異聞録 第二話 後悔噬臍のイミテーション

結婚式の練習をするのは何だか恥ずかしかった。誓いと式終わりのパレードは全部殿下がやる予定だったから、自分は歩き方だけ注意しておけばよかった。


幸せな式だったと思う。朝着替えて殿下に挨拶に行くと、本当に幸せそうに彼は笑っていた。姫のドレスは誓いまで見せて貰えないらしく、そわそわしていたのを今でも思い出す。


「今までありがとう」と彼は微笑んだ。「これからもよろしくね」とも。気の良い王子様だった。俺は「勿体なきお言葉。光栄に存じます」といつも通りに返した。


だけど俺も笑っていた。自分には直接関係の無いことだったのに、微笑みが零れるような雰囲気だった。控え室で殿下と他愛のない話をしているとパウラが入って来て、「そろそろお時間です」と厳かに告げたのを覚えている。いつもしない真剣な顔が面白かったと言えば良かった、と今の今まで後悔している。


彼女は幸せに死ねたのだろうか。


「綺麗な式ね」


二階の隠し部屋から一階の挙式を眺めていたパウラが、惚けた声で言った。真紅の絨毯。一面に撒かれる花びらは良い匂いを放って二人を祝福している。


今日は式だからと綺麗に髪を巻いたパウラは、お姫様の方をずっと見ていた。姫は白地に青の衣裳が施されたドレスを着て、この世の春とばかりに王子を眺めている。


「そうだな」


「向こうに行っても仲良くしてね。向こうじゃ言葉が通じるのはヤンだけなんだから」


姫が嫁いでくるという形になっていたが、実際はこの国の王が殿下を他国領の主となることを取り決めた政略結婚だった。だから殿下のお付のものも何人かは隣国へ行かなければならなかったのだ。


「俺はちゃんと勉強したぞ?」


「え?教えてよ!」


「嫌だね。俺とだけ話しておけばいいさ」


「意地悪ねぇ」


嘘だって、ちゃんと教える、と言い終わらないうちにそれは起こった。ばす、と小気味の良い音と、ぐちゃりと肉が避ける音。殿下は目をぐるんと回して、真横に倒れた。頭に矢が刺さっている。


「あ、あれは……」


「暗殺か!」


ヤンは矢が放たれた方向を見ると、向かいのバルコニーを走り抜ける者がいる。


「パウラあいつだ!アイツを止め──」


「止めるのはあんたよ」


パウラを意を決してヤンを奥へと押し込める。そして身支度を始めた。


「あんたは逃げなきゃなんない。直ぐにここから出ないと」


「なんで……」


「ヤンってば賢い割に常識には疎いのねぇ」


彼女の身支度だと思っていたものは、ヤンの物だった。荷物を幼馴染に押し付けて宥める様に言う。


「いい?あんたが身代わりしなきゃダメな人が死んだの。その責任を負えっていわれて処刑されるわ」


ヤンは引っ張られるまま出口に近づいた。頭がぼおっとして何も言葉が思いつかない。


「今は殿下の事件で下がごたついてる。すぐ出ないと……」


廊下から足音が聞こえる。その時やっと状況を理解したヤンは、急いでクローゼットの中に入った。


「パウラ、こっちだ」


息もつかぬ間に兵士達が駆け込んでくる。二人は静かに息を潜めていた。


「あいつ……どこ行きやがった」


「ここから逃げられはせん。隅々まで探せ」


兵士はカーテンの裏、鏡台の下までも調べ尽くす。残るはクローゼットの中だけだ。兵士を引き連れていた小隊長が目で合図を送る。それを元に他の兵士は剣を構えた。


勢いよく小隊長はクローゼットの中を開けたが、もぬけの殻だ。着替え用の服が二着、置いてあるだけ。


「いない……?な、なぜ!」


兵士はしどろもどろになる者、改めて部屋を調べ始める者が出るなど混乱を極めていた。一喝する様に小隊長は言う。


「……裏門と正門を閉めろ。そこから逃げる筈だ」


「畏まりました!」


勇ましい掛け声と良く響く足音だけ、部屋に残された。


「ヤン……よくこんな場所知ってたわね」


ヤンが先導するようにして二人は城の地下を歩いていた。あのクローゼットの裏側には隠し扉があり、そこから城の地下へと降りられるのだ。


「ここは貴賓席だからな。何かあれば裏口から逃げられるようになってる」


じっとりとした、淀みのある空気。お世辞にも良い匂いはしない。高さは申し分なくあるが、少しかがまなければ天井にぶつかる不自由さ。二人は暫く黙って地下通路を歩いた。


「……もう、二度と……帰ってこないのよね……」


その言葉にヤンは足を止めた。ちらとパウラを見やって、暗がりへと足を進める。


「……案外、騒ぎが落ち着いたら帰ってこれるかもな」


「うそつき」


涙ぐんだ声にヤンは止まらなかった。気味悪い虫が足元を這っている。


「このまま行けば、裏の荒地に出る。そのまま隣国に逃げるよ」


「帰ってこれるかも」なんていう希望的観測を嘘にしたくなかった。だからこんな訳の分からないことを言ったのだろう。そもそも荒地には獣も盗賊も出る。無事に城から逃げおおせたとして、隣国まで生き延びられるかは分からない。


あまりに苦し紛れだったからか、パウラは黙ったまんまだった。いつもは冗談も洒落も言えるこの口が、何も言えないことが苦しくて。……光が見える。出口だ。


剥き出しの土塊を蹴って、ヤンは石の階段に足を掛けた。五段目まで進んだところで、天井にかけられている鉄格子を押す。俯いて何も言わないパウラに手を差し伸べた。


穴からはい出れば、そこは荒地だった。本当に何も無い不毛の土地。昔はここにも農村があったが、病気が流行ってから誰も住んでいない。ヤンは意を決して彼女に振り返った。


「……パウラ。終わったら城に戻って群衆に紛れろ。何かあったらこれを見せればいい」


ヤンは綺麗にまとめられた髪を切った。サフィレットガラスの様な光沢を持った、変に目立つ黒髪。手触りの良いそれを握り締めて、パウラほ引き攣った笑みを見せた。


「……うん。ありがと。さ、もう早く行きなよ」


泣きそうな顔に何か気の利いたことを言えば良かったのに、何も言えなかった。ただ静かに俯いて荒野に足を進めただけだった。


姿が小さくなった幼馴染を感情が抜け落ちた表情でパウラは見ていた。そして重力に従って涙も膝も崩れ落ちる。しゃくりを上げたその声は、暫く荒地に響いていた。


その事を、ヤンは知らない。







それから後のことは朧気である。隣国へ何とか逃げた頃には、殿下暗殺のことは大きなニュースになっていた。目立つ黒髪を適当に染めて、どこかの屋敷の下働きをしていた頃だった。


俺のいた世界では外国語、歴史、その他諸々の勉学をしていた奴は少なかったから、教養があるということで雇ってもらっていた。しかし暗殺事件が大体的に広まった頃、素性の知れない者に対して疑いの眼差しが多く向けられることになった。


屋敷の主人に深く尋問される前にさっさと屋敷から出た。その頃隣国と俺が元いた共和国と戦争の兆しがあって、兵士を募集していた。


あの頃は何もかも麻痺していた。人を殺すこと、騙すこと、その他諸々の社会道徳に反すること全て、何も思わなかった。ただ生きたいという執念だけ。


軍隊に入れば食いっぱぐれが無かったから、早速入隊手続きをした。俺を含めた素性の知れない……いわゆるならず者達が多くいたが、国はそんな事どうでも良かったらしい。身元手続きもせず、簡単に手続きは終わった。


そこで俺はアダムに会った。二回目に死にそびれた時だった。


入隊した俺は鉄砲の扱いを叩き込まれた。剣やら槍やらを振り回して戦うよりもよっぽど向いていたと思う。直ぐに上達して毎度出る飯も豪華なものになった。


そんなある日、俺は変わらず塹壕に潜っていた。環境は悲惨なもので、足元はいつも湿っていて、さっき話していた奴が手榴弾で吹き飛ばされるのが常だった。


何よりも恐ろしかったのは手榴弾の音。元いた世界の手榴弾は性能が全く良くなかった。近くで投げないと炸裂しない。


つまり爆発しているということは近くに敵兵がいるということだ。塹壕もぽんぽん置かれるもので無かったから、そこまで敵兵が来ている時点で死が目前に迫っている。そんな恐怖に耐え難かった俺は、敵であろうが味方であろうが撃ち抜いた。


俺はアダムと出会って地獄にも聖人がいる、と思った。感じたのはある日。今にも雨が降ってこようとせんばかりの曇りの日だった。


「あんなぼんくらが行ってなんの役に立つって言うんだ……」


隣に座っている男が言う。釣られて俺もスコープを覗いて見ると、勇ましい甲冑を身にまとって敵陣地まで呑気に散歩している。


「土嚢くらいにはなるんじゃないか」


なんとなしに言った。ここ暫く植物の成長が止まっているからこれから暫くは冷える。保温性の欠けらも無い重い死体の下に埋もれて寝ることはしょっちゅうだった。


「言うねぇ。賭けてみるか」


「何に幾ら」


「お前が鳥一匹撃ち抜くのが早いか、アイツが土嚢になるのが早いか」


俺はゆっくりと銃を構えた。弾を込める。


「……良いな。じゃあ俺は自分に賭けるとする。二百だ」


「二百とは大きく出たな。俺は五十にする。お坊ちゃんが土嚢になるのに賭けよう」


「じゃあ俺はあのぼんぼんが土嚢になるのが先にする」


話を聞いて寄ってきた兵士を無視して銃を構えた。この辺りには湖があって、俺達の基地もそこにある。季節は冬。白鳥が悍ましい戦場など知らずに空を飛ぶのを見ていた。


暫く待っていると、良いタイミングで白鳥が飛んできて、引き金に手をかけた。しかしおっ、と男が声を上げる方が早く。


土嚢になったのか?と思って視線を動かすと、向かってきた敵兵をあっさりと倒した。息絶えた兵士にロザリオを持って祈っている姿を見て、気が狂っていると思った。


「なんだ、アイツ……」


「……」


俺は立ち上がった。あの聖人と狂人の紙一重の人間を生かしてはならないと思ったからかもしれない。


「賭けはどうする?」


足元から飛んでくる声に視線を向けることなく、俺は塹壕をはい出た。


「……賭けはナシだ」


「あーあ、行っちまった」


「アイツ負けず嫌いだもんな」


「そもそも誰が金を払うんだァ?」


ギャハハ!と下衆に笑う男の声を背景に、ぶつくさと祈りを垂れている男の肩を掴んだ。


「おい。お前。こんな所で何してる。死ぬぞ」


甲冑は味方のもの。昔覚えた貴族の紋章にこんなものがあったなと朧気に思い出す。男は俺に振り返ることなく、ただしっかりした声で言った。


「祈りを捧げてるんだ」


「……祈り?」


「そう。祈り」


自家発電もここまで来ると清々しい。人を殺してその人の冥福を祈るなど、正気の沙汰では無い。


「一丁前に聖職者気取りか。祈りじゃ飯も食えないぞ」


「……かもね」


振り返ったその目は薄緑だった。その男が立ち上がるものだから、肩を掴んでいた手を下ろした。


「君、名前は」


「ヤン・コヴァルスキ。お前は」


「アダム・ウィリアムズ。宜しく」


塹壕に戻ってどうだった、と兵士に聞かれた。なんて事ない、ただの貴族のお坊ちゃんだよと答えた。であれば下衆な話は恐ろしかろう、話してやろうと男共は言う。


男共の話を尻目に、あの貴族の坊ちゃんにどう近付こうか考えていた。上手く採り入れば登用も有りうる。パウラの近況も分かるだろう。会えるかもしれない。こんな生活ともおさらばだ。


……そんな思案を巡らせて居るうち、久しぶりに、俺は人殺しが心底嫌いだということを思い出した。



下衆な話が苦手だろうという予想は杞憂に終わった。夕飯兵士達に囲まれたアダムは、無言でそこそこエグそうな猥褻本を取りだした。食堂は一瞬静まり返り、歓声に溢れ返った。


ロザリオ持ってる奴がそれでいいのかとか色々言いたいことはあったが、本の内容には興味があったから覗くついでに話しかけたことを覚えてる。


「……お前、それで良いのかよ」


「良いって何が?」


「一応神に仕える身だろう」


「良いんだよ。教会のヤツらは見てる」


それに、とアダムは聖職者の慈愛のこもった笑みを浮かべて。


「これも救いだしね」


俺はむせた。そんな微笑みを称えて言うセリフでは無い。


「つかこんな所に何しに来たんだよ。貴族の坊ちゃんはお呼びじゃないだろう?」


「妾の子でね。家に居場所が無いんだ」


「紋章があるじゃないか」


「武勲を上げて死んでこいってさ」


そうか、とだけ返した。それ以来アダムは自家発電を止めて、俺が殺した兵士に祈りを捧げるようになった。接点が増えて話す機会が多くなって……故郷のこと、友人のこと、色々話した。生まれて初めて出来た友人だった。


……戦争は苛烈を極め、敗戦が濃厚になってきた頃。塹壕で下卑た話をしていた男が足一本だけになって帰ってきた。それを聞いて、背中にじんわりと冷たい汗をかいた。お世話にも栄養があるとはいえない足を軍犬が食っていたのを見た。


「ヤンは逃げたい?」


焚き火に当たりながらアダムが問うた。軍犬は骨まで貪り食ったから、あの男がいた証は最早アダムの祈りとロザリオしか証明していなかった。


「……逃げたい」


息を吐いて、呟く。冬も暮れ、春がやって来ようとしていた時だった。


「一つ作戦があるんだ」


その作戦に、俺は乗った。



作戦というのも簡単なもので、夜基地からそれぞれ脱走したい者が巡回兵の目をかいくぐって逃げるというだけだった。身の回りの物だけ持って、部屋で待機する。外から鳥笛が聞こえて外に出る。一緒に出るアダムが、声を潜めて俺に問うた。


「君はここから出たらどうしたい?」


「また隣国へ逃げるよ。もう戦争には行かない。今度は……そうだな。農家にでもなるか」


「いいね」


「アダムは?」


「本を読みたい。たくさん」


それは金が無いと無理だろうとか、巡回の兵士がいるから今話すべきじゃないなとか色々考えて、兵舎の影から基地の外を目指す。


松明が見える。巡回兵だ。巡回兵は戦場に出ない代わりに基地を守る。噂によると夜目が効くらしく、どんな脱走兵も見逃さないらしい。


影から影へ。ただ逃げていく。この塀を登ったら逃げ伸びられる、そのはずだった、のに。


「脱走者だ!」


走馬灯のようにパウラの時のことを思い出す。ただ今度は隠し扉は無い。ガムシャラに塀を登ったところで、背後から背を押された。アダムだ。


瞬間、銃声が響いて重たい肉の塊が覆い被さる。堀に落ちる形で何とか脱出できたが、銃弾はアダムの心臓を完全に貫いていた。


「そ、そんな……あ、だむ……」


「だめ……だ……や、ん……いくんだ……」


祈りも何も無い。救えない。神は何をしてるんだ。コイツは敵兵にも祈ってた、のに。


救いは無いのか。


「むりなん、だよ、はぁっ、こんなとこから逃げるなんて……。みんなわかってた……ヤン、は運がいいね……」


遠くから足音が聞こえる。こちらに兵士が向かっているのだ。アダムは視線をしっかりと向けて、俺に言った。


「早く行け……!俺達の思いを……!むだに、げほっ、するなっ……!」


俺とアダムのドッグタグを替えて、必死に堀から抜け出した。狼の声も梟の鳴き声も聞こえない。ただ必死に必死に走った。空が白んできても無視した。怖くて怖くてたまらなかった。


走りに走って、喉の乾きに気づいた頃。川の水を飲んで、そして……俺はそのまま倒れた。


忌まわしき凶星が近づいていることも知らずに。

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