第1部 エルフの姉妹

プロローグ

 夜が明け、燦燦と輝き暖かな光を地上に贈る陽が世界を照らす朝。


「起きてください、お師匠様。もう朝の十時です。流石に寝すぎですよ」

「ん、ぅ……」


 天空図書館の屋上、関係者以外の立ち入りが禁止された空中庭園にて。無数の花々が咲き誇る芝生に寝転がり、心地良い微睡に身を任せていたアリエスは鼓膜を揺らした声に重い瞼を持ち上げた。

 寝起き特有の霞んだ視界。

 光を取り込み、徐々に鮮明になっていく視界に映っていたのは、一人の美しい少女だった。


 陽光を浴びて輝く艶やかな銀糸の長髪。極僅かに緑が混じるアクアマリンの双眸。シミや皴が一つもない、潤いに満ちた素肌。細身でありながらメリハリのある肢体。表情の機微に乏しい端正な顔は、彼女を人形のように錯覚させる。無論、彼女は無生物ではなく、命ある生物だ。


 見目麗しい乙女。

 真上からアリエスを見下ろす彼女は、呆然と自分を見つめるアリエスに、クスっと笑った。


「まだ夢の中にいるのですか、お師匠様」

「どうだろう。もしも夢の中にいるのなら、覚めるためにもう一度瞼を下ろさなくてはならないね」

「二度寝しようとしないでください。ここは現実ですから」

「わかってるさ」


 ここで二度寝をしようものなら、今度は確実に説教をされてしまう。しかも、小一時間にも及ぶ長い説教を。

 それは勘弁してほしい。その後のご機嫌取りも大変なのだから。

 これまでの経験から判断したアリエスは下ろしかけた瞼を再び持ち上げ、腹筋に力を入れて起き上がり、グッと背中を伸ばした。凝り固まっていた筋肉が解れ、各所からポキッ、と音が鳴る。


 簡単なストレッチを済ませた後、アリエスは少女に朝の挨拶をした。


「おはよう、ラナ。今日も良い天気だね」

「おはようございます、お師匠様。それと、それは早朝の台詞ですよ。もっと早くに起きてください」

「ごめんごめん。昨晩は夜の妖精たちとお喋りをしていてね。すっかり、眠るのが遅くなってしまったんだ」

「眷属を大事にするのはとても良いことだと思いますが、ご自身の生活サイクルに配慮するよう命じてください」

「善処するよ。まぁ確かに……夜の妖精たちに時間を割き過ぎると、ラナとの時間が減っちゃうからね。努力する」

「お願いしますね。……では」


 夜更かしの件はこれでおしまい。

 と、話を切り上げたラナは両腕を大きく広げ、アリエスに身体の正面を向けた。


 言われなくてもわかっている。これはハグを要求しているのだ。互いに抱きしめ合い、身体を密着させることを、ラナは強く望んでいる。

 日課なのだ。いつの頃から始めたかは憶えていないが、アリエスとラナは朝起きたらまず、最低五分間のハグをする。彼女曰く、ハグをするとかなりの活力を得ることができ、一日を元気に過ごすことができるのだという。


 本当にそんな効果があるのかは定かではないが、たった一人の愛弟子の頼み。それを拒否するほど、アリエスは冷たくない。寧ろ、存分に甘やかす。本人が満足するまで幾らでも付き合ってやろうというスタンスだ。


 毎日のことなので特に何も思うことはなく、アリエスは正面からラナの身体を抱きしめた。

 すると、彼女はすぐに自らの体重をアリエスに預ける。


「凄く落ち着きます……」

「なら良かった。今日はどれくらいする?」

「私が満足するまでです」


 明確な時間は答えず、ラナはアリエスの胸に顔を埋めた。


「良い匂いがします。お日様の香りですね」

「妖精王だからね。そんな香りがするのは当然だよ」

「関係あるので?」

「あるさ。嫌な体臭だったら、花の妖精たちに嫌われてしまうからね」

「なるほど。確かに、お日様が嫌いな妖精はいませんからね」


 遠慮や手加減なしに体臭を嗅ぎ続けるラナ。無意識なのだろう。抱擁の力が強くなる。

 しかしそれを黙って受け入れ、アリエスはラナの綺麗な髪を撫でた。


「いつまで経っても、ラナは甘えん坊だね。師匠離れができるのか心配だ」

「安心してください、お師匠様。私は師匠離れをする気がありませんので」

「何も安心できないよ。というか、ずっと僕の傍にいるつもりか」

「当然です。好きな人から離れようとする者はいませんから」


 顔色も表情も、声音も、何一つ変化させず、ラナはサラリと驚きの告白をした。

 否、既に驚くものではない。ラナは常日頃からアリエスに対して好きという気持ちを言葉で、行動で、形で伝えている。親愛だけではなく、恋愛の好きを。

 そのためアリエスも特に狼狽えることなく、少しだけ肩を竦めた。


「全く、こんな老いぼれの何がいいんだか」

「老いぼれではありませんよ。年齢はともかく、貴方ほど美形で若々しい老人はおりません」

「精神はとっくにくたびれているんだよ。最近の若い子たちがどんな趣味を持っているのか、何が流行っているのか、全くわからないし。ラナには、君と同じ年頃の男の子と色恋をしてほしい。街に出れば、十八歳くらいの子なんて幾らでもいるだろう」

「無理です」

「即答か」


 ラナは抱きしめる力をさらに強めた。


「お師匠様はご自身が巷で何と言われているかご存じですか? 世界で最も美しい王様ですよ。そんな貴方の傍にで過ごし続けて、他の殿方に目移りすることができるとでも?」

「人は外見だけじゃないよ」

「内面でも、貴方に勝る人はいませんよ。助力を求める者にはすぐに力を貸しますし、しかも対価も貰わない。先日のアングテラ王の一件も、何の対価も受け取らずに助力したそうですね」

「迷える子供を導くのは、年寄りの役目さ」

「…………そろそろ世界中から届けられたラブレターが三十万通を超えました。そろそろ処分するべきでは?」

「送ってもらったものを捨てるのは忍びなくてね」

「もう」


 呆れた様子で溜め息を吐いたラナは抱擁を解き、むぅ、と頬を膨らませた。


「私が他の殿方と色恋ができなくなったのはお師匠様のせいです。責任を取るべきです。取ってください、責任。せ~き~に~ん~」

「受け取り拒否」

「いいですか、お師匠様」


 自分の胸に手を当て、ラナは続けた。


「愛とは巡るものです。与えた分だけ返ってくるもの。私はお師匠様に沢山の愛を贈りました。そろそろ、お師匠様からも私へ愛を贈ってください。私は泣いて喜びますよ?」

「愛は要求するものじゃない。相手が自発的に贈るまで、待つものだ」

「でも要求しないとお師匠様はいつまで経っても返してくれないではありませんか」

「返しているだろう。親愛のだけどね」

「……意気地なし」

「倫理を尊重していると言いなさい」


 このまま続けても話は平行線のままだな。

 判断したアリエスは立ち上がり、図書館へと続く扉のほうへと歩き始めた。それを見たラナはすぐに不満顔を消し、アリエスの隣に並んだ。


「本日のご予定は?」

「特に依頼が入っているわけでもないからね。魔法の研究を進めたいけど……その前に、久しぶりに図書館で頑張っている子たちを見に行こうかな」

「お師匠様。必ず認識阻害や変身をしてくださいね。パニックになります」

「わかってるさ。バレないようにするよ」


 ラナの忠告に頷き、アリエスは扉を開けて館内へと入った。

 自覚するほどに、心を小躍りさせながら。

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