羽ばたく

Runa

第一話(一話完結)

 私は自分が嫌いだ。その理由は自分の性格にある。

 私の父は昆虫が専門の研究員だった。家で研究をすることが多かったので、私は幼い頃から隣でよく眺めていた。父が扱うどの昆虫も幼い私の目には魅力的に映ったが、とりわけ目を惹いたのは蝶だった。一枚一枚、羽の模様や色味が違っていてどれもが美しいところ、その美しい羽は少し触れるだけで簡単に壊れてしまう脆さも兼ね合わせているところ。蝶の持つ美しさと儚さに私は魅了されていた。父の研究をきらきら目を輝かせながら覗き込んでいた私に「将来は研究員になるか?」と父が微笑ましそうに見ていたのを覚えている。やがて高校生で進路を考え出すようになり、将来は蝶の研究をしたいと本気で思うようになった。父に打ち明けると厳しさゆえに反対されたが、私は研究職に就いたらこんな研究がしたい、まだ知られていない蝶の真実を誰よりも早く解き明かして伝えたい、と熱量で父を説得し、研究の道に進んだ。そしてついにやってきた研究員として初めての出勤日。私は今にも踊りだしそうな、ふわふわとした心地でいた。幼い頃から恋い焦がれてきた蝶の研究をすることができる。憧れで、夢で、情熱で、満ち溢れていた。だが、私は人と関わっていくうえで忘れてはならない重要なことを見落としていた。それは私の性格ーー私は他の人とは比べ物にならないほどの引っ込み思案。長年の熱い思いは染み付いた性格に呆気なく阻まれることを、このときの私はまだ知らない。

 私が就職した研究室は少人数でチームを組み、チームの仲間と一つの研究テーマに対して共同で研究を行うスタイルだ。顔合わせの後、ミーティングで研究テーマについて話し合う。始まってすぐ、私は研究テーマを提案しようとした。「っあの……」私の言葉に全員の視線が集まる。みんなが見てる。なにか言わなくちゃ。なにか、なにか、なにかーー「っあの、やっぱり、なんでもないです」精一杯の勇気を振り絞って言えたのはこれだけだった。その後も、いざ口にしようとするとさっきのことが頭をよぎって言葉に詰まる。そんなことを繰り返している間にミーティングは私以外のメンバーでどんどん進み、最終的には割り当てられた役割に同意するほかなかった。あんなにやりたいことがあったはずなのに。たった数言、言葉を発するだけなのに。それができなかった。自分が情けなくて悔しくて腹が立って、家に帰ると涙が溢れて止まらなかった。自己主張ができない、そんな自分が嫌で嫌で仕方がなくてずっと変わりたい、変わってやろうと思っている。でも、あと一歩を踏み出す勇気が出なくて変わることを諦める。そしてそんな自分をますます嫌いになる。この繰り返しで自分がいやというほど嫌いになっていった。

 思いがけず昔の話に浸ってしまった。今は感傷的な気分なんだなと思いつつ「どうしてこう、私ってこんな性格になんだろ」と目の前にいる虫に向かってこぼす。目の前にいるのは、研究職に就いてから貯めたお金を使って飼い始めた蝶の幼虫。飼っているのは私の一番のお気に入りの蝶、ミヤマカラスアゲハ。蝶の飼い方については熟知していたのもあって、飼い始めた当初は心配事はなかった。だがこの蝶の幼虫は二週間ほどで蛹になるはずなのに、この子は三週間が経ってもまだ蛹にならない。そろそろ本当に心配だ。「私たち、いつまでたっても変われないところがそっくりだよねぇ。君も早く、綺麗な姿になって新しい世界に飛び出したいよね」そんなことを言いつつ幼虫の入ったケースを爪で小突く。コツンーー 軽い音が部屋に響いた瞬間、世界が輪郭を失い、わけもわからぬまま深い暗闇の中に引きずり込まれていった。

 さぁーっーー 水?なんで水の音?水音に誘われて目を開けると、見渡す限り葉っぱが生い茂る森の中にいた。さっき聞いた水音はどうやら右手にある渓谷から聞こえてきたものだったらしい。しかも私から見える景色は人間の目線から見えるものではなく、いつもより高い。木の枝が絡み合っているところがよく見える。どうして私はこんなところに?自分の部屋にいたはずじゃ?ここはどこ?私はいったい何になっちゃったの?色んなことを考えたが、考えても考えても結論は出ず、混乱するだけだったので私は考えるのをやめたーーそのとき、目の前を一羽の蝶が舞っていった。あの蝶を見逃すわけがない。あれはミヤマカラスアゲハだ。陽の光を受けるたびに青い部分はきらきらと光を反射させながら輝き、対照的に暗い部分は影を落とす。妖しく艶やかに光りながら、ひらりひらりと飛んでいくその姿が私を誘っているかのようで、目が釘付けになる。視界から蝶が消えたあとも、消えていった先をぼんやりと見つめながら先程見た妖麗な姿を思い浮かべた。私もあの蝶のような美しさが、しなやかさが、欲しい。私だってあんなふうになりたい。まだ見たことのない世界へ飛び出してみたい。ミヤマカラスアゲハを目にしてから、私の心は蝶に対する憧れで埋め尽くされていた。

 それから数時間くらい経っただろうか。私がこの世界に来てからそれなりの時間が経っていることを示すように、お腹が空虚感を訴えた。あたりを見回すと溢れんばかりの青々とした葉っぱ。無性に美味しそうに見えてきて、葉っぱをめがけてひたすら進み、ためらわずむしゃむしゃと音を立てながら葉っぱを食べ始める。葉っぱってこんなにみずみずしくて美味しいんだなどと考えながら夢中で食べすすめた。お腹が膨れてきたとき、ふと視界の端に葉っぱの緑とは違う色の緑が飛び込んできた。ちらと目線を動かして見てみると、なんと目の前にいるのはミヤマカラスアゲハの幼虫ではないか。ミヤマカラスアゲハの幼虫?私が飼っている子とはまた違った顔をしていてかわいいなぁ。えっ、どうしよう、こんなに近くで見ていいの? あまりの近さに私は動くことができず、ただただ目の前の幼虫を見ることしかできなかった。この可愛らしい幼虫が綺麗な蝶になるんだと幼虫の未来に思いをはせると愛おしさがこみ上げてくる。君も新しい世界に飛び立つことを夢見てるの?と心のなかで問いかけるが、伝わるわけもなくじっと見つめ返される。喋れないのに伝わるわけないよねと思いながらその瞳を見つめて、私はもっと驚くことになる。その瞳には今、私が見ているのと同じミヤマカラスアゲハの幼虫が映っていたのだ。え?どういうこと?もしかしてこれが私?あのミヤマカラスアゲハの幼虫なの?目の前の光景を信じることができず、まじまじと幼虫の瞳を見つめていた。するとそれを不快に感じたのだろうか、幼虫は私から目をそらし、どこかへ行ってしまった。もっと見ていたかった気持ちもあったが、今の自分の姿を見れただけでも満足だった。私はミヤマカラスアゲハの幼虫なんだ。私も綺麗な蝶になれる?私でも変わることができる?心は驚きと嬉しさでごちゃごちゃしている。はやる気持ちを抑えることができなかった私はその日、眠ることができなかった。

 やがてその日から何回かの朝を迎え、夜を越した。私はミヤマカラスアゲハの成虫になることを夢見て、一日三回バランスよく葉っぱを食べたり、動き回ることで運動のようなものをしてみたり、他の幼虫と対面することでコミュニケーションをはかったりもした。最初の日、私の目の前を舞っていったミヤマカラスアゲハを思い浮かべれば、自然とやる気がみなぎってくる。人間だった頃の私からは想像もできないほど、積極的に行動した。すると、ここに来てから十三回くらい昼と夜を繰り返した頃、私の体に変化が起こった。他の幼虫の瞳に映る私の緑色が黄色みを帯びていくのを感じたのだ。蛹化が始まる。蛹に近づいていくにつれて、私の心はどんどん高揚していった。綺麗な蝶に、私だってなれるんだ。私だって変われるんだ。体が完全に覆われて蛹になってからも、ミヤマカラスアゲハを思い浮かべ続けた。私もあんなふうになりたい。幼い頃から憧れ続けたあの姿に。そしてあの蝶が見ていた世界を私も見たい。新しい世界に飛び出したい。はやく、はやく、はやく、はやくーー私を覆っている皮がパリッと音を立てる。隙間から少し、光が差し込む。差し込んだ光の心地よさに思わず伸びをするように羽を広げた。パリパリパリパリ。さらに隙間から光が入ってくる。ああようやく、私も変われるんだ。パリッーーその音が聞こえた瞬間、視界が開け、まばゆい光に包まれた。蝶になった私を祝福しているかのような、暖かい光だった。光を受けながら羽を思いっきり伸ばし、広げ、新しい世界へと力強く羽ばたいた。光を受けて反射する青い羽が見えたあと、私はまた深い暗闇の中に引きずり込まれていった。

 「ーーんっ」気がつくと私は机に突っ伏して寝ていた。さっきまで見ていたのは夢?にしては随分リアルだったようなーーふとミヤマカラスアゲハの幼虫を見ると、わずかだが黄色っぽく変色していた。「君も変わろうとしているんだね」私は嬉しさからふっと微笑む。この子だって、変わろうとしているんだ。ここで置いてけぼりになっちゃいけない。私だって努力したら変われるんだ。「決まった研究テーマは覆らないけど、研究の方針については提案できるよね」私は背負っていたおもりを下ろすように伸びをしたあと、ノートとペンを引っ張り出した。今まで言えなくて飲み込んできたものがすらすらと、文字としてあらわれる。これをメンバーに伝えることが私の第一歩だ。

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