第15話 アンリエッタ

 僕がダジャレ・コロシアムからフォルテッシモ荘に帰ったときには、すでに夜の十時を過ぎていた。

 大家さん家のインターホンを押すと、中からチャイコフスキーのくるみ割り人形が聞こえてくる。きっと中で、ジョセフィーヌが踊っているのだろう。

 サビがちょうど終わったところで曲が止まった。そして、ドタドタと中から質量のある足音が聞こえてくる。扉が開いた。おはぎパーマとネグリジェ姿のジョセフィーヌは、僕の前でサンダルをトゥシューズ代わりに、つま先立ちルルべする。

 そして僕より拳一つ分上の高さから見下ろすと、彼女は腹の底から振り絞るように僕を怒鳴りつけた。

「朝からどこほっつき歩いていたんだい!」

 ジョセフィーヌは片足立ちしたままサンダルを手に取り、僕に向かって構える。

 彼女の眉間には深い皺が寄り、手に持ったサンダルが微かに震えていた。

「あの娘も待ってたんだ。それに、早く仕事探さないと生活費はどうするんだい!」

 どうやら、ジョセフィーヌは僕が朝から遊び歩いていたと勘違いしているらしい。


 しかし僕は、手元にオーナーから貰った百万円がある。内心、ジョセフィーヌにどやされようが、今の僕は無敵に近い自信があった。

「仕事探してきた」

 僕が少し得意気にそう言うと、ジョセフィーヌは目をかっぴらいて言葉を投げつける。

「じゃあ、家賃を払いな! 滞納していた三か月分十五万円をね‼」

 僕は懐から無造作に百万円を渡す。ジョセフィーヌは言い返せない僕に何か言いたかったのだろう。しかし、いきなり僕が札束を出して面食らったのか何度も僕と札束を見比べた。

「十五万円だって言ってるだろ‼」

 結局、彼女は何か一言いいたかったようで、それだけ言って僕を睨みつける。

 しかし、その眼はいつもより明らかに優しかった。

「家賃と、杏里ちゃんの分。後、ジョセフィーヌへの迷惑料」

「アンタ! 迷惑ってどういうことだい!」

「ごめんなさい。ちょっと色々あって、本当に疲れてて。寝ます。お休み

 あくび混じりに僕はそう言って、外の階段を上る。自室に向かう途中で、僕の背にジョセフィーヌは声を絞って問いかけた。


「夕飯は?」

「疲れて、それどころじゃ……」

 今日は濃密すぎる一日だった。正直、四十歳の僕が初めてのダジャレー・ヌーボーで空中戦を終わりまで耐えきれたのは奇跡に近い。それに、タカシさんに殴られて医務室送りにもなったし、追い打ちをかけるように殺血孤のプロデューサーにも会った。今は布団に入って寝たいというのが一番だった。

 背中越しに僕が応えると、階段を上ってきたジョセフィーヌに腕を掴まれる。

「いや、アンリエッタも今から食べるし、みんなで食べるよ。アンタも来な?」

「アンリ……エッタ?」

 はて、そんな外国人みたいな名前の人が、僕の知り合いにいただろうか。

 

「待ってたんだよ。アンタのこと! アンリエッタ、夕食の準備だよ! 下りてきな!」

 僕が不思議そうに呆けていると、ジョセフィーヌは家の奥に向かって大声を張り上げる。

 大家さん家の二階で扉が開いた音がすると、今度はとてとてと可愛らしい足音が下りてくるのが聞こえた。

 黒髪の少女は、長く艶やかな髪を後ろで束ねてポニーテールにしている。そして、ジョセフィーヌとお揃いのピンクのフリルドレスをパジャマに軽やかにフローリングの上に降り立った。

「ごきげんよう、ジョセフィーヌさん」

杏里ちゃんはフリルドレスの裾を摘み、まるで舞踏会に現れたプリンセスのように優雅に一礼した。その姿に僕は一瞬、息を飲んだ――昨日会った少女とは思えないほどの変身だった。

「あら、アンリエッタ。今日も素敵ね」と言ってジョセフィーヌは微笑んだ。

 ジョセフィーヌもフリル付きの前掛けの裾を持ち上げ、杏里ちゃんに会釈をした。

「でも、御髪が乱れてますわよ」

 夜中の十時に、この日本家屋にはドレス姿の少女とおばさんと、無精ひげを生やした僕がいる。まるでどこかの舞踏会に紛れ込んでしまった木こりのおっさんのような居心地に包まれながら、ただ静かに、僕は二人のむつみあいを眺めていた。


「ジョセフィーヌさん! 直してください!」

「はいはい。よござんす。直しやしょう」

 杏里ちゃんのお願いに、ジョセフィーヌは相好を崩して櫛を手に取った。

 ジョセフィーヌは杏里ちゃんのお願いを嬉々として受け、まるで孫にするみたいに優しく愛情込めて杏里ちゃんの髪を梳く。

「ア、ア、ア……アンリエッタ⁉」

 僕が驚くと、ジョセフィーヌはふふんと鼻を鳴らして得意げになった。

 ジョセフィーヌの少女趣味は知っている。彼女の部屋は、毎晩のダンスパーティーで着るための衣装が押し入れに溢れていた。しかし、僕がいない間に杏里ちゃんとジョセフィーヌは一体どんな会話を……。

「アンリエッタのご要望だよ」

 ジョセフィーヌがそう言って杏里ちゃんを撫でると、杏里ちゃんは嬉しそうにふんふんと鼻を鳴らす。どうやら、杏里ちゃんは前からこういったドレスに憧れていたらしい。

「可愛いだろ。この城には仲のいい二人のお姫様がいる。アンリエッタとジョセフィーヌ。このドレスはアタシの若い頃着ていたやつを仕立て直したのさ」

 杏里ちゃんは嬉しそうに、ジョセフィーヌに髪の手入れをされている。

 というかこの短時間で二人はどれだけ仲良くなったんだ……。


「二人のお姫様っていうか……主人と召使いじゃん」

 僕が突っ込むと、ジョセフィーヌはさもありなんと満更でもなさそうだ。

 もしかすると、杏里ちゃんは初対面の人に一瞬で愛されるような才能があるのかもしれない。

「杏里は可愛いからね。お姫様さ」

「ジョセフィーヌももう少し可愛げがあればいいんですけどね」

 お金を稼ぐ目途が立ったので、つい調子に乗ってしまった。でも、明日にはまたビクビクしてるんだろう。僕が彼女を皮肉ると、彼女はこちらを向いてにやりと笑った。

「アンタ、たった半日でになったね。憑き物が取れたっていうかさ」

 ジョセフィーヌは僕を揶揄うようにそう言った。いや、もしかしたら半分本気で言っているのかもしれない。

「何ですか、いきなり」

 僕は、このアパートで暮らし始めてから一度も彼女に褒められたことがなかったので、驚きと気恥ずかしさで目を逸らした。

「アタシが後十年若ければ、アンタを捕まえて離さないんだけどねぇ」

 髪を整え終わったので、杏里ちゃんの服を直しながら、ジョセフィーヌはため息をつきながらそう言った。

「ははは」

「笑うな」

 僕が愛想笑いを返すと、ジョセフィーヌはまたいつもの強い口調に戻ってそう言った。


 ジョセフィーヌが杏里ちゃんの髪を梳き終えた後、彼女が手招きする。

 僕たち三人は、ダイニングテーブルに移動した。

 どうやら今日の夕飯はシチューらしい。目の前には、人参やブロッコリー、じゃがいも、鶏肉が入った具だくさんのシチューとキャベツのコールスローサラダ、包み焼きハンバーグ、バゲットと、まるでフレンチのコースみたいな豪華な料理が並べられていた。

「アンリエッタが手伝ってくれたんだよ。何もしないのが申し訳ないからって」

 ジョセフィーヌの言葉に、杏里ちゃんは恥ずかしそうにもじもじする。

 どうやら、今日の料理は彼女がジョセフィーヌに習いながら作ったらしい。もしかすると、殺血孤と一緒に住んでいた時に、杏里ちゃんは料理をしていたのだろうか。

 贔屓目に見ても、小学生が作ったと思えないほどしっかりとした料理の数々に、僕は開いた口が塞がらなかった。

「今日はアンリエッタの歓迎パーティーだよ。どうしてもアンタがいないといけないんだってさ――アンリエッタがずっと待ってたんだからね。」

 僕は席に座って、スプーンをとった。

「いただきます」

 手を合わせて、僕はシチューを口に運ぶ。

 作ってから時間をおいて温めなおしたからか、野菜が程よく溶け込んでとろみが増している。

 いつも食べていたカップラーメンでは絶対味わえない優しい味だった。

 僕は、無心でシチューを食べる。大きさの違うじゃがいも、少し焦げた玉ねぎ、デカ過ぎるハンバーグも、口に入れると中から肉汁が滲みてきて美味しい。

「どうですか?」

「何か言ったらどうだい?」

 杏里ちゃんとジョセフィーヌが僕の顔を心配そうにのぞき込む。

 僕は、口の中のものを急いで呑み込み、こう言った。


「美味しい、美味しいよ……」

 その言葉を口にすると、何故か涙が出てきた。

 美味しいと、笑って言わなければならないのに、何故か涙が止められず、僕は子どものように顔を抑えてうずくまった。

 僕自身、何でこんなに涙が出るのか不思議でならなかった。それでも、今日あったことを思いだすと、自然と涙が出てきた。

「高橋さん、涙拭いて」

 杏里ちゃんからティッシュを貰い、僕は鼻をかむ。

 そうだ、殺血孤から貰った店が無くなって、代わりに杏里ちゃんを育てることになって、お金の為にダジャレー・ヌーボーに出て、そして……。

 昨日と今日で、僕は多くの経験をした。そしてそれは、僕にとってあまりにも辛いことだった。

「ありがとう。杏里ちゃん、僕は少しだけ、報われたのかもしれない」

 僕の頭に杏里ちゃんは手を置いた。そして、子どもを慰めるように優しく何度も撫でてくれた。

「高橋、お前、今日何があった?」

 ジョセフィーヌが僕の背中を撫でる。杏里ちゃんも心配そうに僕のことを見ていた。


「殺血孤のプロデューサー、いや、多分だけど……」

 僕は上手く出ない言葉を必死につなぎ合わせ、意味を作る。

 もしかしたら、こんなこと言わない方がいいのかもしれない。

 しかし、黙ったままでは何も進まないのではないかという焦りが僕の頭を支配していた。

 僕は、意を決して、二人に事の顛末を伝えた。

「杏里ちゃんのおじいちゃんに会った」

 山本姓と、殺血孤の関係者、そして彼の年齢から察するに、山本天馬は殺血孤の祖父であろうとの決断に至った。そして、殺血孤の親類が生きているということは頼る伝手が出来たということでもある。それに、会社の役員であれば生活に困らないだろう。

 これから杏里ちゃんの人生を決めていく時に、彼の存在は非常に大きいはずだ。

 僕の発言に、ジョセフィーヌは、さして驚いていない。まるで、杏里ちゃんのお祖父さんが生きているからなんだと言うかのように。

 しかし僕の言葉に、杏里ちゃんのスプーンが止まる。

「杏里ちゃん?」

 僕は杏里ちゃんの顔を覗き込む。


「多分、おじいちゃんじゃないです」

「じゃあ、山本天馬さんって誰?」

「パパです」

 杏里ちゃんは静かにスプーンを置いて食事を辞めた。

 僕は、殺血孤と杏里ちゃんを捨てていなくなった男を、お祖父さんだと勘違いしていたらしい。

 杏里ちゃんは舞踏会に赴く期待に満ちたお姫様の表情から一転。彼女の顔は、今までに見たことがない寒い顔をしていた。

 ジョセフィーヌが中腰になり、僕の顔と杏里ちゃんの顔を交互に見る。何かフォローの言葉をかけようとしているが、何を言えばいいのか迷っているらしい。

 そうか……。


 ――もしかすると僕は、地雷を踏んだのかもしれない――。

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