異聞録 第四話 後悔噬臍のイミテーション

疲れていたし、マリシアが放った言葉の意味を聞き返さなかった。もう少しあの時深堀していたら今すぐに荷物をまとめて逃げていただろう。もう間もなく家だというところでマリアは言った。


「計画って言うのはね……導師様が言うところによると、あの人は別の世界の王国を治めているそうなの」


寒さで耳たぶが冷たい。マリアは続ける。


「有能な魔法使いが欲しいんだって。着いていけば土地を下さるそうよ」


つまるところ領主になれるということである。ヤンはそんな物に興味は無かった。ただ自由に生きて死にたいだけ。


「考えておいてね」


「嫌だと言ったろう」


「そうは言っても、あの人は大いなる力だから……抵抗するのは難しいと思うの」


家の前でヤンはマリシアを下ろした。有難う、と彼女は微笑む。


「今日は面倒なことに付き合わせてゴメンね。おやすみ」


そうして池のほとりに佇むボロ屋に彼女が戻った見届けて、俺は厩舎に戻った。




魔女集会に遭遇してからも特に生活は変わらなかった。薬草を積んで、マリアに渡して……そんな日々。ただ一つ。困ったことが出来た。それは……


「ヘルミ。もう帰ろう」


「だめ!あの子と遊ぶの!」


ヘルミが同い年の少女と遊ぶことに夢中になってしまったことだった。その少女とはオルテンシア。手品と称して魔法を見せ、ヘルミを惑わせる。


「気は変わった?」


水の鳥を出してヘルミを遊ばせているさ中、オルテンシアは俺に言った。


「俺は行かない」


「……そう。行かないのね」


少し残念そうな声色だった。胸がすくような思いだった。だけど直ぐに笑いを孕む声に変わる。


「その約束、違えてはダメよ」


「約束は破らない」


「ふふ……どうかしらね……」


最近はヘルミも魔法に興味を持ってマリアに詳しく聞く有様だった。彼女にも才があったらしく、地面から少しだけふわふわ浮かんでいるのを何回も見た。


あと数日。一ヶ月経つまであと少しだった。この厩舎も気に入っていたし、彼女らが去ったら住まわせて貰おうと思っていたのに。


それは突然起こった。


事件が起こったのは夜中だった。母屋の方から「違う」「私じゃない」という悲愴な声が聞こえる。


起き上がって耳を澄ますと、老婆が引っ張られて行くのが見えた。俺は睨む以外に表情が動いているのを初めて見た。


「今日にしたの。満月だったからね」


背後にはオルテンシアが立っている。慌てて近くにあった棒きれを掴んだ。


「マリアは森の抜けたところにいるよ。行った方が良いと思うけど」


「そうやって計画に乗せるつもりか?冗談じゃない!」


怒りに睨むヤンに、オルテンシアは白々しく首を傾げた。


「んー。別にいいけど」


ひょい、と男の背後を指さして。


「殺されちゃうよ?」


後ろを振り向くと鬼の形相で男達が厩舎に走ってくるのが見えた。少女の方に視線を戻すと、そこにはもう誰もいない。


はやる気持ちを抑えながら、ヤンは森の中を走った。魔女集会をしていた広場を抜けたあたりで足が痛み出す。口の中に血の味が広がった頃、森を抜けた。


膝に手を着いて肩で息をしていると視界の端に何かが映る。蛍だ。蛍が道案内するかのように、ヤンの前を飛んで行く。


獣道を抜けるとあぜ道に出た。道の先には八角形を描く青い光と幾つかの人影……マリシアの後ろ姿が見えた。


「マリシア!」


ヤンの声にマリシアは振り返った。先程まで見えなかった青い光の全貌が見える。見たことの無い文字が八角形の魔法陣に綴られ、幾枚も重ねられていた。魔法陣の奥には美しい草原……見慣れない風景(らくえん)が揺らいでいた。


血相を変えた男を見たマリシアは、一瞬だけ面食らった表情をしたが、すぐに悲しそうに視線を落とした。


「帰ろう、マリシア。君のお母さんが連れていかれたんだ」


「いいのよ。だって母さんが望んだことだもの」


マリアの信じられない言葉にヤンは一瞬たじろくも、それに気づかない少女は続けて言う。


「世界同士を繋ぐのなら、贄を出さないといけないって言われたから。……そうしたの」


魔法陣の向こうから草の匂いに乗って暑い風が吹いてきた。今が夜だと信じられない様な、夢幻のリアリティ。


「母さん喜んでたわ。私が魔女で別の世界で偉くなれるって聞いてね。その為なら死ぬって。怯えた振りをずっと練習してた」


「……冗談じゃない。別の世界なんて嘘だ」


バカにした声色で少女は叫んだ。


「それって証明出来るの?神秘はここに存在してるのに?」


確かに彼女の言う通りだ。魔法陣が神秘を雄弁に語っている。しかしそれでも理論を否定することは出来ないし、そうあってはならないのに。


「科学は私を助けてくれない。無意味よ。麦にもなりやしない」


現実をねじ曲げた魔法陣が彼女の言葉に同意を与えている。


「あんなもの金持ちの道楽よ。だから、私はこれを選ぶ!」


だがしかし。彼女の選んだ道は許されるものでは無い。


「……マリア。違う。君の選んだ選択肢は間違いだ」


ヤンは気取られない様にゆっくりとマリアへ近づく。


「逃げることは悪ではない。だが、逃げる為に因果をねじ曲げることは悪だ」


頬を冷たい夜風が撫でる。魔法陣に音を立てて亀裂が入った。少女は慌てて振り返る。


「君が良くても子供達はどうする。生まれ育ったこの世界から逃げるということは彼らから全てを奪うことになるんだぞ」


少女は子供達を背後に隠してヤンを睨んだ。


「……お説教はそれだけ?」


「そうだな。あとは勘だ」


もう少しでマリシアに手を伸ばせば届く距離になる。その気持ちを隠してヤンは余裕そうに笑った。


「別の世界に行って貴族として暮らせるなんて……そんな上手い話、ある訳ない」


笑みを消してヤンは目を合わせた。益々魔法陣に亀裂が走って、奥の楽園がぼやけて行く。


「俺は君を止める。何もかもが手遅れだったとしても、どうにかする手立てはまだ残ってる」


しかしマリシアは魔法陣に亀裂が入っていることに気づいていないようだ。必死になって青年に言い返す。


「何よ……そんな泥臭い綺麗事……あんたは神秘を否定するつもり?」


「あぁ。俺は神秘を否定する」


目を潤ませて睨んだマリアは、ヤンが手を伸ばすよりも早く魔法陣の方へと駆け出した。境界に足を踏み入れたところでマリアに手が届いた。それを手前に引っ張ろうとすると、あの忌まわしき声。


『本当にいいの?』


間違いなくあの幼女の声。オルテンシアと名乗った魔女の声。蠱惑的に耳元で囁かれる。


『このまま戻れば貴方はボロ雑巾のまま死ぬ。神秘は暴けず、謎の死体として、神秘と共に埋められる』


それを許さないでしょう?と声は続ける。手前に引く力が何となく弱くなった気がした。


『所詮貴方も獣だわ』


草の匂い。嗅いだことの無い香辛料らしいものの香り……知らないことが、常識の通じないものが向こうには沢山ある。


『理を愛していると口では言っておきながら、好奇心には敵わない』


楽園に魅入られた青年は、少女を掴む手を落とした。あはは!と嘲笑う声が辺りに響いて。


『約束を破ったわね』


気づいた頃には手遅れ。気付いた時には全てが遅過ぎた。あの時無理に手を引っ張れば良かったのに。あるいは好奇心に素直になって、異世界を臨めばよかったのに。


「あ、いや、うそ……」


マリシアの声でヤンは我に返った。いつの間にか二人を魔法陣が取り囲んでいる。が、その魔法陣はひび割れて光を放っている。


光は強い力を持って未来を分断した。少女の絶叫と悲壮感に満ちた顔が、今でも脳裏にこべりついている。


「助けて!ヤン!こんなの嫌だ!」


気付いた時には手が届かなくなっていて……そして、強い光と共に気を失った。次に目を覚ましたのは老夫婦の家だった。季節は夏だった事を覚えている。


老夫婦の話によると、絽紗を干していたところ、空から降ってきたらしい。どこから来たのかと問われたから、共和国出身だと答えても首を傾げたまま。エウロペという地方から来たと言ってもそんな地方は知らないとの一点張り。


不安になってここはどこかと問うと、天慶国だと言われた。砂漠を超えた東の国なのかもしれない。そう思って地図を見せてもらったが、最早俺が知っている国々はこの世界のどこにも無かった。


俺は焦って知っている人名を言った。エリックスドッターと朧月夜の家名に老父は笑う。朧月夜は王都を治める神の名だと。その神に連なる臣がエリックスドッターだと。有名だから知らぬ者はいない。何せ二十数年前に突然出来た家なのに、神に目をかけて貰っているのだと。当代の朧月夜の当主はオルテンシアだろう、アイツのせいで……と言いかけて老夫婦は首を傾げた。そんな者はいまの朧月夜家にいないというのだ。


冷や汗が止まらなかった。二十年前?どういうことだ、俺は二十年も眠っていたのか?なぜオルテンシアを知らない?それに二人は俺が今しがた上から降ってきたと言っている。この気の良さそうな老夫婦が嘘をついているようには見えなかったし、身一つの俺を騙しても仕方ない。ただちらかった思考に震えが止まらなかった。


立ち上がる気力が無かった。何かとんでもない間違いをしてしまったのではないか。老婦は心配そうに顔を覗き込んで言った。「ゆっくりしていきなさい」「何も分からなくて不安だろうから、いろいろ教えてあげるよ」と……


老夫婦は非常に優しい人だった。何も疑うことなく穏やかに過ごした。彼らは若い頃に子を亡くし、それ以来、子がいなかったから俺を可愛がってくれた。対する俺も小さい頃に親を亡くした根無し草だったから実の親のように接していた。


畑を耕し、家畜を育て、文字の書き方、読み方、地理歴史……色んなことを教えてくれた。話す言葉に苦労していないのはどうやらオルテンシアからのせめてもの温情らしく、老夫婦は『祝福』だと笑っていた。


だがすぐに、俺は己の『呪い』を知った。


異世界に来たことで目と髪の色が変わったことにも慣れたある日、拳銃の練習をしていた俺は運悪く手の中で銃が暴発した。頭に貫通し、俺は死ぬ……はずだった。煙を立てて痛みが引いていく……そこで俺は自分の不老不死を知った。


ピンピンしている俺に老父は言う。絽紗に落ちてきた時も粉砕骨折をしていたらしく、客死として扱うつもりだったらしい。だが直ぐに傷は治癒し俺は目を覚ました。老夫婦は俺の事を魔法使いか何かだと思っていたから、詳しく言及しなかった。だが自覚が無いのなら話は別だ。今すぐ朧月夜かエリックスドッターに会った方が良いと夫婦は言う。


朧月夜はどうか知らないが、マリシアなら通してくれる気がした。老夫婦から屋敷の場所を聞いて、荷物をまとめて天慶国を出た。


彼らの教育のお陰で道中は困らなかった。盗賊が出やすい街道を避け、ぼったくりに遭いそうになったらのらりくらりと交わして、屋敷までもうあと少しというところだった。


エリックスドッター領は朧月夜邸から見て西の湖の傍にある。ペスカ王国内の領土でありながら自然豊かな土地。畜産と農業が主な産業の領地。秋頃にたどり着いたことを覚えている。


「ここじゃ見ない顔だね、兄ちゃん」


「天慶から来たんだ。パン一つ」


「そんなんで足りるのかい?」


「何分金がない身でねぇ。ありがとうよ」


老婆から固いパンを買って屋敷の方向を見た時だった。妙に惹かれる声が鼓膜を震わせる。


「おばあちゃん、白パンちょうだい!」


「あいよ。今日はお使いかい?」


「あー……えっと……物見遊山、かなぁ」


「サボりかい。懲りないねぇ」


天真爛漫で涼やかな声を持つ、可愛らしい声。太陽よりも真っ赤な髪。恥ずかしそうに細められた瞳は薄紫色。


「……ヘルミ?」


ただ、ヤンの知っている幼女のヘルミではなく、目の前で目を丸々にさせている妙齢の女性になっていた。口もぽかんと開けている。


「……ヤン、さん……?」


「おや。知り合いかい」


老婆の声も無視してヘルミは呆然としていた。


「なん、で……こんなところに……」


ヤンが答える前に手を掴んでヘルミは老婆に礼を言うと走り出した。抱えた紙袋が破れるのも気にしない。


人気がいなくなった路地の中で、ヘルミはヤンの手を離した。


「あの、ヤンさんですよね?人違いだったらすいません……」


「君は人違いだと思った人の手を掴んで走り出すのか?相変わらずお転婆だな」


微笑んだヤンを見て、ヘルミは目に涙を潤ませる。そして思いっ切り抱きついた。


「うぅっ……!会いたかったぁっ……!今までどこに行ってらっしゃったんですかっ!」


俺は今までの顛末を話した。と言っても、目が覚めたら二十年経っていて君達のことを聞き付けてやってきたぐらいなものだったが。


それを聞くとヘルミは俯きがちに顔を顰めて荷物を持ち直す。


「あの……これからお時間、ありますか」


「あぁ。何分不老不死になったからな。時間はたっぷりある」


彼女は弾かれたように顔を上げると、また伏せた。ついてきて下さい、と小さく言ってヤンに背を向ける。路地裏の中、ヤンは何となしにヘルミに問う。


「マリシアは?他の兄弟達は元気にしてるのか?」


「グンナルは母と喧嘩して家を出たきりそれっきりで……カロラは転移の衝撃でそのまま……魔法の才能があった私だけ残って、一番下の弟も十五歳のある日、森に入ったきり帰って来ませんでした」


ヘルミの背中が泣いている。ヤンは口を噤んだままだ。


「母の現状は見てもらった方が分かると思います。……あんまり良い状態じゃないんですけど」


振り返ったヘルミの表情は痛々しいものだった。路地裏を抜けると金の小さな門が見える。慣れた手つきでそこを開けると道が開けた。ヤンはそれが何を示すものか何となく分かった。屋敷に繋がる道だ。


「随分良い家を貰ったんだな」


「あはは……そう、ですかね」


こっちへどうぞ、とヘルミはヤンを案内する。手入れされた森の小道をぬけた先には、大きな赤煉瓦の屋敷があった。背後に湖も見えている。ヘルミは正面から入ることなく、脇にある裏口から中へ入った。


よく手入れされた調度品。シンプルなデザインのものばかりだ。足早に応接室を抜けて階段を駆け上り、ヘルミの部屋らしきところに駆け込んだ。


「……はぁ。良かった。見つかると面倒」


ですからね、とヘルミが言い切らないうちに階下から怒号が聞こえる。少ししわがれた声だ。


「……あ。今のは母です。すいません。順を追って……説明しますね」


その前にお茶をいれなきゃ、と言うヘルミを静止した。今にも泣きそうな顔をしている。


「話すのが嫌なら話さないでいい。今日は何か……別の話をしないか。俺はこの世界の地理に詳しくない。色々教えて欲しいんだ」


ヤンの言葉に、ヘルミは微笑んだ。目を閉じた衝撃で涙が零れる。


「ヤンさんはお優しいんですね。……でも、気にしなくて良いんです。これは話さなくちゃいけないことだから。……貴方の転移から今ここに至るまでの全てを、お話しますね……」



ヘルミが語ったところによると、オルテンシアの計画とは自分の臣を増やすためのものだったらしい。そもそも、『ラプラスの魔物』は肉体的にも精神的にも苦痛が最高潮に達した場合に目覚める。


成人する頃を目処に目覚めさせる予定だったが、その頃ちょうど先代の『ラプラスの魔物』がとある貴族の称号を謀反があるとして剥奪したらしい。


その貴族は『ラプラスの魔物』に反するもの達を集め、オルテンシアの誕生日会を襲撃。彼女を誘拐し、暴力を受けた彼女が生き残るために目覚めさせてしまった。


彼女が継承した『ラプラスの魔物』に不備は無かったが、膨大な魔力量を抱える精神性と肉体が足りていなかった。しかし魔物は彼女を選んだ。オルテンシアは当主になるしかない。


元老は彼女の力が不完全であることを見抜いていた。神に対する忠義は無くなり、仕えていた貴族達は少女から離れたらしい。故にオルテンシアは、異世界から苦境にある魔女や魔術師を集め爵位を与え、自身の従者にしたかった、たそうだ。


だが、マリシア以外皆死んだらしい。空間転移の衝撃に誰も耐えられることなく、死体でこの世界に到着した。俺に約束させたのは、契約を破らせ罰として不老不死にさせることで、俺にも爵位を与える為だった。


しかしここでも間違いがあった。本来ならオルテンシアがいる時間に飛ばなければならいのに、この時代に彼女はいない。ここは彼女が産まれる五百年程前の世界。つまるところ、空間転移魔法は成功したが、空間を繋ぐための補強魔法に問題があったらしく、ここまでの時間の齟齬が出来たらしい。


マリシアの主張は当代の『ラプラスの魔物』の未来視によって認められ、爵位は得られたそうだ。だが……。


「富と名誉を賜って……母は安心しきっていました。金さえあればどうにかなると思ってたんです。そのお金が労働もなしに湯水のように溢れ出てくるものだと思い込んでいました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る