第3話 頑張ったね
「安心しなよ。人は水の影響を受けない。勿論、本もね」
水で満たされた図書室の中から、アリエスは扉の前で立ち止まっているイザールに呼びかけ手招きした。
幻想的、という言葉では足りないほどの部屋だ。
まるで深海に沈んだ古代都市にやってきた気分になる。膨大な数の書物が納められた本棚の間を魚たちが自由気ままに泳ぎ回り、ガラス張りになっている天井から差し込んだ陽光が屈折して揺れている。
あちこちから生まれた気泡は浮力に従って上へ向かい、珊瑚や水中植物は動かないままそれをジッと見上げている。
何処からどう見ても、瞳に映る景色はここを水中だと言っている。
だが不思議なことに、入室し水中に身体を浸したにも拘わらず、身体は全く濡れない。水の抵抗も皆無。浮力の影響もなし。付近の机に置かれていた書物を手に取りページを捲るが、湿り気すら感じられない。
不思議な感覚だ。
視界からの情報と、実際の事象が一致しない。水の中にいるのに濡れないなんて……。
イザールは生まれて初めて体験することに困惑しつつ、アリエスに尋ねた。
「これは、どういう原理なのでしょうか?」
「僕の魔法、ということがわかればいい。原理は説明してもわからないよ。人間の魔法と魔人の魔法、更には妖精魔法の合成応用理論を四十年ほど勉強しないと理解できないからね。凄く高度な魔法さ」
「……では、質問を変更します。どうして、この部屋は水で満たされているのですか?」
ただ本を納めるだけであれば、態々水で満たすような真似はしない。何か理由があるはずだ。お洒落とか、気まぐれとか、そういうものではない理由が。
イザールの問いを受けたアリエスは近くの本棚から一冊の書物を取り出し、その表紙に視線を落としながら、答えではなく質問を返した。
「君は、キシリアロス大図書館を知っているかな」
「確か、聖魔大戦の際に、人間側によって炎を放たれ全焼した、魔人側の図書館……でしたか。凄まじく高度な魔法が記された書物が幾つも存在していましたが、図書館の全焼と共に全て失われた、と」
「全てではないよ。ここにあるからね」
「……え?」
呆然と声を零したイザールに、アリエスは続けた。
「この部屋にある書物は全て、キシリアロス大図書館に所蔵されていたものだ。図書館が全焼する前に、僕が可能な限り回収しておいたんだよ。無論、これでも全体の二十分の一程度しかないけれど」
「これ、全部が……」
驚愕に開いた口が塞がらなかった。
聖魔大戦の最中に図書館は幾つも消失したのだが、その中でもキシリアロス大図書館の書物は特に価値が高いとされている。それこそ、一冊ですら一財産を築くことができるほどの。
それが目算でも、数万冊。この部屋にあるものだけで、国家予算何年分の価値があるのか……想像すらできない。
手に取った書物を本棚に戻し、何処に置いてあったのか、アリエスは透明な水晶玉を持ってイザールに歩みよった。
「この子たちは一度、炎に包まれた。だから僕は、この部屋を水で満たしたんだ。子の子たちがもう、燃えることがないように」
「……優しいのですね」
「年を取ると、物に愛着が湧くんだよ。それより、ほら」
アリエスはイザールに水晶玉を手渡し、次いで、自らのこめかみに人差し指を当てた。
「その水晶玉を強く握ったまま、家族との楽しかった思い出を頭に浮かべるんだ」
「思い出を? 一体何のために……」
「それは勿論、君の娘を救うためだよ。正確には君の娘と、君自身の心を救うためだね」
「……?」
「変に悩まない。いいから、ほら。早く思い浮かべてよ」
イザールはいまいち理解できていないのだが、アリエスは詳細な説明をせず、ただ急かすだけだった。
圧倒的に足りないアリエスの説明と、イザールの納得。
本当はもっと詳細な説明を求めたいところなのだが、アリエスはイザールよりも格上といえる立場。助力してもらっている以上、強く言うことはできない。
そんなことでアトリアの心が救えるとは到底思えないが、他でもない妖精王の指示。信じて、やるだけやろう。
諦め、イザールは言われた通りに水晶玉を強く握り、家族との思い出を思い浮かべた。
楽しかった思い出は幾つもある。
外遊先の海水浴で遊んだこと。葉が色移りする秋には山へ散策に行ったこと。雪が降り凍結した湖に穴を開けて小魚釣りをしたこと。
季節の行事だけではない。
三人で囲んだ食卓も。
寝室でアトリアと共にクルハが奏でるハープを聴いたことも。
ソファに並んで座り、一緒に本を読んだことも。
全てが楽しく、尊い記憶だ。一生忘れたくない、美しい大切な思い出。
溢れ出る思い出は尽きない。考えれば考えるだけ溢れてくる。
止まらない。止められない。クルハとアトリア、彼女たちと共に過ごした全ての時間が、イザールにとって宝物だった。
気が付くと、目尻から涙が溢れていた。零れていた。
妖精王の前でみっともない姿を晒してしまった。少し恥ずかしい。早くこれを拭おう。
悲しみと僅かな羞恥を抱き、イザールは腕で乱暴に目元を拭った──時。
「十分だよ」
アリエスがイザールの肩を優しく叩き、強く握っていた水晶玉を回収した。
次いで、謝った。
「すまない、イザール」
「何を謝る必要があるのですか、妖精王」
「謝るさ」
アリエスは水晶玉に視線を落とした。
「君に思い浮かばせたのは、絶対に忘れたくないほどに大切な思い出だ。けど、眩く美しいその記憶は今、君の心を締め付けるものだろう。辛い思いをさせたのだから、謝るのは当然のことさ」
「……私が涙を流した甲斐はありましたか?」
「ああ、勿論」
頷いたアリエスは、パチン、と指を鳴らした。
それが合図だったのだろう。部屋の最奥、本棚の間から一匹の亀が姿を見せ、赤い甲羅の背に乗せた一冊の書物をアリエスに届けた。
それは?
イザールが尋ねる前に、書物を手に取ったアリエスは亀を下がらせ、言った。
「今回の依頼は、母を亡くした失意から部屋に引き籠る王女殿下を元気づけることだ。イザール。君が大切な記憶を見せてくれたことで、それを成すための方法と魔法を見つけることができたよ」
「! で、では──」
「今夜だ」
興奮気味な声を遮り、林檎二つ分ほど浮き上がったアリエスはイザールを少しだけ見下ろしながら続けた。
「今夜の十時頃、君はアトリアの私室に入りなさい。カーテンを開けて、窓を開放して、その時を待つんだ」
「……それをすれば、アトリアは元気を?」
「疑うな。信じなさい。君に手を差し伸べているのは──世界一の大魔法使いなのだから」
その言葉を、眼差しを、微笑みを向けられて、イザールは口角を上げた。
疑うのが馬鹿馬鹿しい。これは断言なのだ。世界で最も偉大な魔法使いが奇跡を起こすと、アトリアを闇から助けると言っているのだ。
ただの人間に、どうして疑うことができようか。
信じて待つ。これ以外にない。
疑念を払ったイザールはその場で片膝をつき、深々と頭を下げた。
一国の君主としてではない。一人の娘の父親として、頭を下げたのだ。
アリエスにもそれはわかったらしい。
浮かせた足を床につけた彼は『さて』と呟き……突然、その手をイザールの下がった頭に置いた。そして、まるで子供を褒めるように撫で始めた。
一体何を?
理解できないアリエスの行動に困惑しつつ、イザールは反射的に彼の手を払い除けようとする。
だが、その直前。
「頑張ったね」
優しい声で作られた労いの言葉に、動きを止めた。
「妖精王?」
「最愛の人に先立たれ、心が壊れる寸前だっただろう。亀裂が入り、脆くなり、少しでも揺らげば崩れてしまうほどの精神状態。だがそんな状態でも、君は民と国のために働き、また娘のために多くのことをした」
「……」
「大変だったろう。けど、君は今日までやり遂げた。誰にでもできることじゃない。国王だからと、それが誰にも褒められないのはあまりにも酷だ。だから、僕が代わりに褒めてあげる」
やや乱暴に、それでいて確かな優しさが伝わる手つきでイザールの頭を撫で続けながら、アリエスは告げた。
心の何処かで、イザールが欲していた台詞を。
「本当によく頑張った、イザール=アングテラ。誇り高き国王にして──誰よりも立派な父よ」
「…………はい」
世界で最も偉大な魔法使いから贈られた、最大級の賛辞。
涙は流れなかった。
代わりに、イザールの心には……じんわりと温かい感情が広がった。
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