第1話 とある王様の苦悩

「出てきてくれ、アトリア。久しぶりに父さんと食事をしよう」


 青銅の騎士甲冑が等間隔に並べられ、中央には赤い絨毯が敷かれた廊下。

 天井から吊り下がるシャンデリアから放射される光に照らされたそこに響き渡ったのは拳で扉を叩く音と、一人の男の声だった。


 三十歳という年齢に相応しい壮年の顔つきをした男だ。

 やや長い金の髪と蒼い双眸。無駄な贅肉を持たない引き締まった身体をしており、端正な顔立ちも相まって、青少年時代はさぞかし多くの異性から好意を向けられたのだろうことが容易に想像ができる。


 男の名は、イザール=アングテラ。

 世界一美しい星空を見られるとして有名なアングテラ王国の現国王である。


 廊下の端に立ち尽くし、眼前の白い扉へと呼びかけた彼の声には懇願が宿っていた。

 頼む、出てきてくれ。久しぶりに、顔を見せてくれ。

 しかし、その願望は叶えられず。一分、十分、三十分。どれだけ待とうと返事が来ることはなく、静寂だけが空間を満たす。その事実に、イザールは落胆し肩を落とした。


「陛下、アトリア様は……」

「今日も駄目そうだ。食事はいつも通り、部屋の前に置いておいてくれ」

「かしこまりました」


 声をかけてきた初老の侍従長に指示を出し、イザールは今の心境と気分を表すように背中を丸めて歩き去った。


「いつになったら、出てきてくれるのか……」


 無意識のうちに零れた呟きは誰にも聞かれることなく、空気に溶けて消えた。


 王妃であるクルハ=アングテラが天国に旅立ったのは、今からおよそ一年前。

 死因は流行り病だ。世界中で猛威を振るっていた病に侵されてしまい、帰らぬ人となってしまった。


 当然、イザールは失意に沈んだ。いとも容易く妻の命を奪った神を憎んだ。理不尽を嘆いた。

 何故、こんなにも早く別れの時を迎えてしまったのか。

 何故、自分ではなく妻が犠牲になってしまったのか。

 何故、運命は自分たちの幸福を奪い去るのか。


 もう一度会いたい。温もりを感じたい。声を聞きたい。

 何度も、何度も、何度も、願望を胸に抱いた。そしてその都度、絶対に叶わない現実に怒り、涙を流した。


 暫くは食事も喉を通らず、眠ることもできず、体重は信じられないほどに減少した。またクルハが眠る墓の前で雨に打たれながら何時間も立ち尽くしたことで風邪を引き、危うく後を追う羽目になるところだった。


 自分は間違いなく、世界で一番不幸な男だ。

 クルハの死後数週間は本気でそんなことを思い、何もする気が起きなかった。

 だが、時間とは優しく、また残酷なもので。

 数ヵ月が経過した頃には最愛の人のいない現実に適応してしまい、心身共に復調。公務にも問題なく取り組めるようになった。


 だがアトリアは……娘は駄目だった。

 まだ一桁、九歳の子供だった彼女にとって母親というのは大人が想像する以上に大きな存在だった。精神的支柱を失った喪失感や絶望はイザールの比ではなかったらしく、クルハの命日を境にアトリアは笑顔を見せなくなり、今では一日中自室に引き籠ったままになってしまった。


 呼びかけても反応はない。それどころか、部屋の前に置かれた食事が放置されていることすらある。親としては娘の状態が心配で仕方ないのだが、失意に落ちた彼女にどんな言葉をかければよいのかわからず、部屋に立ち入ることができずにいる。


 また王という立場上、娘にかかりきりになるわけにもいかない。民のために公務に励み、国の長としての責任を果たす義務があるから。

 国王としては正しい行動だ。


 だが、父親としては? 唯一の肉親として、相応しい振る舞いなのだろうか。

 自問の回答は見つからない。

 国王として振舞うべきか、はたまた一人の父親として振舞うべきなのか。


 今年はアトリアの十歳の誕生日を祝ってやることもできなかった。

 それは間違いなく、父親失格といえるだろう。


「クルハ……どうしたらアトリアは、部屋から出てきてくれるんだろうな」


 長い廊下の終点にあるバルコニー。星明りの下へと足を踏み入れたイザールは天国の妻へと問いかけ、白亜の手すりに凭れ掛かった。


 音のない夜だ。

 世界一と謳われる天空のキャンバスでは無数の星が瞬き、一瞬の輝きを魅せる流星が時折星々の海を通過する。

 風も眠りに就いてるようで、普段であれば何処からともなく聞こえてくるザァ、という草木の音も響かない。

 昼間の暖かさも何処かへと逃げ去ってしまい、世界を満たす空気は冷たい。この場に留まっているだけで顔や手先など、外気と接触している素肌の温度が奪われていくのを感じる。


 イザールは両手を擦り合わせた摩擦熱で暖を取りながら、亡き妻の姿を脳裏に思い浮かべた。

 迷った時、悩んだ時、相談するのはいつも彼女だった。

 古い記憶の扉を開いてみれば、初めて会話をしたのもそうだ。王立大学の研究部で課された難問に悩み果て、偶々その場に居合わせた同じ研究部のクルハに相談をしたのだ。


 当時のことは今でも鮮明に憶えている。

 初対面のイザールに質問されたことをクルハは少々驚きながらも、親身に接してくれた。

 その時の真剣な彼女の表情に、楽しそうな笑顔に、イザールは惹かれた。恋に落ちた。二十数年の人生で最も人を欲した。


 心に区切りはつけたつもりだが、会いたいという気持ちは変わらない。

 もう一度、貴女の笑顔をこの目で──駄目だ。

 強くなった欲求を抑え込み、イザールは首を左右に振った。

 虚しくなるだけだ。叶わぬ願いを抱いたところで、現実は変わらない。心の穴が広がるだけなのだが、考えないほうがいい。

 そう、自分自身に言い聞かせた。


 根気強く呼びかけ続ける他にないか……。

 先ほどした亡き妻への質問。その答えを自分で出したイザールは屋内へ戻ろうと手すりに背を向け──。


「……ん?」


 背後で聞こえたバサ、という音に振り返った。

 手すりの上に、焦げ茶色の梟が留まっていた。野生の梟ではない。嘴には便箋を咥えている。つまり、この梟は何者かによって差し向けられた使いである。


 一体誰だ。

 疑問に思いながらもイザールは梟が咥えた手紙を受け取り、端を破って中に収められていた手紙を開き──驚愕に目を見開いた。


「……妖精王、アリエス=ナイトルージュ」


 差し向けられた手紙。

 それは彼の有名な天空図書館の主からの招待状だった。

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