第45話 千夜一夜のプラエタリタ

夕食を済ませたロジェは部屋の応接室の窓を開けて夜風に当たっていた。手を伸ばせばラップのような感触がある。おそらく電車の魔物が発している結界か何かなのだろう……。


「ねー。明日は食堂車行きましょ。コース料理が出るらしいわ」


「いいぜ、行こう」


サディコは昨日の疲れがまだ取れていないのか、玉を食べてさっさと寝てしまった。またロジェは手を伸ばす。電車でこうしちゃダメだって親から怒られたのを思い出して、手を引っ込めた。


BGM代わりにしていた頁を捲る音が止んで衣擦れの音がしたあと、上から声が振ってきた。


「どうしたんだ。浮かない顔だな」


少し優しい顔をしてロジェを見るが、少女はぼんやり外を見ているから気付かない。


「ロージー……アイリスに、どうすればいいかなって」


「あの子は何にも気にしてないだろう。そもそも悪いのはイーリス教とミカエルだ」


「そうだけど、そうだけどねぇ……」


ヨハンとしてはそう言うしかない。確かにロジェもそう思っている。いるのだけど。そう思いたいだけなのかもしれない。そう思っていなかった、アイリスの感情を思うだけで怖くなる。


「手紙でも書いてみたらどうだ」


てがみ。久しく書いていなかった。お父様からも来ただけで、読みっぱなしで返していなかった。何かしら返信するべきだったのかも。


「返答はあるだろうよ。あの子はお前のことをちゃんと友達だと思ってた」


「ふふ……そう?」


ヨハンの優しさに少し擽ったくなった。うん。書いてみることにしよう。アイリスにも、お父様にも。便箋はどんなものしよう。不安なはずなのに、一抹の楽しみがある。


「ありがとね」


ロジェはヨハンに微笑むと、食卓に視線を移した。いつも綺麗に食べ切るヨハンが珍しく残している。


「あんたもう食べないの?」


「乗り物酔いした。食べるか?」


「勿体無いし頂くわ」


サラダは綺麗に食べられていたが、スープもパンも少しづつ残っている。


「ヨハンは不老不死だからいいなぁ。疲れないんでしょ?」


「まぁ……そうだな」


いつもの声音ではないそれに、ロジェは顔を上げた。顔色は青白く、目は虚ろだ。


「ヨハン?大丈夫なの?」


「……いやちょっと、吐き気が」


重い咳がヨハンから出る。食べようとした手を止めて、ロジェは心配そうに近付いた。


「ねぇ……やっぱり調子が悪いんじゃない?」


「乗り物酔いだよ」


顔色に似つかわしくない、普段はしないような優しい笑みをして答えた。多分強りがりだ。


「するの?」


「するよ」


「ほんと?」


焔のように揺らめく瞳から逃げるように、ヨハンは自室へ足を進めた。


「……理由は、分かってるんだ。多分──」


言い切らないうちに、膝から崩れ落ちる。


「げほっ……がはっ……!」


水音に慌てて駆け寄ったロジェが見たものは、吐瀉物に混じって吐き出された大量の血だった。


「な、なんで血が!?どういうことなの……!」


『ん……なにごと……?』


朧気な足取りで寝ぼけまなこのサディコが部屋から出てくる。劈く声でロジェは叫んだ。


「サディコ!助けて!」


『とりあえず治癒魔法をかけないと』


ヨハンの状態に目を細めてサディコは答えた。


「そ、そうよね、そう……!」


使い魔の冷静な声に少女はヨハンを座らせた。彫刻みたいに美しい手には紫斑が大量に出ている。


ロジェには医師のような高度な魔法は使えない。目に見えて衰弱し切っているのを何とかする為に、体力を与えるしかない。


「『体力回復魔法ハイレン・ヘクセレイ!』」


正しく呪文を唱えた。その通りに魔法陣が発生した、のに。


紫斑は止まらず、熱も出て来ている。


「どういうことなの!あれ、サディコ……?」


振り返ると開けた扉しか無かった。その扉から茶器が出てくる。足元には使い魔がいた。


「し、失礼します……」


メイドは手の紫斑と瞳孔の開き具合を確認した。変わらず彼の呼吸は浅い。


「紫の斑点……元素にあてられたんですね……」


「エーテルの間違いだろ」


やっと意識がはっきりしたヨハンは、眼球だけ茶器に動かした。口からはとめどなく赤黒い血が流れている。


「あら。よくご存知で」


ヨハンの発言に茶器の心配は消えた。二人の会話にロジェはさっぱりだ。一人だけ置いてけぼりだ。


「ゴホッ……!すこし席を外す。すぐ戻ってくるから……」


ヨハンは立ち上がると、拳銃を持って部屋に入った。刹那、肉の裂ける音と銃弾が扉越しに響く。茶器が事情を知らないと思ったロジェは、メイドの前に躍り出た。


「あ、いや、今のは違うっていうか……彼不死者なんですよ」


「その人は知ってるよ。……はぁ。死ぬかと思った」


いつのまに扉から出て来たのはいつものヨハンだった。茶器はラムネ瓶を取り出す。液体は透明だが粘性がある。


「これをお飲み下さい」


「これは?」


「体内の元素を分解するものです。これで症状は出なくなるかと」


蓋を開けると一気に飲み干した。喉に絡みつく液体を胃に押しやると、顔を顰めて一言。


「……あっっっっっっま」


「苦くないんだ」


それに、とロジェは辺りに漂う匂いを嗅ぐ。


「匂いは消毒液っぽいわね」


「あぁ。何だか妙な飲み物だ」


ヨハンが元気になったのを見届けると、サディコは眠そうに大きな欠伸をしてロジェの部屋へと戻った。


「落ち着いて良かったです」


「本当にもう大丈夫なの?血も吐いてて酷い状態だったけど……」


先程ヨハンが蹲っていた場所を見れば、吐瀉物も血も消えていた。不老不死だから消えるのだろうか。


「大丈夫だよ。心配かけたな」


「薬はこちらに置いておきますね。三日に一本、お飲み下さい。それでは失礼致します」


「ありがとうございます……!」


ロジェは茶器に頭を下げると、彼女はラムネ瓶を十本くらい置いて部屋から出て行った。ラベルには『エーテル除去薬』と書いてある。


「……ねぇ、今日は横になった方が良いわ。私も寝る」


ぐいぐいヨハンを部屋に押しやって、ベッドの上に座らせる。


「大丈夫だから気にすんなって」


「遅くまで起きてると身体に毒よ」


ヨハンの部屋は煩雑としたあの家とは裏腹に、綺麗に整頓されている。机の上には何かしら勉強した形跡があった。


「心配するなって言ってるだろう?良いからこっちに来いよ」


ヨハンはベッドの隣を叩いた。しかしロジェはさっさと部屋から出ようとする。


「だめ。早く寝なさい」


「……この言葉で君は眠ることが出来なくなる」


声色は魔術だった。その目からは視線を動かせない。魅了の魔法って使われたらこんな感じなのかしらと、少女は他人事の様に思案する。


「俺の昔話と、エーテルの話をしよう」


ヨハンは薄笑いを浮かべて、ロジェが話に乗るのを待っている。


「だから……こっちにおいで」


部屋から出るのを止めたロジェは、ヨハンの隣に座った。悔し紛れに一言零す。


「……その誘い方は卑怯だわ」


「何とでも言え」


確かに少女は男の過去が気になっていた。しかしそれ以上に、なぜこのタイミングで話そうとしたかが気になっている。


「まずは話が短く終わるエーテルの話からしよう。学校の授業の復習だ。それじゃあロジェ。そもそも魔力ってなんだ?」


学校の先生のような口振りでヨハンは言った。


「その人が持っている魔法を行使できる量のことで、大気の元素を操る力のことよね」


「そうだな。じゃ魔法は?」


「広義的には魔力を元に振るわれる超次元的な力……と言われるけど、魔術師の言う『魔法』っていうのは、大気中の元素を最大限に発揮する方法のことを指すわ」


基礎的なことは当たり前すぎて説明できないことが多いが、こういうことが一番重要であることをロジェは知っていた。


「元素は力を帯びて、大気中を浮遊している。ではそれを支え、力を与えているものは何だ?」


「エーテル。……あ」


ヨハンがさっき言っていたワードであり、基礎中の基礎で、忘れてはならない言葉。さっきの思考が恥ずかしくなる。


「そうだ。茶器は砂海が魔力に満ちていると言っていた。彼女の『魔力』という言葉の使い方は今回の俺達の定義に完全に当てはまらないが、確かにこの砂漠は魔力……元素を下支えするエーテルに満ちている」


前提の共有が終わったところでヨハンは続ける。


「次の疑問だ。エーテルとは何か?」


「まだ何から出来ているのか分からない未知の物質だったはず……」


授業で習った。分かっているのは元素を下支えし、力を与え、星魔法の元になっているのだと。そして今なお、研究者たちが挙って解明に命を懸けているのだと……


「では答えを述べよう。エーテルは超古代文明の遺物だ」


「……は?」


この人は何を言ってるんだ。科学者達が命を懸けた問題をあっさり解決してしまった。


「超古代文明末期、世界中至る所で戦争が発生した。理由は不明だが、どうせ大した理由でもあるまい」


半分話を聞いて、半分情報を逃した。ベッドの上、ロジェの隣に座った男は呑気に話している。


「ヤケになった超古代文明人サマは、一発で世界が滅びる爆弾を打ちまくった。兵器によって散布された毒……俺はこれをエーテル予備体と呼んでいるが……それが世界に散らばり、人々は死に絶えた……」


呑気だったその目が、剣呑なものに変わる。


「はずだった」


目を伏せて男は続ける。


「中々人間というものはしぶとい。人々はその毒をエネルギーに変換した。それが『エーテル』の正体だ」


「ちょっと待って。それだったらエーテルはいつか無くなってしまうってこと?」


ロジェは慌ててヨハンに問うた。もしそうなればこの世から魔法は無くなる。それはロジェがかつて望んだ世界であり……身勝手ながら、今は望まない世界だ。


「それは無い。どういう経緯か不明だが、この世界の光は『エーテル予備体をエーテルにする』性質を持っている。何かしらあったんだろうが……こんなもん自然獲得する訳ないからな」


「でもそんな証拠、どこにも……」


「あるんだよ。この砂海に」


ヨハンは窓の方を指した。外には何も無い砂漠と夜空だけが映っている。


「ここからもう少し行ったところに、地下百m、横幅が一km続く大穴がある。そこにエーテルの発電所……『エーテル城塞第三基地』がある」


男の言葉に幾らかの精神的知見を元にした言葉をぶつけようとしたが止めた。神秘は突飛だ。己の狭い視界だけでは世界は測れない。……という事だし、そうしておこう。


「……おっけー。分かったわ。取り敢えずそれで行くわね。次の質問なんだけど……」


次は至極真っ当な質問だ。何故この男が分かっていて、他の者が分からないのか。


「聞く限りとんでもなく大っきい穴だけど、どうして今まで調査されてなかったのかしら」


「第一に広いことが上げられる。あとは遺跡内の文字の解読に時間がかかったり、場所が辺鄙であることが上げられるが……」


一番の問題の核心。それこそは。


「『ラプラスの魔物』を受け継ぐ朧月夜家が調査に乗り気でないことが大きい」


よく聞くヤツだわ、ロジェは顔を顰めた。そんなもので世界が暴かれないのは悲しいことだ。


「エーテルは元素の基礎だ。言わばこの世界の根幹でもある。根幹を暴かれるということは、創造神の血脈も部分的に暴かれることに繋がるからだろう、と言われている」


この世の理から外れた男は淡々と続ける。


「彼らは全てを見通す。見通した結果、そうなると見えているから調査に圧力をかけているのだろう」


厄介な話だ。ロジェは息を吐いた。


「ま、要するにだ。エーテルの秘密が暴かれるのは、朧月夜家が市井に下る時ってことだ。当分先の話だろうな」


彼らが一般人になる時なんてあるのだろうか。それはエーテルの秘密が暴かれた時なんじゃないのか。どちらが先になるのだろうか?


「多分、理解したと思うわ。たぶん……」


「信じるも信じないも君次第だ」


「目で見て判断すれば良いってことよね」


少女の言葉にヨハンは反応した。悪いことを思いついたロジェの表情は口角を描いている。


「乗り込むんでしょ、そこの基地」


「……話が早くて助かる」


どうせそう言うつもりだったクセに。少女はくすりと笑った。


「私達は一蓮托生じゃない」


ヨハンは目を見開いて、悲しそうに閉じる。今夜の主題はこれからだ。


「さて。それでは本題に入ろう。君がずっと知りたかった、俺の昔の話……」


思い出した様に付け加える。


「これだけは先に言っておくが、この話を聞いて全てを呪わないで欲しい。君の出自は……否、エリックスドッター家の出自は特異だ」


エリックスドッター家の、出自。自分が詳しく知らない曾祖母も祖母のことも、この男は知っている。


「この話をして、どうかこの先も君が歩みを止めないことを祈っている。俺が見てきたこと、知ったこと……その全てを君に伝える」


ロジェは手のひらにじんわりと血と汗がせり上ってきたのが分かった。ゆっくり、五百年の瞳が開かれた。


「……それでは話を始めよう」


千夜を超えて、最後の一夜が幕をあげる。

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