第17話 ダンスは済んだ? 済んでない。
運動不足の気怠さとアルコールの開放感が混じり、僕の身体はまるで宙に浮いている。ダジャレー・ヌーボーで、死にかけた夜の話だ。
そんな僕に、ジョセフィーヌは「クエッカを踊ろう」と言う。彼女に「簡単だから」と押し切られ、申し出を断れなかったのは、僕の臆病のせいだ。
ジョセフィーヌは僕の返事も待たず、赤のネグリジェを脱ぎ、花柄の民族衣装に袖を通す。磨き上げられたその身体は、年齢を感じさせない。
ジョセフィーヌがパーマロッドをほどくと、空調の風に靡く艶やかな長髪が姿を現す。空中で踊るたびに、椿の香りが広がる亜麻色の髪だ。
「それじゃあ踊ろうか」
ジョセフィーヌが手を伸ばして僕の手を取る。
「僕はワイシャツとズボンなんですけど」
「これでも被っときな。後、チョッキ」
ジョセフィーヌに渡されたてっぺんが扁平な黒帽子と黒チョッキを羽織る。四方に設置された鏡に映る男女は、スペインの街角に佇んでそうな趣があった。
「うん、上等」
ジョセフィーヌが満足げに頷く。
「アレクサ。曲は“Cueca de centro”で」
ジョセフィーヌが音楽プレイヤーに命じると、八分の六拍子でクエッカの曲が流れる。ギター、ハープ、ピアノ、コントラバス、アコーディオン、ドラムの旋律が溶け合い、屋外でタコスを齧りたくなるリズムだ。明るい曲調が、日本家屋をラテン色に染め上げる。
僕とジョセフィーヌは部屋の中央で向き合った。部屋の中央には丸印がついている。どうやらこの点を対称に動けばいいようだ。
「まずはアタシの真似をしてごらん」
曲の中の男がスペイン語で歌い出した。それに合わせてジョセフィーヌは手を上に伸ばして叩く。まるでフラメンコのように。
今から踊るのか。僕はダジャレー・ヌーボーで衆目に晒されるのとは別の気恥ずかしさを感じた。昔、外国で踊っていたダンサーの前で素人丸出しの僕が踊るのは居心地が悪すぎる。
「何恥ずかしがってんだい、ほら」
ジョセフィーヌはまるで子どもを慰めでもするかのように僕の頭を撫でた後、僕の両手を万歳の形で上げさせる。
僕は、しぶしぶ彼女の指示通りに手を叩いた。
「そう、上手上手」
そうして、曲が進むにつれて僕たちは手に持った白いハンカチを振り回したり回ったり、近づいたり遠ざかったりした。踊っているうちに、僕は何でこんなことをやっているのか分からなくなる。
「今、自分が何をしているのか分からないですけど」
「考えなくてもいい。ただ目の前にあるものを楽しむんだ」
僕の疑問も、ジョセフィーヌは笑って歌と踊りの中に溶かしていく。
僕は彼女の踊りに合わせるように、飛んだり跳ねたりした。
曲が一周し、また最初に戻る。要領が掴めた僕は、今度は少しだけ新しいことをしてみることにした。僕たちは腕を組んで街中を歩くようにしたり、タップダンスを真似て足でリズムをとる。
いつの間にか、僕たちは汗が出るほど夢中になっていた。すでに僕の身体からは酒精や倦怠感、恥まで抜け落ちてしまった爽快感がある。
「で、高橋。今日一日でアンタに何があった?」
上気した顔でジョセフィーヌが僕に問いかける。踊りの指南をしながら動いているのに、彼女はまだまだ余裕がありそうだった。
「ダジャレー・ヌーボーに出ました」
「そうかい。悪い金ではなかったんだね」
おそらく、ジョセフィーヌは僕が百万円を持ってきた意味を理解したのだろう。彼女は安心したように頷いた。
「そして、僕の姿を見かけた天馬さんがショー終わりに来て、話をしました」
「アンリエッタの父親が高橋に接触したと。何故?」
僕は、ジョセフィーヌにショーの最中で殺血孤と杏里ちゃんの名前を出したことを伝える。天馬さんは、僕に二人のことを聞きだそうとしてきた。僕の話に、彼女は「
「僕の勘ですが、天馬さんは杏里ちゃんを連れ戻そうとしているのだと思います」
「なるほどね」
天馬さんと話しているとき、彼は明らかに焦っていた。それも、杏里ちゃんの名前を出したときは特に。きっと、彼にとっても娘が自分の管理下を離れるのが想定外だったのだ。そして彼の反応から推察するに、杏里ちゃんの居場所も知らない。だからこそ、ショーで一言彼女の名前が出ただけで、僕を血眼で問い詰めたのだ。
「それじゃあ、高橋はこれからどうしたいんだい?」
少し待ってから、ジョセフィーヌは僕に聞いた。
「天馬さんに杏里ちゃんを渡してはいけない。そう思います」
僕は、思っていたことを素直に答える。親でもない僕がこの選択をとることは不遜だろうかと内心思う。しかし、そうしなければいけないと僕が判断するだけの理由が天馬さんにはあった。
「どうしてそう思ったんだい?」
「僕と話しているとき、彼の目はまるで糸を張った人形を見ているようでした。僕の答えを待つのではなく、既に決めつけているようで。まるで自分の思うようにいかないことに苛立ちを覚えていたのかもしれない。それに……」
あまりにも主観的な理由だと僕は自嘲しながらも、ジョセフィーヌは真剣な顔で僕の眼を見ていた。
「何故、殺血孤は自分の配偶者ではなく、僕に杏里ちゃんを預けたんですか」
本来であれば、家族の問題は家族で解決するのが筋だろう。
殺血孤は破天荒キャラで売り出しているが、一緒にいたときに垣間見えた素の彼女はまともだった。そんな殺血孤が家族を頼らずにオーナーや僕に杏里ちゃんを預けたのは、きっと家族内では解決できない問題があったに違いないと僕は思った。
「要は、嫌な奴だってことね」
そして、ジョセフィーヌは僕の考えを尊重してくれたようだ。彼女は分かったよ。と目を瞑る。
「凄く私的な感想で申し訳ないですが」
僕がジョセフィーヌに謝ると、彼女は首を横に振る。僕が彼女の反応を不思議に思っていると、ジョセフィーヌは目を開き、あることを話し始めた。それは、にわかに信じられないことだった。
「実は……さ。高橋に言えなかったんだけど」
「何を言えなかったんです?」
「幸子ちゃんがこのアパートから出ていく前の日に
ジョセフィーヌの言葉に、僕は絶句した。
もしかすると、天馬さんは殺血孤と会っていた頃の僕を知っていたのかもしれない。
三年前、僕が一か月ほど殺血孤と同棲していたある日、彼女は僕の前から姿を消した。丁度彼女からダジャレ・バーを譲渡されて、開店準備で忙しい頃だ。
当時、アイドル活動を休止していた彼女は素性を隠して僕の部屋で待っていて、僕だけが銀座のビルで作業をしていた。
殺血孤の安全は、全てジョセフィーヌに任せきりだった。
「天馬さんが? 何で? 僕は聞いてない」
彼女は僕の前から一人で出ていったのだと思っていた。まさか天馬さんが殺血孤を連れ去ったとは思いもしない。
「アイドルはいるべき場所に戻さなければいけないと。一般人の元で遊んでいるべき器ではないと言って、あの男は幸子ちゃんを連れて行った。アタシには幸子ちゃんを保護した手間賃を渡してね。アタシは、反対も出来ず、幸子ちゃんをあの男に渡してしまった。そして、このことは高橋に言わないようにと」
「そんな……」
「幸子ちゃんがいなくなったのは、あの男の元に帰る時間だったからさ」
僕は、言葉が出なかった。ジョセフィーヌはうなだれる僕の身体に手を回し、優しく抱きしめる。
「でも、高橋はあの男にアンリエッタを渡さないって決めたんだろ。アタシもそう思うよ。これは女の勘さ」
ジョセフィーヌは震える僕の肩を抱き、落ち着くまで待ってくれた。
「どうすれば、良かったんですか」
僕は、殺血孤と暮らしていた頃を思い出していた。
三年前、僕は仕事のストレスで適応障害になった。鬱で死のうと渋谷の雑踏に消えていく僕の手を、彼女は取った。それが、彼女との出会いだった。
それから、彼女との生活が始まる。彼女はいつもこのアパートにいて、僕は貯金を崩しながらただ生きるために生きた。
僕は家族を知らなかったし、彼女も家族を知らないと言っていた。シングルマザーで育った僕は、高校生の時に母を亡くし、それからは知り合いを転々としながらなんとか食いつないできたのだ。
殺血孤との生活は、僕が欠けていた家族という穴を埋めてくれるものだった。
僕たちの間に男女の関係はなく、甘え上手な殺血孤はまるで大切な妹のように思えた。
「結局のところ、僕は人と一緒に過ごすということが分からなかった」
天馬さんが現れるまで、僕は、殺血孤はいずれ帰ってくるかもしれないと淡い期待を抱いていた。
しかし、戻るべきところに戻ったのであれば、彼女が僕のところに帰ってくることはないだろうと思った。
「女性の口説き方も、分からなかったんです」
もし、彼女を僕の元に繋ぎとめるとしたら、僕たちの間にセックスが必要だったのだろうか。
それに、僕が今まで殺血孤に貰ってきたものを、僕は彼女に返せていない。
「僕は、彼女を大切にできなかった」
僕は貰ってばかりで……。いや、僕が貰いすぎたから、彼女は僕に愛想をつかして出ていったのだろうと思っていた。
「それは違うよ、高橋」
僕が自分に対する恨み言を口にすると、ジョセフィーヌははっきりとした声で違うと言い切った。
「幸子ちゃんはアンタが大切にしてくれることを分かっていた。それは、あの子から高橋の話をたくさん聞いたから」
そして彼女は、僕を優しく抱いて涙を流した。
「殺血孤が……幸子が欲しい! あの男に渡したくない!」
僕は、心の中にあるものすべてをぶちまける。
「僕は、どうしたらいい。どうすれば幸子に会える? 彼女と会って話がしたい!」
幸子は今どこにいる。天馬さんは彼女の居場所を知っているのか。
僕は疲れた頭を回転させるが、一向にいい案が思い浮かばない。
「僕は家族が分からなかった。でも、幸子と過ごして分かった。彼女が僕にとっての家族だった」
僕の叫びに、ジョセフィーヌが頷く。
「考えるな。踊れ、自分の人生を」
そして、僕の手を取った。
「なるようになる。どんなことが起きたって大丈夫」
僕たちは、延々と続くラテンのリズムの中で、またくるくると踊り出す。
「だってアンタは、本当の優しさを持ってる」
今は、まだ、どうすればいいのか分からない。
それでも、自分の心が示す方向だけは、はっきりと分かった気がした。
カーテン越しに、うっすらと朝の光が滲んでいる。
――僕たちのダンスは夜が明けるまで続いた――。
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