第18話 しじみしみじみ

 目を覚ますと、筋肉痛で身体の動きがぎこちない。二日酔いで、頭に微かな鈍さもある。僕はリビングのソファで寝ていたようだ。ソファの下には倒れた空き瓶、クッションには赤ワインの染み。毛布は腰の下に丸まっていて、冷えたフローリングが背中を刺す。机を挟んで向かいのソファには、ジョセフィーヌが下着姿で寝ている。どうやら、僕たちは踊りつかれてそのまま寝落ちしたらしい。ダイニングテーブルには、昨日のつまみがそのままほったらかしになっていた。

「昨日はすごかったね……高橋……んふ」

 ジョセフィーヌが不穏なことを言った。……ってことは、もしかして僕は……いや、まさか。いや、でも昨夜の記憶が……いやいやいや。僕がそう思って彼女の方を見ると、ジョセフィーヌは気持ちよさそうな寝息を立てて夢の中にいる。

 どうやら寝言らしい。しかし、その言葉が一層僕の中の不安を大きくする。


 身体を起こすと、リビングの扉が開き、トイレから戻ってきた杏里ちゃんと目が合った。

「おはよう」

「おはよう、ございます……」

 杏里ちゃんは僕を見るなり「きゃっ」と、小さい悲鳴を上げる。僕が何かしただろうか。僕が不思議に思っていると、杏里ちゃんの視線が下がり、口を手で覆った。何事かと目線を追うと、毛布がするりと落ちて、僕の肌寒い現実が露わになっていく。僕は、全裸だった。

「ごめん……」

 僕は、情けない四十の男だった。

 僕は、すぐに杏里ちゃんから身体を背ける。そして、フローリングに落ちたパンツを拾い、履いた。扉の方を見ると、杏里ちゃんはいなかった。どうやら、二階に戻ったらしい。

 朝の光が差し込んでくる。頭の奥がまだ重いまま、僕はキッチンに向かった。


 今朝のごはんは僕が作った。

 茹で鮭に甘めの卵焼き、納豆と韓国のり、しじみの味噌汁。小鉢にひじき煮と、シンプルな和食にしてみた。食卓に出したときに、少しおっさん臭いかとためらったが、杏里ちゃんは不満も言わずに黙々と食べてくれた。

「あ゛あ゛……飲んだ後はしじみの味噌汁が沁みるねぇ‼」

 低血糖で朝が弱いと言っていたジョセフィーヌは、僕が作った味噌汁を飲み干すと、綺麗に出来た卵焼きを端の方からめくりあげ、うどんのようにして口に運ぶ。癖の強い食べ方だ。

 素のジョセフィーヌは、まさに豪放磊落ごうほうらいらくだった。どうやら杏里ちゃんの前で取り繕う気もないらしい。一方の杏里ちゃんは、そんなジョセフィーヌに対して軽蔑するどころか、むしろ肩の力が抜けたようで昨日よりものびのびと食事を楽しんでいるように見えた。

 僕は、ジョセフィーヌで童貞を捨てたのか。聞きたくても彼女の反応が怖くて聞けない。真相は神のみぞ知るところだ。


 歳をとっても、人間は成長しない。ノリと勢いで、いつも取り返しのつかない思い出を積み重ねる。記憶があやふやな頭を何度か叩いて、僕は「うぅ」と小さくうめき声を上げた。現実逃避の意味も込めて、僕は料理酒の風味が残った鮭を米と一緒に口いっぱいに頬張る。

「杏里ちゃん。昨日はごめん」

 僕は、綺麗に鮭の皮だけを残して食べる杏里ちゃんに向かって頭を下げた。

 杏里ちゃんは、僕の顔をチラリと見て、静かに箸を置く。

「大丈夫です。前に学校で友達に揶揄からかわれたのが嫌で、ついあんなことを言ってしまいました」

 そして、こちらを向きなおし、深々とお辞儀をする。

「こちらこそ、助けてもらっているのに、あんな態度をとってしまって、ごめんなさい」

 言葉に棘があるわけではない。それでも、昨日ジョセフィーヌが言ったように、妙に達観したところがある杏里ちゃんの言葉は、僕の頭を鋭く突き刺す。

 僕は、彼女に返す言葉が思いつかない。そして僕が何も言わないでいると、彼女は僕の顔をじっと見た。彼女は、僕に何を言わなければいけないか探っているようだ。

 僕は何か言おうとして、箸を置いた。口が動きそうで動かない。何か違う、と言葉を飲み込む。けれど……。

 僕は、違うと大きく首を振って、言葉を噛みしめるように気持ちを伝える。


「僕は、杏里ちゃんにお礼が言いたいんだよ」

「お礼?」

 僕の言葉に、杏里ちゃんはきょとんとした顔を向ける。味噌汁の湯気が、僕の言葉を肯定するように立ち上っていた。

「杏里ちゃんが作ってくれたシチューも、ハンバーグも……。すごく美味しかった。特に! シチューの味がちょうど良かった」

 僕が杏里ちゃんの目を見てそう言うと、彼女は申し訳なさそうに目を逸らした。

「本当だよ。ハンバーグの焼き加減も絶妙だった!」

「いえいえ、そんな私なんて……。ジョセフィーヌさんがほとんど作ってくれたので……」

「いや、アタシはちょっと教えただけだよ。高橋の言う通り、アンリエッタの料理はものすごく美味かった。胸を張りな」

 僕に加勢して、ジョセフィーヌも杏里ちゃんを褒める。

 もしかすると、杏里ちゃんは褒められ慣れていないのかもしれない。

 二人に料理の腕を褒められて、杏里ちゃんは恥ずかしそうに俯いている。

 俯く彼女の顔を覗くと、どこかむず痒そうに、そして嬉しそうに口角を上げていた。

 

「僕たちに、何か、お返しできないかな?」

「何でも好きなもの欲しいって言いな。金持ちの高橋が何でも買ってあげるってさ」

「出来る限りは」

「高橋、男を見せな」

「何でも買います。善処します」

 僕がそう言うと、杏里ちゃんは少しほほ笑んだ後、「それじゃあ……」と言った。


「それじゃあ……?」

 僕とジョセフィーヌは二人で杏里ちゃんの顔を覗き込む。

「遊園地に行きたいです!」

「遊園地?」

「最近行ってなくて……それに、気分転換になればって」

 僕は苦笑しながら頷いた。初めて、杏里ちゃんの子どもらしいところが見えた気がする。ジョセフィーヌも、意気揚々と出かけるための準備をしに階段を上って行った。

 幸い、僕はしばらくダジャレー・ヌーボーのシフトが入っていない。会社員だとこうはいかないだろう。やりたいときに好きなことがやれる。このときばかりは、自分の職業に感謝した。

 三人の支度も終わり、僕たち三人は遊園地へ向かう。


 ――この時、僕たちはまだ、杏里ちゃんがの女の子ではないことに気づいていなかった――。

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