第4話 山本杏里

 オーナーの口から放たれた言葉は、にわかに信じられないことだった。

殺血孤さちこが生きているって……」

 オーナーが嘘を言っているようには思えない。

 それどころか、オーナーは僕が掴んで皴になったアルマーニのスーツを直そうともせず、しかしはっきりと僕に眼を合わせている。

「ふざけないでください。まるで、殺血孤が今どこにいるのか知っているみたいな……」

 オーナーは僕の質問に間髪入れずに答えた。言葉が僕の肚を撃ち抜き、気が一瞬遠のく。

 信じられない。僕は思わずオーナーの襟首から手を離して数歩後ずさりした。


「そのための無敵艦隊だ。まあ、チャンピオンは高橋君にらしいので……」

 オーナーはネクタイを締めなおし、そう言った。

「とっておきのメンバーを、もう一人紹介しようかな」

 オーナーが一歩身を引くと、会場の隅に一人の女の子が立っている。

 彼女の顔を見た瞬間、僕はとてつもなく嫌な予感がした。同時に頭の隅に刻まれた記憶の轍が、彼女の何かとぴたりとハマる感触がする。

 彼女はオーナーの手招きを見ると、小走りでこちらに近づいた。そして、僕から隠れるようにオーナーの影に立った。


「お嬢ちゃん。おじさんにご挨拶してごらん?」

 オーナーの背中から顔を出した少女は、僕を見て怯えていた。

 彼女は僕の胸元より低い位置からこちらを見上げ、その潤んだ小さい唇を開く。

「はじめまして。杏里あんりです」

 杏里ちゃんは礼儀正しくお辞儀をした。

「女の子?」

「確か先月十歳になったばかりだったか。彼女が現状、この中では一番、ということになる」

 オーナーの言葉が一々引っかかる。とはどういう意味だろうか。もしかして、この杏里ちゃんが殺血孤の居場所を知っている。ということなのか。

 僕が口を開こうとした瞬間、オーナーが先に話し始めた。


「彼女が、無敵艦隊の三人目だよ」

 何故か、すでに僕がメンバーに入っていることには目を背けつつ、僕は杏里ちゃんに取り繕った笑顔を向ける。

 まだ小学生の幼い女の子はオーナーの後ろで震えている。彼女が僕たち大人の事情に首を突っ込まなければいけない理由が分からなかった。

「何故、彼女がこんなトンチキなことに巻き込まれなければいけないんですか」

「この子を呼んだのはね。高橋君に預かってほしいからなんだ」

「何で僕なんですか。彼女の親は?」

 成人男性の家に女の子一人を住まわせるというのは明らかにおかしい。

 僕は、オーナーの考えが分からなかった。

「実は、杏里ちゃんも殺血孤君を探しているし、ちょうどいいと思って。彼女は保護者がいないんだよ。ご両親とも行方不明でね」

 何故、こんな小さな女の子が殺血子を探しているのか分からない。彼女のファンか。そして、この歳で天涯孤独とはあまりにも壮絶すぎるだろう。

「杏里ちゃんは何者なんですか。それに、独身の僕に女の子を預けるって正気ですか」

「君には私に恩があるはずだよ。殺血孤君に先払いしてもらっていたテナント料が底を尽き、滞納しているだろう。早く返済したまえ」

 オーナーは痛いところを突いてきた。確かに、彼の温情で店のテナント料は待ってもらっている。だけれど、それとこれとは別だ。今の僕に一人の女の子を養う資格なんてない。

 それに、バーが無くなった今、肉体労働でもして自分の生活費を稼がないといけないのだ。


「家賃を滞納してしまったのは申し訳ありません。でも……何も店を壊さなくてもいいじゃないですか」

「三年だ」

 オーナーは、僕の前に指を三本立てる。

「私は三年間、君が変わるのを待った。しかし君は何も変わらず、ただ殺血孤君を待ち続ける抜け殻としてしか存在しなかった」

「それでも、必ず返済します。だからどうか、無敵艦隊に入るのだけは勘弁してください」

「銀座の一等地は高いぞ? 滞納した分、まけにまけて一千万円。四十代の君が払えるのか?」

 オーナーの言葉に、何も言えなくなった。

 一千万円。四十の僕がバイトで稼ぐのはかなりの時間がいる。

 東京に住みながらだと無理だろうか。だとしたら、どこか遠くの街に家と仕事を探さなければならない。

「これだけ待ったんだ。私、自分で言うのもなんだが、大分人間が出来ていると思うんだがね?」

「金は、何とか働いて返します」

 僕は、オーナーに深く頭を下げた。

「そうか。じゃあ、無敵艦隊はこの二人ということになる」

「そうですか、僕には関係ないです」

 僕はそう言って、会場から出ていこうとした。

 しかしその時だった。後ろから、僕に聞こえるようにオーナーが大声を出した。


「まあ、高橋君が杏里ちゃんと無関係だというならしょうがないよ!」

 そう、僕には無関係だ。オーナーとも、このダジャレ・コロシアムとも。

「だって今日からチャンピオンの家に杏里ちゃんは住むんだから」

 今、オーナーの口からとんでもない言葉が聞こえた。振り返ると、杏里ちゃんがタカシさんの腕に抱かれている。


「保護者がいないと杏里ちゃんも心細いだろうしな」

「さあ、おじちゃんの家に行こうね。おもちゃもたっぷりあるから」

 僕は、来た道を戻り、タカシさんの手から杏里ちゃんを引き剥がした。

「こんな不潔でギャンブル狂いのおっさんの家に、小学生の女の子を住まわせる⁉」

「おいおい、それは差別だぞ」

 タカシさんは少し苛立った目でこちらを見てきた。

「高橋君。大丈夫だよ、俺が杏里ちゃんを可愛がってやるから」

 タカシさんはそう言うが、明らかに彼に任せては駄目だ。僕の頭に、凌辱される杏里ちゃんの姿が浮かぶ。おぞましく、吐き気のする光景だ。

 無敵艦隊に入って、杏里ちゃんを僕が預かる方がまだマシだ。しかし、いいのか? 僕は貧乏くじを引くんだぞ?

 オーナーは、僕の心に迷いが生じたのを見逃さず、ここぞとばかりに畳み掛けてきた。


「高橋君。君は、先ほど杏里ちゃんと関係がないと言ったね?」

「言いました。でも、タカシさんと一緒に住ませる訳にはいきません!」

「と、いうことは高橋君は無敵艦隊に入るということかな?」

 白々しく、オーナーが僕の顔を覗き込んで聞いてくる。

 僕は、あえてオーナーの質問には答えず、質問に質問を重ねた。

「杏里ちゃんは殺血狐と一体どういう関係なんですか?」

 僕の問いかけに、オーナーはニヤリと笑う。今までに見たどんな笑顔よりも邪悪だった。


「杏里ちゃんはだ」

「むす、め?」

 僕が杏里ちゃんの手を離すと、彼女はすぐにオーナーの後ろに隠れた。

「ほら、もう一度自己紹介をしてごらん?」

 オーナーは杏里ちゃんの頭を撫でて、優しく促した。

「はじめまして、高橋さん。山本杏里です」

 杏里ちゃんは、確かにと名乗った。殺血孤と同じ苗字。そして、彼女に瓜二つの顔が、僕の心を揺さぶる。

 やられた。そう思った。

 オーナーは、杏里ちゃんという切り札ジョーカーを切ったのだ。

 僕を無敵艦隊に入れる為に。たったそれだけの為に、殺血孤の影を宿す彼女の娘を、この瞬間の為に用意した。

 ダジャレ・バーという殺血孤の抜け殻を失って余りある、熱を持った彼女の残滓が、今、僕の目の前にいる。

 僕は、思わず膝を折って、オーナーに頭を下げていた。


「……ります」

 僕の心は、杏里ちゃんの登場で決まっていた。


「無敵艦隊に、入らせてください。その代わり、杏里ちゃんの住む場所は僕に考えさせてください……」

「もちろんだとも」

 オーナーが、同意書と金縁のペンを僕に渡す。

 紙を手に取り、僕が杏里ちゃんに向き直ると、彼女はキョトンとした顔でこちらを見た。

「交渉成立だ」

 オーナーが手を叩いて喜んでいる。


 ――僕は、陥落した――。

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