第5話 大家のジョセフィーヌ
杏里ちゃんは僕と手を繋ぐのを嫌がると思ったが、意外にもすんなりと繋いでくれた。
はぐれないようにしっかりと握り返す彼女の手は、サラリーマンでごった返す夜の銀座に紛れて消えてしまいそうになるほど、頼りなく小さかった。
「遅くなっちゃったね」
コロシアムを出てから、すでに十時を過ぎている。良い子は寝る時間だ。歩幅の違う足を何とか彼女に合わせながら、僕は何気なく杏里ちゃんに声をかけた。
「お腹空いてる?」
杏里ちゃんは何も答えなかったが、代わりに僕の問いかけに応えるように、彼女のお腹がくぅと鳴った。
「牛丼食べる?」
杏里ちゃんは首を小さく振る。どうやら牛丼の気分ではないらしい。
僕はこのお姫様に何を召し上がってもらえばいいか考えながら、地下鉄の長い階段をゆっくりと、下りた。
杏里ちゃんから色々聞きたいことはあったが、とりあえず彼女の住む場所を確保しなければならない。とりあえず、銀座から日比谷線で三十分弱かけて北千住駅に向かう。駅から二十分歩いたところに、僕のアパートがあった。
フォルテッシモ荘。名前の理由は“足立区でも負けない強い荘に育ってほしかった”らしい。安全な場所というと、僕が思いつく限りここしかない。
「築四十年のボロいアパートだけど、ここの大家さんは優しい人だから大丈夫」
ぴんぽーん。アパートの一階のチャイムを押すと、
「すいませ~ん。大家さ……ジョセフィーヌ、高橋ですぅ」
中からはチャイコフスキーの白鳥の湖が聞こえてくる。
おそらくワルツを踊っているのだろう。今年六十になる大家の主人は、アパートの住人にジョセフィーヌと呼ばせていた。
中でどたどたと音がして、一分ほど待った後にドアが開く。
ドアを開けたのは、パーマのロッドを付けておはぎみたいな頭になっている大家さんだった。パーマついでにスキンケアもしていたのだろう。顔が全体的にゆで卵並みのテカテカ具合なのは、彼女の長年の努力によるものだった。
「すみません、ジョセフィーヌ。ちょっと相談がありまして」
僕がそう言うと、大家さんはたまご肌を梅干しに変え、般若の形相でこちらを睨んだ。そして。
「今、何時だと思ってるんだい‼」
バチンッッ‼ 僕の頭に、サンダルが振り下ろされた。底が木製の昭和なサンダルだったので、角が当たると非常に痛い。僕は頭を押さえてその場で悶絶する。
「って、アンタその子……」
大家さんが杏里ちゃんを見つけてたまご肌に戻る。杏里ちゃんはド派手なおばちゃんが目の前に現れて驚いているのか、会って以来最大の大きさで口をあんぐり開けていた。
「誘拐?」
「殺血孤の娘だって」
僕は鈍痛が残る頭を押さえながら、杏里ちゃんについて説明した。
「山本杏里です」
「ああ、
杏里ちゃんが深々とお辞儀するのを見て、大家さんは思わず頬が緩む。
大家さんが杏里ちゃんを抱き寄せると、杏里ちゃんは大人しく彼女に頭を撫でられていた。
「ジョセフィーヌ、相談があって」
僕は改めて大家さんに手を合わせる。
「嫌だね」
しかし、彼女はまだ何も言っていないのに拒否した。
僕が大家さんの眼を見つめると、彼女は心底嫌そうな顔でこちらを睨み返す。
「杏里ちゃんを預かってほしいんだけど」
僕がそういうと、「ッハァ~~~~~~~~ッ⁉」大家さんは全身から空気がすべて抜けるんじゃないかと思うほど長い溜息をした後、空を仰ぎ見た。今日の月は、雲がかかってよく見えない。
「仮に、アタシがこの子を預かったとしてアンタはどうするんだい」
「バーで働けなくなっちゃったから新しい仕事探さないと。お金貯めなきゃいけないし……」
「だったらなおさらだ。子ども一人他人に押し付けて仕事に行く男なんて、そんな薄情な奴の頼みなんてアタシは聞きたくもない!」
大家さんの返答に、僕は頬を掻いた。今の僕には彼女以外頼れる人はいない。
ここで彼女に断られてしまうと、今の僕にはどうすることもできなかった。
「そこを何とか。この子は帰るおうちがないんです……」
「子どもを盾にするなんてアンタはどこまで落ちれば気が済むんだい!」
バチン! 大家さんはまた僕の頭をサンダルで叩いた。
「杏里ちゃんを任せられるのはジョセフィーヌしか知り合いがいなくて……駄目?」
僕は何とか杏里ちゃんを預かってもらおうと、手を蠅のようにこすり合わせて頼んだ。これからの生活の為にも、ここで引くわけにはいかなかった。
「こんのアホンダラ! アンタが引き取った子だろ? すべて捨てて自分は無関係かい‼」
「え、だって……僕みたいな中年男が小さい女の子を匿っていたら世間的に不味くない?」
僕は大家さんに正論を言った。この反論に、大家さんは手も足も出まい。
僕の勝ちだ。そう思った瞬間、大家さんは顔色を変えず、冷静に僕に問い返してきた。
「するのかい」
「え?」
思わず僕は、素っ頓狂な声を上げる。
「こんな幼い子を、アンタは手籠めにするのかい?」
「しないけど……」
「当たり前だよ‼」
バチン! 大家さんのサンダル・ビンタは、叩けば叩くほど勢いを増していった。
「痛った! さっきから何なの? 僕の頭をバンバンバンバン叩いて。そのサンダルで」
「幸子ちゃんがいなくなってから魂が抜けたと思いきや、いきなり他所から子どもを連れてくるような奴を叩かない訳ないだろ‼」
大家さんは、また僕を叩こうとした。僕は痛みをこらえるため、体に力を込めて、目をぎゅっと閉じる。
「って、ちょっと待ちな」
しかし、大家さんから打撃が飛んでこない。僕が目を開けると、勢いのついたサンダルは、僕の頭に当たる直前、空中で完全に停止していた。
「なんです?」
「よくよく考えれば、この子が幸子ちゃんの子どもってことは、アンタが間男ってことだ」
確かに今思うと、殺血孤は旦那がいながら僕と会っていたことになる。
だとすると、彼女の本命は別の男で、僕は単なる遊びの男だったということだ。
それにしても、だ。
「間男って、人聞き悪いなぁ……」
改めて大家さんに指摘されると、何だか居心地の悪い感じがして嫌だった。
コロシアムでは殺血孤が生きていることが分かった衝撃でそれどころじゃなかったし。
「事実だろ。アンタ、不倫してたのかい」
「知らなかったもん。殺血孤が結婚してたなんて」
わざわざ殺血孤もそんなこと僕に言わなかったし、僕も彼女に聞かなかった。
そもそも僕に店を一つ任せてくれる彼女に、まさか家族がいたなんて思わなかったし。
「で、親は? この子の父親は何してんだい?」
「この子のお父さんも行方不明みたいで」
僕は、オーナーに聞いたことを大家さんに話した。
大家さんは、終始臭いものを見るような顔で僕の話を聞いていた。
「全く、後先考えずに厄介なこと引き受けちまって……バカ男が」
ア゛ーッ! めんどくさいねぇ! と、大きな声で叫び、大家さんは頭を掻いた。その衝撃で、彼女のパーマロールが二個、夜の繁みへ飛んでいく。
この調子だと、新しく杏里ちゃんの住む場所を見つけなければいけない。
「駄目みたい。行こうか、杏里ちゃん」
僕は踵を返して大家さんの前から立ち去ろうとした。
「誰が駄目だと言った」
しかし、諦めかけた僕の背中に、大家さんの手が置かれる。
「え?」
僕は振り返った。大家さんはすでに、アパートの中に戻ろうとしている。
「さっさと入りな、間男。杏里ちゃんもお腹空いてるだろ?」
「高橋です」
「間男だろ‼」
ジョセフィーヌが僕の頭を叩くと、それにつられて杏里ちゃんが笑う。
―― こうして、杏里ちゃんの住む場所が決まった――。
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