第4話 大切な人が愛した自分のままで
時は進み、暗い夜空に大きな三日月が君臨した夜。
「……よし」
王城内にあるアトリアの私室前に立っていたイザールは小さく呟き、心を落ち着けるための深呼吸を行った後、扉をノックした。
「アトリア」
いつもと同じように愛娘の名を呼ぶ。返答はない。扉の向こうから聞こえる音は何もなく、ただ静寂が続くだけである。
ここまでは普段通り。昨日までの自分であれば、落胆に肩を落として引き返す。
いつか、部屋から出てきてくれと願いながら。
今日は違う。
今日はここでは帰らない。
言われたのだ。彼の偉大な妖精王に、この部屋で待っているようにと。命令を無視するわけにはいかない。約束を違えるわけにはいかない。
イザールは緊張で微かに震える手を制し、数舜の間を空けた後、意を決して扉を開き室内へと入室した。
とても薄暗い部屋だった。壁の間接照明や机上の燭台には一切の火が灯っておらず、唯一の光源はカーテンの隙間から差し込む月光のみ。
また、とても整理が行き届いている。綺麗にしているという次元ではない。人間が生活している形跡がまるでないのだ。椅子は等間隔に並べられており、表に出ている衣服などは皆無。ゴミ箱の中は空っぽであり、暫く人が立ち入っていないようにすら思えた。
そんな部屋の窓際。
月光に照らされた白いベッドの上に、アトリアはいた。
我が娘ながら美しい。
イザールに似た金糸の髪と、クルハから受け継いだ翠色の瞳。大人になれば、さぞかし美しい女性になることだろう。
月光に照らされた髪はそれを反射して輝いている。一年前から変わらない、美しい艶やかな髪質のままだ。部屋からほとんど出てはいないが、髪の手入れは欠かしていないらしい。
その理由はきっと……母に髪を褒めてもらったことがあるからだろう。
大好きな母に褒めてもらった髪のままでいたいと思っているから。
少し背が伸びたかな。
イザールがそんなことを思いながら見つめていると、視線に気が付いたのか、アトリアは胸に枕を抱いたままイザールを見た。
「……パパ」
久しぶりに聞いた娘の声。
それにイザールは感動に近いものを感じつつ、彼女の座るベッドへ近寄った。
「すまない、アトリア。お前の返事もなく入ってしまって」
「うぅん、パパは悪くないよ。部屋から出ないで、ずっと引き籠ってる私が悪いんだもん」
でもね。
夜風が入り込む開け放たれた窓の外、夜空にポツンと浮かぶ三日月を見つめながら、アトリアは枕を抱く力を強めた。
「何も、何もする気が起きないの。本を読む気も、勉強する気も、音楽を奏でる気も……。何もしたくないの。頑張っても、もうママは褒めてくれない。一緒にいて話を聞いてくれることもない」
「……」
「ねぇ、パパは悲しくないの?」
「悲しいよ」
ベッドの傍に設置されたサイドテーブル。
その上に飾られた家族三人の写真を見つめ、イザールは答えた。
「パパも辛い。ママに会いたいし、ハグをしたいし、傍にいたい。声を聞きたい。恋しくて仕方ないよ」
「私と同じだ」
「そうだな。実をいうとね、ママが死んでしまった時、パパも自分の部屋に引き籠って泣いていたんだ。何もする気が起きなくて、なんでママは死んじゃったんだって、落ち込んでた」
「……じゃあ、どうして今は頑張ってるの?」
「それは──」
民のため。王としての責任を果たすため。
頭の中に浮かんだのは、そんな堅苦しい理由ばかりだ。それは嘘ではない。事実に相違ない。王としての責任は重大で、途中で投げ出すことなどできない。
自分には先祖から代々継承されてきた国を守り、この土地で生きる民を幸福にする義務がある。その責任感が自分を突き動かしたというのは、本当のことである。
けれど……違う。そうではない。
今、悩める娘に話すべきは王としての理由ではなく、父親としての、一人の男としての理由だ。
どうして立ち直ることができたのか。
責任感以外の理由。それは──。
「いつまでも落ち込んでいたら、天国に行った時にママから怒られちゃいそうだからな」
「天国で?」
「あぁ。それにな、アトリア」
アトリアの頭に手を乗せ、イザールは続けた。
「ママは、一生懸命頑張っているパパを好きになったんだ。たとえ死んでしまって、もういなくなってしまったとしても。パパは、ママが好きなパパであり続けたいんだよ」
嘘偽りのない本心だ。
天国なんてものが本当にあるのかはわからない。死んだ先にあるものは、無限の虚無だけなのかもしれない。
けれど……もしも本当に、天国で再会ができるのならば。
その時は『落ち込み続けちゃ駄目でしょ』という叱責よりも『頑張ったね』と褒めてもらいたいのだ。
怒り顔ではなく、笑顔を向けて貰いたい。
そんな、人が聞けばくだらないと笑い飛ばすような願いが、イザールを動かしたのだ。
「アトリアも、この部屋にずっと引き籠っていたら……ママに怒られちゃうかもな」
「……でも、私は──」
頭の乗せられた手を払い除けることなく、アトリアは表情に陰を落とし口元を枕に押し当てた──その時だった。
──ハープの音色が鼓膜を揺らしたのは。
繊細で綺麗な優しい音色だ。精巧なガラス細工のように、細かな美しさが感じられる。
リズムは遅い。まるで穏やかな川の流れのように、ゆったりとしている。
耳を傾ければ心が癒され、つい心地良い眠りに就いてしまいそうな、そんな音。
この唄には、聴き憶えがある。
忘れていない。忘れられない。最も大切な記憶の格納庫に、大切に保管されている。絶対に失くしてはならない記憶だ。
だって、この音色は……この唄は──。
「ママの唄だ」
アトリアは呟いた。
そう。これは天国にいるクルハが、愛する家族によく聴かせた唄なのだ。プロと比較しても遜色ないほどの、ハープの腕前を持つ彼女が、最も聴かせた唄。
唄の名は知らない。
もう二度と、聴くことは叶わないと思っていた。永遠に、再会することはできないのだと。
一体誰だ。誰がこれを奏でている。
幻聴ではない。確かに唄は空間に鳴り響いているのだ。何処かに奏者がいるはずだ。
唄を奏でる者を探して、イザールは視線を部屋のあちこちに散らした。
今、この部屋の中にはイザールとアトリアの二人のみ。それ以外の者はいない。いるはずがない。
となれば、外。
短い思考の中で推測し、イザールは室内から開放された窓へと顔を向け──。
「こんばんは、可愛らしいお姫様」
神秘の妖精王の声が聞こえた。
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