第54話 月と太陽
何の抵抗もなくセレナに引っ張られる事十五分。やって来たのはブラスカの名所であり、『ビッグベン』とも呼ばれ町民に愛される時計台の巨大な鐘が据え付けられている最上部であった。
「この場所もグロリアさんに教えてもらったんです」
「……おいおい。ここって一般人が入っていい場所なのか?」
「さぁ? 分からないです」
茶目っ気たっぷりに笑うと、セレナは端まで歩いていき、空中に足を投げ出す形でその場に座った。人が入る事を想定していないこの場には柵など一切取り付けられておらず、セレナが座っているのは少し気を抜けば真っ逆さまに広場へと落ちてしまう場所だ。だというのに、セレナはまったく気にしておらず、鼻歌すら口ずさんでいる。
「見てください、凄く奇麗ですよ?」
引き返すよう促すか迷っている俺に、セレナが楽し気な口調で言った。ため息を吐きつつ、セレナの隣に腰を下ろす。そして、セレナが見ている景色を俺も見た。
とにかく美しかった。不安を煽るような暗い群青色の空を笑い飛ばす様に、眼下に広がる町はキラキラと輝いている。それが夜の町を照らすよう配備された照明魔道具によるものだと頭では理解しているのだが、宝石の煌めきの様に俺の目には映った。
「……確かに奇麗だな」
自然と感想が口から出てくる。こういうものとは無縁の人生を過ごしてきたからだろうか。今抱いている感情を表現する言葉が思いつかない。
「……ありがとうございます」
「え?」
「さっき、助けてくれましたよね?」
突然の感謝の言葉は面食らった俺を見て、セレナがくすりと笑う。
「あそこまでしなくても、とは思いましたが、正直嬉しかったです」
「……俺の仲間に汚い手で触れたんだ、あれくらいは当然だろ」
「ふふ」
投げやりな口調で言うと、セレナが照れたようにはにかんだ。
「でも、感謝したいのは先ほどの一件だけじゃないんです。というよりも、ここに来るまで感謝する事しかありませんでした」
「……そんな大層な事をした覚えはねぇが」
「いいえ。王都バージニアで助けてもらってからずっと、私は感謝しっぱなしです」
じっと夜景を見つめる。だが、脳内ではこれまでセレナと過ごしてきた日々が浮かんでいた。
「教会という光を失った私の心には夜が訪れました。この町のように奇麗な輝きを見せてくれるようなものではなくて、ただただ暗くて深い……進むべき方向なんてまるで分からないような夜」
セレナの声は静かでとても落ち着いている。信じていたものから裏切られる経験をしたのは俺もだ。だからといって、その気持ちがわかるなんて傲慢な事を言うつもりはない。裏切られた相手も状況も違うんだ、その辛さはセレナ自身にしかわかるはずがない。
「このまま死んでしまえば楽になるとも考えました。そうすれば、ズタズタに引き裂かれた心がもうこれ以上傷つかなくて済むじゃないかと。ですが、それを許してくれなかった人がいるんです」
「…………」
「その人は太陽みたいに明るい人ではありませんでした。それでも、私が進んでもいい道を優しく照らし出してくれたんです。……そう、夜の闇を前に途方に暮れる人々を静かに導いてくれるあの月の様に」
淀みの一切ない声で告げられるその言葉が俺の心にストンと落ちてくる。俺はゆっくりとセレナの方へ顔を向けた。
「――あの町であなたという月に出会わせてくれた神様に、私は一生感謝し続けます」
そんな俺にセレナが微笑みかけてくる。その笑顔は直視するには眩しすぎるものであったが、なぜか目を逸らす事が出来なかった。鼓動が早くなる。これまで生きてきて見たもの中でこの町の夜景が一番美しいと感じたが、まさかそれ以上に美しいものがこんな近くにあるなんて夢にも思わなかった。
「……それを言うなら俺もそうだ。セレナと出会えた事を幸運だと思ってる」
思い起こされるのはセレナと初めての出会い。死を受け入れる彼女に苛立ちを覚え、頼まれてもないのに勝手に襲ってくる刺客を相手した時の事だ。
「お前が『どこか遠くへ連れて行って欲しい』と言った時、俺は不思議と救いの手を差し伸べられている気がした。裏ギルドの連中からセレナを助けたのは俺だっていうのに。実際、あれは俺を気遣っての事だったんだろう」
「それは……どうでしょうかね?」
セレナが眉を八の字にしながら笑った。やっぱり俺の直感は間違っていなかったというわけだ。
「流石は聖女様だな。自分が殺されかけたっていうのに、俺の心配してるんだからよ」
「ジョブがそうだってだけで、私はそんな高尚な人間では……」
「困ってる奴を見たら放って置けない
からかうような口調で言うと、セレナが僅かに頬を膨らませる。俺は小さく笑うと、顔を真面目なものにしてセレナの目をじっと見つめた。
「だからこそ、俺はセレナを護ると決めた。……いや、それは
「レオンさん……」
「信じていた親友や仲間に裏切られ絶望に暮れていた俺に、まばゆいほどの光と安らげる温かさをくれたのはセレナ、お前だ。セレナは俺の事を月だと言ったが、俺にとってのお前は――」
――太陽だ。
途端に恥ずかしさが込み上がって来た俺は、最後まで言い切らずにセレナから顔を背ける。熱でもあるのだろうか? やたらと顔が熱い。こんな事は初めてだ。
『……自分ら、儂がおる事完全に忘れておらんか?』
「っ!?」
「っ!?」
突然、指輪から声が聞こえて俺もセレナもその場で飛び上がった。そうだった。俺の指には口うるさい精霊がいるんだった。
「なっ……いきなり話しかけてくるんじゃねぇよ! 危うく落ちるとこだったじゃねぇか! つーか、夜の見張りで疲れたから寝てたんじゃねぇのかよ!」
『アホ! 寝るゆうても限度があるわ! 朝方眠り始めたら夜には起きるやろがい!』
「え、えーっと……マルさんはいつ頃から起きてたんですか?」
セレナが恐る恐るといった様子でマルファスに尋ねる。
『ん? あー……自分らが美味そうな飯に舌鼓を打っとるとこくらいやな。そん時に声かけたろ思ったけど、とりあえず様子見しとったら、どんどん他人が入り込めない雰囲気を出しおってからに……盗み聞きしとる罪悪感に押し潰されかけたわ!!』
「あぁ……」
セレナが羞恥に両手で顔をうずめた。
『おい主ぃ! イチャコラする時はちゃんと指輪にロックかけときぃ! この偉大なる精霊様に出歯亀みたいな真似させんなや!』
別にイチャコラなんてしていない。そう言えばいいものの、この時の俺はなぜか何も言い返す事が出来なかった。
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