞄の中に押し込む。

この袋は先週雑貨屋で買ってきたもので、蓮司の部屋には似つかわしくない、可愛らしい熊がプリントされたものだった。


そろそろ出なければいけない時間だろうか。蓮司はいつもよりも慎重に鞄を肩にかけ、壁にかかった時計を確認し――遅刻ギリギリであることを悟ると、慌てて部屋を飛び出した。


「蓮司! 朝ごはんは!?」

「いらない!」


母親の呼びかけに答えながら、蓮司は急いで靴を履き替える。

ごはんなんて食べていたら完全に遅刻だ。昼ごはんまでは鞄に入れたお菓子で凌ぐしかない。

勢いよく玄関扉を開けると、そこには蓮司と同じ高校の制服を着た少女が立っていた。


「蓮司遅いよ。遅刻しちゃう。」


彼女は幼馴染で同級生の、小鳥遊 葵(たかなし あおい)だ。

装飾のない眼鏡越しに、ぶすっとした顔を覗かせている。


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「悪い! 気づいたら時間過ぎてて…。」

「それ、いつも言ってるじゃない。ほんと成長しないわね。」


葵が呆れたように首を振る。


「それに、朝ごはん食べないと、頭回らないよ。」


先ほどの母親の声が聞こえたのだろうか。付け足すような葵の一言に蓮司は少し赤面する。


幼馴染の葵はいつも手厳しい。

昔はおとなしい子だったのだが、年を重ねることに口うるさくなり、何かとおせっかいを焼くようになっていた。

最近では遅刻癖のある蓮司を心配し、こうして毎朝迎えにまで来る始末だ。


「ほら早く。小田切くんも待ってるよ。」


葵は急かすようにそう言うと、少し早いペースで歩きはじめた。

蓮司も遅れないように慌ててついていく。


ふたりは家の前の道を曲がり、細い路地を抜けると、大通りに出る。それなりに交通量のあるこの道路が、学校に続く最短ルートだった。ちゃんと時間どおりに出ていれば同じ制服の生徒がたくさん歩いているのだが、既にその姿はほとんどない。


葵はさらにペースを上げ、小走りで通学路を駆け抜けていく。

テニス部の葵は体力があるだろうが、運動とは縁遠い蓮司にはついていくのがやっとだった。


ふと、先導する葵の後ろ姿を見ると、お尻のあたりで、ひらひらとスカートが舞っていた。

決して短いとは言い難い長さだが、走る体に連動して、裾が捲れそうになっている。

あと少しで、スカートの中にある別の布地が見えそうだ。既に葵の健康的な太ももの、大部分が見え隠れしている。

蓮司の注意は自然とその絶対領域に吸い寄せられ――、どんどん距離が離れていることに気が付き、慌てて足を動かした。


大通りは交差点にぶつかり、信号待ちで立ち止まった葵にようやく追いついた。

交差点を超えた先、目の前にあるパン屋が、いつもの待ち合わせ場所だ。

6車線の道路越しに、制服を着崩した男子生徒がいるのが見える。こいつも幼馴染で同級生の、小田切 幹太(かんた)だ。


青信号になり、ふたりはパン屋の前までたどり着いた。

ほんのりと焼きたての美味しそうな匂いが漂ってくる。

小田切はこちらに気が付くと、眉をくいっとあげて挨拶した。


「うっす。今日こそ遅刻するかと思ったぜ。」


軽口を叩く小田切とも、葵と同じ小学生以来の付き合いだ。

葵が俺を迎えに来るようになってから、なりゆきで小田切も一緒に登校することになっている。


「今日は正直危なかったわ。うちの小姑に感謝だな。」

「誰が小姑だって?」


すごむ葵のツッコミを無視しつつ、蓮司は学校へと足を向けた。

まだ時間的にはギリギリだ。

勢いよく駆け出すも、案の定、すぐに葵に追い抜かされる。

小田切も慌ててついてくるが、同じ帰宅部同士、走り慣れていないのがすぐにわかった。


大通りを駆け抜け、蓮司たちの学校――私立若葉学園高校の建物が見えてくる。

創立100年を超える古い高校だが、財政状況は良いらしく、最近新しい校舎を建てたばかりである。

その新校舎の時計塔の針を見て、蓮司は葵に声をかけた。


「なあ、もうちょっとゆっくり行こうぜ。たぶん間に合うだろ。」

「だめよ。ここから走っても5分はかかるから、ぎりぎり間に合わない。」


葵が携帯電話を片手に答えた。

全く取り合う気のない彼女に、小田切も息を切らしながら声をあげる。


「少し遅れたって大丈夫じゃないの? 桃子ちゃん、たぶん時間どおり来ないぜ。」


桃子ちゃん、というのは担任の佐藤桃子先生のことだ。

蓮司が言うのもなんだが、先生の割に時間にルーズであるため、ホームルームが時間どおりに始まったことはない。


「そう言う問題じゃない! 学級委員が遅刻なんてしたら、示しがつかないでしょ。」


葵はそう言うと、携帯電話をしまった鞄を肩にかけなおす。

蓮司は小田切と顔を見合わせ、また始まったと苦笑した。


気さくな性格で、誰とも仲良くなれる葵は、入学直後のホームルームで学級委員に推薦された。

本人は名誉なことだと快く引き受けたが、責任感が強いのか、それ以降何かにつけて『学級委員だから』と言うようになった。

蓮司と小田切は、そんな彼女をよくからかっている。


三人はようやく学校までたどり着くと、靴箱にローファーを放り込み、廊下を早歩きで進んでいく。

1年B組の教室は玄関口から少し離れたところにあるので、この間も気が抜けない。

教室の扉の前に到着したのは、ホームルームが始まる2分前だった。


「ふー、なんとかなった。」


葵はそう言うと、ガラガラと扉を開けた。

予想どおり桃子ちゃん、もとい佐藤先生はおらず、クラスメイトはまだ思い思いに雑談している。


葵と小田切は教室を横切ると、黒板の目の前にある席に座った。

奇しくもふたりは隣の席同士である。

蓮司はというと教室の左後ろ、窓際の席なのだが、そちらに向かう前に鞄からウェットティッシュを取り出した。


席に近づく前に身だしなみを整えなければならない。

彼女の前で醜態を晒すことは、蓮司の学校生活において最も避けるべきことだった。


蓮司は入念に顔の汗を拭きとり、息を落ち着かせると、意を決して自分の席へ向き直った。

教室の左隅――、蓮司の隣の席に、可憐な少女が腰かけていた。


彼女は前を向いていたが、その横顔はまるで古代ローマ帝国の彫刻のように美しい。

肩のあたりまで伸びた黒髪は艶やかで乱れが一切なく、清楚という言葉は彼女のためにあるのだと確信する。

まだ席まで距離があるにも関わらず、なんだかいい匂いまでしてきているようだった。


彼女――古川 美咲が蓮司の隣の席に座る女子生徒だ。

そして美咲こそが、蓮司が学校に通い続ける最大の理由だった。

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