第16話 ワインによわいん

「山本天馬は、私のパパです。お祖父ちゃんじゃありません」

 杏里ちゃんが立ち上がり、僕を真っ直ぐに睨む。その瞳には、怒りだけでなく、悲しみの色も滲んでいた。彼女の手をすり抜けたスプーンが、カラン、と小さな音を立ててフローリングに落ちる。その音が、部屋の静けさに妙に響いた。

「え、あ……ごめんなさい」

 僕が頭を下げると、杏里ちゃんはテーブルに目を伏せたまま落ちたスプーンを自分の食器に乗せる。

「ごちそうさまでした」

 そして台拭きダスターで自分が食事をした跡を綺麗に拭くと、食べ終えた食器を持って台所に向かった。


「食べた食器は水に漬けときな。残した奴は何とかしておくから」

 ジョセフィーヌが杏里ちゃんに声をかけると、台所からは「はーい」と可愛い返事が聞こえた。

「よく我慢して起きてたね。おやすみ、アンリエッタ」

 台所から戻ってきた杏里ちゃんの頭を撫でながら、ジョセフィーヌは彼女の額にキスをする。そして、杏里ちゃんを胸元に抱き寄せて強く抱きしめた。

「おやすみなさい。ジョセフィーヌさん……」

 杏里ちゃんもジョセフィーヌの首に手を回し、小さく抱擁し返した。顔が埋もれて見えないが、杏里ちゃんは涙をジョセフィーヌの胸元で拭っているようにも見える。

「おやすみ」

 僕が杏里ちゃんにそう言うと、杏里ちゃんは一瞬立ち止まり、手すりに小さな手を置いて振り返る。そして彼女は「おやすみなさい」と小さな声で言い、静かに階段を上っていった。

 

「お父さんをお祖父さんと間違ったのが悪かったのかな」

 杏里ちゃんが二階へ上がったのを確認してから、僕はジョセフィーヌに耳打ちする。杏里ちゃんにとって、これ以上触れられたくない何かがあったのだろう。その“何か”に思い当たる節がない僕は、ただ自分の無神経さを悔いるしかなかった。もしかすると、授業参観で友達に揶揄われた経験があるのかもしれない。

 無神経に杏里ちゃんに話題を振ってしまった自分を責めるために、僕は自分の頭を何度か殴りつける。ジョセフィーヌは、僕の顔を見て、ため息をついた。

 彼女も僕に何か言いたいことがあるのかもしれない。


「アタシは安心したよ」

 しかし、ジョセフィーヌは僕の予想とは違うことを言った。僕が目を向けると、彼女は薄く笑う。

「アンリエッタ、この家に来てから、ずっと大人の顔色を伺ってる気がするんだよね」

 ジョセフィーヌは少し言いよどんだ後、言葉を選んで次のようなことを言った。

「まるで、大人に気に入られないと、自分の居場所がなくなるとでも思ってるみたいにね」

 そう言うと、ジョセフィーヌは胸を押さえて苦しそうな顔をする。

「自分の居場所がなくなる? まさか……前いたところで何か?」

 僕はテーブルに身を乗り出し、ジョセフィーヌの言葉を待った。彼女は首を振って僕の眼を見る。

「分からない。もしかしたらアタシたちが想像する以上に、あの子は修羅場をくぐってきているのかもしれない」

「杏里ちゃんの両親が芸能界の人間だから?」

 ジョセフィーヌは僕の話を聞いて「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と、難しい顔をした。

「まあ、あの子も新しい環境に慣れるまでに時間がいるだろう。そっとしてやんな」

 ジョセフィーヌは、優しい目でそう呟く。

 この様子だと、杏里ちゃんに殺血孤の居場所を聞くのは慎重になった方がいい。僕は、二人の様子を見比べて、そう判断した。


「それよりさ」

 僕が頭を働かせていると、ジョセフィーヌが身を乗り出してくる。

「アタシが気になるのは高橋のことだよ」

 ジョセフィーヌは僕に顔を近づけて囁くように言った。その眼には、好奇以上に何か僕に対する熱いものが宿っている。

「僕ですか?」

「まあ、素面で話すのもなんだからワインでも飲もうか。とびっきりのやつ」

 ジョセフィーヌは神棚の下に吊り下げられていた一本のワインを手に取り、こちらに寄こす。僕は、受け取ったワインのラベルをまじまじと見た。

「チリワイン……アルマヴィーヴァじゃないですか」

「知っているのかい。流石バーのマスターだ」

「一度、客に頼まれて仕入れたことがあります。カリフォルニアの最高級ワイン、オーパス・ワンと同じコンセプトで作られたプレミアムワイン」

「そう、そしてアタシが若い頃踊っていたサンディアゴチリの首都の南、マイポ・ヴァレーの酒だ」

 チリといえば植民地時代の名残で、スペイン文化が入ってるんだっけか。南米の陽気なイメージが、情熱的なジョセフィーヌと重なって腑に落ちた。もしかすると、ジョセフィーヌが毎晩バレエを踊っているのも、彼女が昔そこにいた名残なのかもしれない。

「高かったでしょう」

「高橋から貰ったで二十本は買えるね」

 ジョセフィーヌは意地悪な顔でそう言った。

 つまり一本五万円もするワインだ。僕は慎重にコルクを抜き、二人分の常温のグラスに注ぐ。


 ジョセフィーヌが意味深に微笑みながら、「ここから先は大人の時間だ」と囁くと、部屋の空気が一瞬で変わった。温かかったはずの空間に、どこか緊張感が漂い始める。

 ジョセフィーヌが楽しそうに笑う。僕がワインの準備をしている間に、彼女の一言で部屋のスマート家電が一斉に雰囲気づくりを完了した。

 グラスに入ったワインをお互い掲げながら、僕たちは目くばせをする。

 ムードの為に少し暗くした照明が赤ワインに落ち、甘いアロマの香りが、僕たちの間を包んでいた。

「スペイン語で乾杯はsaludサルーって言うんだよ」

「それじゃあ……」

 僕たちは改めてグラスを傾ける。

「「saludサルー」」

 グラス同士の接吻の後に、僕たちは血色の雫を一息に飲み干す。

 鼻の奥に抜けていく果実味と、時間が経つにつれて現れるコーヒーのような香ばしさ、そして徐々にスモーク感の奥ゆきに重層的な味わいがあった。


「凄く、複雑な味ですね。まるで、人生のような……」

 僕がそう言うと、ジョセフィーヌは僕を指さしながら声を押し殺して笑っている。

「……何がおかしいんです?」

 僕がそう聞くと、ジョセフィーヌは感情の堰が切られたように、腹を抑えて苦しそうにした。そして、こう言った。

「高橋、顔真っ赤!」

 アハハと、ジョセフィーヌは大口を開けて笑う。彼女に向けられた手鏡を覗き込むと、そこには顔中ペンキで塗られたような赤さの僕がいた。

「ワインによわいん……」

 僕がダジャレを呟くと、ジョセフィーヌは更にツボに入ったらしく過呼吸気味に蹲っている。

「まったく、こんな時にアンタは……!」

 ジョセフィーヌは笑い上戸らしい。彼女の背中を撫でながら、まともにワインが飲みなおせるまでに五分ほどかかった。

 僕は、ワインから日本酒に変え、ジョセフィーヌは残りのアルマヴィーヴァを水のように飲んでいた。どうやら彼女は酒豪らしい。ボトル一本空にしても、顔色が全く変わることはなかった。ジョセフィーヌの若い頃の話や、殺血孤がこのアパートにいた頃の話で盛り上がり、僕たちは初めて、腰を落ち着けて深い話が出来たような気がする。


 僕が一合瓶を空にした時だった。

 ジョセフィーヌが真剣な表情で僕の顔を覗き込み、小さな声で問いかける。

「で、今朝から高橋は一体どんな修羅場を乗り越えてきたんだい?」

 その言葉が、まるで僕の心の奥深くを引き剥がすように響いた。

 ついに、このときがやってきた。今朝のことをどこまで話せばいいのだろう。無敵艦隊ジ・アルマダ然り、ダジャレー・ヌーボー然り。話して信じてもらえるか怪しいし、もしかしたら、ジョセフィーヌを厄介なことに巻き込んでしまうかもしれない。

 僕がそんなことを考えていると、彼女は人生を噛みしめるようにこう言った。

「言葉では表現しきれない夜もあるもんさ」

「えっ」

 ジョセフィーヌに僕の心情を言い当てられた気がした。もしかしたら悩みが僕の顔に出ていたのかもしれない。僕は思わず両手で顔の筋肉をほぐした。


「なあ、高橋。踊らないかい」

 ジョセフィーヌは少女のように弾んだ声でそう言うと、悩む僕の手を取り、強引に部屋の中央に誘い出す。ジョセフィーヌの家は、一階の中央部分がダンスフロアのように開かれていた。

 僕は、十畳のフローリングの上に彼女と手を繋いで立つ。

「え、いきなりですか?」

「人間ってのは、踊ってる時に出るんだよ、隠してるもんがさ」

「踊れませんよ」

「アタシに任せな。ちゃんとエスコートしてやるよ」

 ジョセフィーヌは白いハンカチを取り出し、一枚僕に渡した。

「チリの舞踊、クエッカだよ。この白いハンカチを右手に持って回るんだ」

 そして彼女は軽やかにステップを踏み、僕の手を引いてリズムを教えるように動く。


 ――こうして、僕たち二人だけのダンスパーティーが始まった――。

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