17

大人たちの歓談が終わり、家にいるすべての者が寝静まったころに、セシルは目を覚ました。目をこすりながら様子を窺うと右隣には師匠、左にはアリアがそれぞれ安らかな寝息を立てている。密着しているため、アリアからは作り立てのクッキーのような甘い香り、師匠からは香しい花の香りがそれぞれほのかに漂っていた。

 二人を起こさないようにゆっくりと体を起こして振り返るも、暗闇に微かに見えるのは布に覆われた顔だけであることを思い出した。


「…変な時間に起きるな」


 眠る二人をなんとなく見つめていると、ぽつりとつぶやくような声が聞こえてきた。驚いて叫びそうになり、慌てて口元を抑える。のそりと体を起こしたアネリは、ぼんやりとした様子でセシルを抱き寄せてベッドに戻った。頬に柔らかい感触が当たって、花の香りがより一層強くなる。


「寝ろ…明日になったらお前に…教え、てやる…から」


 そう言いながら布団から大幅にはみ出しているアリアを回収し、掛け布団をかけ直したアネリは、また眠りの世界に旅立った。

 ふと自分にマナーを教えていた講師のことを思い出す。男女で二人きりになることは必ず避けねばならぬと言って、母以外の女性とは距離を置いてきた。あの講師が今この状態を見れば、きっと泡を吹いて倒れるだろう。もはや、この状態ではその彼が今も生きているか分からないが。

 暗いことを考えないように目を閉じて、左右から聞こえる寝息を聞いているといつの間にか眠りに落ちていた。





「朝だよ!」

「わっ!?」

「きゃっ!」


 奇妙な金属音とアネリの大声で飛び起きる。同時に跳ね起きたセシルと目が合うと、彼の顔にはお手本のようなびっくり顔で思わず吹き出してしまった。師匠は時々変わった起こし方で、アリアをおどかしてくる。慣れているアリアは少しびっくりするくらいだが、セシルにとっては初めての経験である


「はい、おはよう。今日から授業を始めるぞ、その前にまずは飯だ」


 鍋を軽く匙で叩きながら師匠は、セシルの寝ぐせを直して、私の頭を撫でると先に階段を下りて行った。

 ふとベッドの横に置かれた椅子に目を向ける。いつも起きてすぐに目に入る白いワンピースが見つからない。


「どうしたの?」


 先にベッドから降りたセシルが昨日師匠からもらった薄布を持ちながら、不思議そうにこちらを見ている。布をつけているのはまだ少し慣れないらしい。初めて話した時のぎこちなさは少し薄れ、その顔にはわずかな親愛が覗いている。


「…なんでもないよ!」


 きっと昨日のことで疲れてしまったのだと思うことにして、勢い良くベッドから飛び降りる。


『危ないわよ』

「!?」


 不意に彼女の声が聞こえた気がして、思わず振り返る。しかし、その先には何も見えずに中途半端に踏み出した足がもつれて、受け身をとる暇もなく床に顔から着地する。


「アリア!」


 痛みに悶えながら、駆け寄ってきたセシルが心配げに顔の布をめくろうとした。


「だめ!」


 自分でも驚くぐらいに鋭い声が出て、一歩後ずさった。行き場を失った手を中途半端に浮かしたままにしたセシルは、はっとした顔になって顔を青ざめさせる


「あ、これはちが…」

「ううん、わたしこそごめん。心ぱいしてくれたんでしょ?」


 数歩分空いた間をゆっくりと詰める。


「ごめん」

「いいんだよ、でも気を付けないとあぶないのはセシルだからね」


 そっと手を握ると青ざめた頬に少し赤みがさす。セシルの指先は少し冷たくなっていた。その指を温めようと手を握りなおすと同時に、階段の下から師匠の声が聞こえてくる。


「おい、遊んでないで早く降りてこい」


 その声は少し不貞腐れているようにも聞こえ、少しおかしくなって笑うとセシルも笑いだした。


「行こう」

「うん」


 仲良く笑い合いながら、階段を降りていく子供二人を見ながら、だれの目にも映ることがなくなった女はその様子を静かに見つめていた。

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