第15話 思い出せない誰かの声
「上手く言葉にできないのだけど、たまに誰かの存在が頭を過るの……でも、記憶を手繰ろうとすると、消えてなくなってしまって……」
たどたどしく違和感を訴えるセレナの話を、ユリウスは不気味なほど静かに聞いていた。
「その人は、わたしにとって……」
「セレナにとって、なに?」
そう問う彼の声が、氷のように冷たく感じた。
「思い出せない程度の相手だったんだろ? なら、忘れたままでいいよ」
仄暗い目で、ユリウスはそう諭してくるけれど。
「でもっ」
その程度の相手で、片付けてはいけない気がするのだ。
言うなれば、自分にとって、とても重要だった使命を、忘れてしまったような罪悪感を覚える。
――死なないで、セレナ――愛してる。
「っ……」
「どうしたの?」
「湖に……落ちて、溺れかけたとき……」
「うん」
「わたし、誰かに助けてもらって……」
「うん」
「それから、わたし……」
あの時、自分を助けてくれたのは、誰だっただろう。冷たい水の底から、力強く救い上げてくれた手のぬくもりは、ちゃんと思い出せるのに……。
自分が忘れているのは、その誰かなんじゃないかと思った。
「もしかして、あの時セレナを助けたのが、誰だったか思い出せなくて苦悩してる?」
「ええ」
この記憶さえ思い出せれば、全てが繋がる気がする。
「確かに……それは、大事かもね」
「でしょ!」
「誰だか思い出せないままなのは、オレとしても少し寂しいし」
「どうして、ユリウスが寂しいの?」
「あの時、セレナを助けたのは……オレだから」
「……え?」
そうだっただろうか。
なにか違和感を覚える。
――また、こめかみがズキリと痛んだ。
「そう、だったかしら?」
「なんで疑問形なの? 忘れちゃった? あの時、何度もセレナの名前を呼んだ声を」
――死なないで、セレナ――愛してる。
その瞬間、セレナはハッとした。
おぼろげな記憶の中にある、ぼやけた声が鮮明に思い出されたのだ。
(あの時の声……そうだわ。あの声は、ユリウスの声!)
「思い出した?」
「ええ……」
「あの時は、セレナを失うんじゃないかって怖かった。なり振り構ってられなくて……思わず本音を口にしてた。伝えるつもり、なかったのに」
ユリウスは、淡々とそう教えてくれる。その表情は、切なげだった。
「でも、セレナが一命をとりとめてから……怖くなって、オレは逃げたんだ」
「怖い? なにが?」
「セレナに……嫌われるんじゃないかって」
「嫌われる?」
命の恩人なのに?
「だって、義弟として接していた人間に、異性として意識されてたなんて……気持ち悪がられる可能性だってあるだろ」
「そう、かしら……」
確かに、屋上で想いを告げられた時は、驚いたけれど……気持ち悪いとは、思わなかった。
今も、戸惑いはあるけど、ユリウスに対する強い拒絶感はない。
こんな自分の反応は、おかしいのだろうか。
普通は、もっと強烈な嫌悪感を、覚えるものなのだろうか。
「だから、うやむやにして、言い出せなかったんだ。けど……ずっと後悔してた」
ユリウスは、そっとセレナの頬に手を添え、想いの滲む眼差しを向けてくる。
「オレ、もう逃げないって決めたから」
「ユリウス……」
「想いを伝えて嫌われるなら、それでもいい。どんな手を使ってでも、最後には振り向かせてみせるよ」
こんなに強烈に、自分を想い続けてくれていた人がいたなんて。
なんの役にも立てない、一族の面汚しと言われてきた自分なんかを。
「ありがとう、ユリウス」
セレナは、頬に触れるユリウスの手に、自分の手を重ね、そのぬくもりを確かめるように目を閉じる。
(でも、ここでユリウスを受け入れてしまったら、わたしの使命は……あら? わたしの、使命ってなんだっけ)
やっと大切なことを思い出せた気になっていたが、モヤモヤが晴れない。
(わたしは『 』と『 』しなくちゃ、ダメなのに)
「セレナ?」
「わたし……」
ユリウスとの時間は、こんなにも心地が良くて、楽しくて……なのに、後ろめたい。
それは、彼が義弟だからというのが、理由だろうか。
それだけじゃない気がする。
「いいよ、焦って答えを出そうとしないで」
「ユリウス……」
「セレナの気持ちがオレに向くまで、ずっと待ってるから」
ユリウスは、そう言って少し切なげに笑うと、手を離し歩き出す。
それを、寂しいと思ってしまった自分の想いを抑えて、セレナはユリウスの背中を暫し見つめていたのだけれど。
「っ……」
「ど、どうしたの!?」
突然、ユリウスがよろけたのを見て、慌てて駆け寄る。
「大丈夫、少し目眩がしただけ」
「目眩!? それは、大丈夫とは言わないわ」
「大げさ。本当に、もう大丈夫だから」
強大な魔力のせいで、昔からユリウスは体調を崩しやすい。
だから、よけいに心配になるのだ。
「そんなに心配そうな顔しないで」
「うん……」
ユリウスも、もう子供じゃない。
本人が大丈夫と言っているのだから、しつこく心配するは、よくないかもしれない。
「今度こそ、帰ろっか」
セレナは、こくんと頷くと、自らユリウスの腕に腕を絡めた。
「っ、セレナ?」
「……また、目眩が起きたら危ないから」
「支えてくれるの?」
「うん」
「ありがとう」
ユリウスは、こちらが蕩けてしまいそうな程、優しく目を細め微笑んだ。
『――ナ、おい、セレナ!』
(えっ!)
突然――誰だか思い出せない、けれど、聞き覚えのある青年の声がして、セレナは表情を強張らせて振り返る。
「どうしたの?」
ユリウスには、今の声が聞こえていなかったようだ。
そして、周りを見渡しても、人気などない。
(気のせい……だったのかしら)
「なんでもないわ」
きっと、気のせいだ。
そう思いたくて、セレナは先ほどより、ぎゅっと強くユリウスの腕にしがみつく。
これでは、目眩を起こしたユリウスではなく、自分が支えてもらっているみたいだ。
「急に、夜道が怖くなった?」
「……そうみたい」
「かわいい。大丈夫、なにがあっても、オレが守ってあげる」
いつだって、守ってあげなくちゃと思っていた義弟が、いつの間にか、こんなにも頼もしい。
「大丈夫よ……守ってもらうほど、わたしか弱くないわ」
そんな気持ちを誤魔化したくて、思わず可愛げのないことを言ってしまった。
腕っ節なんていくら強くても、なんにもならないのに……。
「まあ、確かに。セレナは、普段は守る側の人間だよね」
「怪力持ちだしね……」
最近は、隠すようにしていたけれど、子供の頃から一緒にいるユリウスは、もちろん知っている。
「ああ……子供の頃、オレが暴走しかけた時、その力で腹に一撃お見舞いされたこともあったな」
「うっ……そうね」
自分から触れてしまった話題だが、女性で怪力持ちというのは、褒められるものじゃないから、恥ずかしい。
(『 』には、女性らしくないから、隠した方がいいて言われたっけ……)
ふと、誰かに否定されて、悲しかった時の気持ちだけ蘇る。
でも、当然の反応だと思ったから、言い返せなかった時の感情が……。
「セレナはいつも、その力を誰かのために使うよね」
「え?」
「あの時は、オレを守るために使ってくれた。そして、魔物退治で大剣を振り回すのは、人々を守るためにだ」
そう語る彼の眼差しは、『誰か』と違って温かい。ユリウスは、自分より腕力の強い女性が、嫌ではないのだろうか。
「そういう、強くて優しいところも、オレは好きだよ」
「っ……」
自分の短所だと思っていた部分を、さらっと好きだと言われた。なんてことないように。
「もちろん、好きなところは、それだけじゃないけど」
「……そんなこと、今まで言ってくれたことなかったじゃない」
「隠してたからね。でも、態度に出さなかっただけで、心の中で思ってきた気持ちに変わりはないよ」
――だから、早くオレのこと好きになって。
そうユリウスは、冗談めかして言う。
でも、セレナは。
(これ以上、わたしの心の中に入ってこないで……)
訳の分からぬ罪悪感から逃れるように、そう、願ってしまった。
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