第3話 真の自分とは

 ① 数学でいえば「素数」

  素数(prime number): 1およびその数自身のほかに約数をもたない正の整数。1を除く。2、3、5、7、11など。無限に存在する。

  広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店 


  ほかの誰でもない。オレはオレしかいない、という自覚。

  高慢なプライドでも他人を見下すのでもない、学校の成績がいいとか日本拳法で優勝しただとか、金持ちだとか肩書きが立派である、等々故の、他との区別・分類(clarifi・clasify)ではありません。オレを割り切れる(理解できる)のはオレだけである、という強烈な自分の存在感の自覚です。


  (有名な)誰かの本、誰かの考え、世間の常識も大事ですが、なんといっても「自分の目で見、自分の手で触り、自分の頭で考えて行動する」ことに抵抗がなくなったというか、世間の柵(しがらみ)に囚われなくなった私は、この年の秋に大学を休学し(退学届を出しに行ったところ、学生課の職員に、学費を払わないのは同じだから、とりあえず休学にしておきなさい、と勧められた。)、半年後に「働きながら大学に通える」目処がついたので復学しました。これは誰にも相談したわけではないのです。

  ほんらい、父に似てコンサーバティブ(保守的)な性格でありながら、以後の私の人生とは、人から見るととんでもないことばかりやって、「モノクロームの(なんでもない)人生に色をつけ」て(楽しんで)きた、といえるかもしれません。


  話は飛びますが、「オレはオレであるからこそ、再びオレに戻ってこれる。」という安心感によって、人から奇異に見られても気にしないし、他人への嫉妬もない。必ずオレはオレに戻ってこれるんだからという、普通の人からすれば何の科学的な根拠もない与太話なのですが、当人は至極真面目なわけです。


② 最後の血の一滴

  極端な例え話ですが、私の身体から水分(汗や血)が噴き出て・にじみ出て・搾り取られ、最後の最期に残った血の一滴、これが私の本性(が凝縮された魂)というもの、だと考えています。


  同じく極論ですが、世界中で完全に純血という人間は存在しない。なんらかの「混血人」と言えるでしょう。

  しかし、たとえばゲルマン人哲学者カント(1724~1804)は、「純粋理性批判」という哲学(的アプローチ)によって、ゲルマン民族としての「純血への逆行」を成し遂げ、彼に続くゲルマン民族は、いまだに、何らかの哲学的思惟によって、ゲルマン民族(の血と魂)の純血を維持しています。


  在来種純粋日本人の場合、「日本昔話」「俳句や短歌・川柳」「民謡・浪曲・歌謡曲・フォークソング」「ニッポンの祭り」などによって、ゲルマン民族とは異なる「情緒的アプローチ」で在来種純粋日本人(縄文人)の血を日々励起させてきました。


● アンチ純血種

  ところが、せっかく在来種純粋日本人の血を持って生まれてきても、手っ取り早く飯を食うため(楽して安定した良い生活をしたいがため)に、「要領よく生きる」人がいます。

  その最たる人種が「日本の警察官」でしょう。

  彼らは自分の名前や存在に誇りを持たず、「警察手帳」という権威に隠れてコソコソとうまい汁を吸おうとする。そういう生き方を定年まで30年も続けていれば、立派な外来種偽日本人(偽の名前で生きる在日韓国人)となる。


<日本人でありながら偽日本人に堕ちた人たち>

「・・・翼はあるのに 飛べずにいるんだ ひとりになるのが 恐くて つらくて 優しいひだまりに 肩寄せる日々・・・」

「・・・ほんとうの自分を 誰かの台詞(ことば)で繕(つくろ)うことに 逃れて・・・」


○ 日本の警察官とは、全員が在日韓国人的生き方をしている、ということです。

  → 台湾の警察官と全く違うその体質(拙著 台湾の警察とヤクザの問題解決能力)には驚かされます。

  賄賂とか警察官の犯罪なんて、「真面目な日本人」より中国人(台湾人)の方が絶対に多いと思うでしょうが、全く逆です。

  台湾へ旅行したら、道を尋ねる・暑さしのぎに休憩させてもらう、という機会を利用して、彼ら台湾人警察官の裏表のない気持ちのいい素顔を拝んでくるべきです。    

  → 台湾の警察署はどこでも、徒歩・自転車・バイクの旅行者のための休憩所を設置しています。温冷水機、ソファー完備。夜市や寺を観光して回るよりも、台湾人警察官と話をした方がよほど良い「台湾観光」になります。

  → 拙著「台湾の警察官とヤクザの問題解決能力」参照


○「不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。」

  ヒンドゥー教では、釈迦を108番目の神様として祀っているのだそうです。

  仏教の創始者である釈迦がヒンドゥー教に対してどんな貢献をしたのか、といえば「神を信じようとしない人々を地獄へ送り込んでくれた功績」だそうで、世の中にはこうして「魂」を大切に生きている人々が存在するのです。

  肩書きと能書きで要領よく生き、汗水流すことを避ける者たちと、永遠ともいえる魂のレベルで没交渉というのは、在来種純粋日本人にとって大きな恩寵といえるでしょう。


③ 大学日本拳法で「自分になる」

  スポーツや芸事とはみな「自分で自分になる道」といえるのですが、大学日本拳法は最もこれに適しているといえるでしょう。「ぶん殴り合い」という直裁的なアプローチによって己事究明する、という意味に於いて。


  宮本武蔵「五輪書」にもいえることですが、「戦う」という精神活動の中で自分になるのが最も効果的なのです。カントは「批判精神」を以て自分を磨き、ヒットラーは「闘争精神」によってゲルマン民族全体の自我の独立を追求した。

  カラオケで「自分に酔う」、警察手帳や嘘の日本人名で「偽の自分を演じる」のとは違うのです。


  原始本能である「ぶん殴る」を通じて自己に至る研鑽を積むというのは、最も正統的な道。くれぐれも、優勝だとか・昇段だとか・技術に凝るといった「脇道」を本筋と見間違いなきよう。それらはあくまでも苦しい自己研鑽を緩和するための「休憩・遊び」でしかないのですから。

 「優勝」といい、2年前の中央大学(試合直後の校歌斉唱)のように、可憐なマネージャーがうつむいて泣き、隣のゴリラみたいな大男が上を向いて泣き、なんていうのも大いに感動しますが、「え、オレたちが優勝 ?! なんで(やねん)?」というくらいの方が、あの世でバカ話として味わえる、というものではないでしょうか。

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