恋の訪れ

@yuki_star

恋の訪れ

 ある町の隅に歴史のある図書館が佇んでいる。窓から差し込む柔らかな光は、古びた木製の本棚を温かく照らしている。私は、いつも通りに図書館の閲覧席に座り、本を読んでいた。

 

 この図書館に通い始めてから、もう三年が経った。本を愛する私にとって、静かな環境で本に囲まれて過ごす時間は、かけがえのないものだった。

 毎週土曜日になると、決まって午前十時頃に一人の青年が図書館にやってくる。彼の名前は、翔吾。彼はいつも決まった席に座り、黙々と本を読み始める。背が高く細身の彼は、短く切り揃えた黒髪と眼鏡で知的な印象を与えている。彼の静かで穏やかな表情は、図書館の雰囲気とぴったりだ。

 翔吾との出会いは約一年前だった。本を探しているとき、うっかり本棚にぶつかり、本が一斉に床に落ちてしまった。その日は特に人が少なく、静かな土曜日だったので、落ちた本が響く音が大きく感じられた。焦りながら本を拾っていると、背の高い青年が近づいてきて、「手伝いましょうか?」と言ってくれた。その青年が翔吾だった。それ以来、図書館で彼を見かけるたびに、自然と目で追うようになっていた。会話を交わすことはほとんどなかったが、彼の姿を見ているだけで満足だった。


 しかし、その日は違った……。


その日も翔吾が入ってくるのを見かけた。彼は軽く会釈し、本棚の間をゆっくりと歩き、目当ての本を探し始めた。私は静かな図書館の中で、その姿を遠くから眺めていた。翔吾がどんな本を探しているのか、自然と興味が湧いてくる。


 午後になり、来館する人も落ち着いた頃、私は時折聞こえる紙をめくる音に包まれながら、本に没頭していた。古びた本の匂いと静かな図書館の雰囲気は、日頃の疲れた心を癒してくれる。

 その時、ふと「すみません……」という声が耳に入った。驚いて顔を上げると、目の前に翔吾が立っていた。彼は少し表情がこわばっていた。

「こんにちは、翔吾さん。どうしましたか?」

 翔吾は少し間を空けてから、意を決したようにゆっくりと口を開いた。

 「実は、探している本があるんですが、どこにあるかわからなくて。『アガパンサスの森』っていう本なんですけど……」

「その本なら、あちらの方にありますよ。」

 案内しながら、私は動悸が収まらなかった。今まで翔吾とは挨拶をすることはあっても会話をすることはほとんどなかったからだ。驚きとともに自分の心が少し躍っていることに気づいた。本棚の前に着くと、私は『アガパンサスの森』を翔吾に手渡した。

「どうぞ。」

「ありがとうございます、詩織さん。」翔吾は嬉しそうに本を受け取り、感謝の言葉を述べた。そのあどけない笑顔に、自然と笑みを浮かべてしまった。

 

 その後、図書館の閉館時間が近づき、私はそろそろ帰ろうと席を立った。ふと翔吾がもう帰ったかどうか気になり、辺りを見渡すと、窓際の席で翔吾がまだ本に夢中になっているのが見えた。まるでその本の世界に完全に入り込んでいるようだった。その姿を見ていると、思わず見惚れてしまった。その瞬間、翔吾が顔をあげて目が合った。私は、慌てて会釈をし、顔に熱が集まるのを感じながら、急いでその場から離れた。ドアを開けると初冬の冷たさが私を包んだが、顔に集まった熱が冷める気配はしなかった。

 家に着くと、私は翔吾との会話を思い返していた。翔吾のことを考えると、心の中で何かがじんわりと広がるのを感じた。自分が妙なことをしていないかと不安が胸をよぎったが、それ以上に彼とまた会えることを期待していた。次の土曜日が待ち遠しい。

 次の週の土曜日、私は早めに図書館に向かった。翔吾が来るのを心待ちにしながら、いつもの席で本を読み始めた。時間が過ぎ、翔吾が入り口から入って来るのが視界に入った。彼はいつものように会釈をし、目当ての本を探し始めた。その姿を見ながら、あまり凝視してはいけないと思い視線を再び本に戻した。

 しばらくして、翔吾は私の近くの席に座り、本を開いた。彼との距離がいつもより近いことに、胸が高鳴っていた。私は本に集中しようとしたが、彼のことが気になって仕方がなかった。そのことを知ってか知らずか、翔吾は本を閉じ、私の方に視線を向けた。

「詩織さん、今大丈夫ですか?」彼は静かに尋ねた。

 「大丈夫ですよ、どうかしましたか?」

「改めて、先週はありがとうございました。全然、見つからなかったので助かりました。」

 「どういたしまして、お役に立てて良かったです。」私は微笑んで答えたが、心の中では彼との会話に胸が躍っていた。それと同時に、せっかく翔吾が話しかけてくれたのに、ここで終わってしまったら次に話す機会を逃してしまうだろう。私は小さく深呼吸をし、口を開いた。

「アガパンサスの森、面白いですよね!」緊張のせいか、声が少し上擦ってしまった。穴があったら入りたい……。

 翔吾は一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで答えた。

「そうですね、詩織さんも読んだことがあるんですか?」

 「はい、大好きな本です。物語の中に引き込まれて、時間を忘れてしまいます。」

「わかります。特に主人公の成長と、アガパンサスの森の描写が素晴らしいですよね。」翔吾は楽しそうに話を続けた。

 その会話の中で、徐々に緊張がほぐれていくのを感じた。

「もしよければ、別の場所でお話ししませんか?ここは、図書館ですし……」心做しか、翔吾は少し照れくさそうに見えた。

「いいですね!」きっと、私の顔は満面に笑みを浮かべているだろう。私たちは、図書館を出て、近くにある大きな公園へ向かった。歩いている間も、翔吾との会話が途切れることはなかった。公園へ着いた後も、翔吾と本の話や世間話などで盛り上がり、時間があっという間に過ぎていった。日がすっかり沈み、辺りが夜の色に染まった頃、翔吾と私の間には、しばらくの沈黙が流れていた。

「そろそろ、帰りましょうか。」翔吾が時計を見ながらつぶやいた。

「そうですね……」私は、楽しい時間があっという間に過ぎるのは本当だと思った。私たちは立ち上がり、公園の出口へ歩き始めた。木々が立ち並ぶ公園内は、昼間とは違って静寂に包まれていた。木たちの話し声も聞こえないほど、あたりは静かだった。公園の出口にたどり着くと、翔吾が立ち止まり、私の方を向いた。

「今日は本当に楽しかったです。」翔吾は微笑みながら言った。彼の髪が街灯に照らされ、輝いていた。

「こちらこそ、楽しかったです。では、また。」私は笑顔で答えたが、もう少しだけ一緒にいたいと思った。

「そういえば、連絡先を交換しませんか?」翔吾の顔を見ると、寒さのせいか、頬が少し赤くなったいた。

「もちろんです!」私は、微笑みながら答えた。ポケットからスマートフォンを取り出し、お互いの連絡先を交換した。

「ありがとうございます。それでは、暗いので気をつけて帰ってください。」翔吾はそう言いながら、軽く手を振った。

 「翔吾さんも、どうぞ気をつけて。」私は微笑みながら、手を振り返した。

 彼が少しずつ遠ざかっていくのを見送りながら、私はその背中をじっと見つめた。冬の冷たい空気が頬を撫でるけれど、不思議と心は温かかった。

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