第5話 親切なアパテオナス
『うん!そうだよ!住んでるの!』
「お母さんと?」
『うん!お母さんと兄弟と住んでるの!』
他愛もない会話をしている内に二人と一匹は大きな穴の前に来た。水は縁までぴったり注がれ悠々と揺れている。何処か冷たい風が吹く。対岸の穴の縁にぴたんとサディコは座ると、
『ここだよ!ここ!奥に何か詰まってるみたい!覗いてみて!』
そう無邪気に叫んだ。ロジェは何の警戒心も無しに穴に身体を傾けると、
「分かっ──」
「下がれ!」
ロジェが何が起こったか理解する前に、ヨハンが首根っこを掴んで後ろに投げ飛ばした。
ロジェに分かったのは、穴の周りの水たまりに尻もちをついたのと、彼女よりも吹っ飛ばされたヨハンが、何か氷柱の様なもので四肢がバラバラになっている事だった。
「よは……ん……」
血が迫って来て、水がほんのり温くなる。鉄の臭いもする。
『……あーあ。外しちゃったかぁ』
「なに、言っ、きゃあっ……!」
最後まで言い切る前に、サディコはロジェに馬乗りになった。獲物を仕留めた獣は、嬉しそうに目を細めてロジェを見つめている。
『あのさぁ。お姉ちゃんって危機感とか無いわけ?自分が『水が』しか言ってないのに、『水があるから着いてこい』とか言われてホイホイ着いて行くのバカでしょ』
そしてぐうっと耳に口を寄せて。
『まー仕方ないか!ぼくは頭がいいからなぁ!なんて言ったってマルコシアスの
「い、いや、な、なに、いって……」
『どうしようかなぁ。お姉ちゃんのこと、ママにあげても良いけどなぁ。魔力がたっぷり詰まってるからぼくが喰べても良いけどなぁ』
ぺろぺろと顔を舐められる。可愛い犬の触れ合いだったらどれだけ良かったか。所々首筋を甘噛みされるのが恐怖でしかない。
『ね、お姉ちゃんはどっちがいい……?ぼくに喰べられたい?ママに喰べられたい?』
「や、やだ、こ、こんなと、こ、で、しにたく、ない……!た、たすけて……!」
『誰も助けてくれな』
サディコの言葉の前に銃声が響いた。弾かれたようにロジェの上から獣が退く。慌てて起き上がって振り返るとしゅうしゅうと音を立てながらも立ち上がるヨハンが居た。
「……クソッタレ。だから魔獣について行くのは止めとけって言ったんだ」
「よ、よー、はん、な、へっ、は……?」
「やっぱりめんどくせぇ事になってんじゃねぇか。クソ、もうちょっと後でネタばらししてやろうと思ったのに」
彼女の前に立つ煙は未だヨハンの身体を包んでいた。彼女を取り巻く全てが受け入れられずにただ口を震わせている。
「な、ん、で、いき、てるの……」
「……俺は。時が止まった人間なんだよ。だから汗をかいたりしないし、睡眠もいらないし、腹も減らないし、老けないし、死ねない。……死ねないんだよ」
思考が固まっていたロジェの頭の中の点は音を立てて繋がり出す。だからこの人はご飯を全く食べないし、水も飲まない。
だからこの人の作る料理は、作る度味が安定しない。
だからこそあの老婆は、ヨハンに対して『相変わらず』と言ったのだ。あれは挨拶では無い。漫然たる事実だ。
『へぇ。お兄さん人間っぽくなかったけど、やっぱり人間じゃないんだね』
「黙れクソ犬。俺は紛うことなき人間だ。この世界の人間じゃないがな」
『じゃあぼくはお兄さんじゃなくてお姉さんを狙えばいいんだね』
ぐるる、という喉を鳴らす声が響く。いつの間にかロジェの前に立っていたヨハンは、
「だとよロジェ。上手いことやれ」
思いっきりふらりと立ち上がったロジェに丸投げした。
「え、わ、わた、し……」
「いつまでも甘ったれてんじゃねぇよ。俺は不老不死なだけで魔法は使えない。自分の身は自分で守るんだな」
「かっ、勝手にこんなとこ連れてきて、それでそんな言い草なわけ……!?」
いきなりこんな夜中に連れ出されて言われるのがこれだ。身勝手極まりない。
「……そうだよ。それだ」
「は?」
「お前は沸点が低いからな。すぐ怒る」
『んー……仲間割れ待つのウザイし、殺してもいい?』
「いつまでもいい子ちゃんぶってんじゃねぇ。さっさとやれ。ぼさっとすんな」
ヨハンのそれは『発破』だったのだが、ロジェに完全にスイッチを入れてしまったらしい。つまりキレた。
「おいクソ犬。教えてやる。このロジェって名前の意味をよぉ」
愉しそうなヨハンに、サディコは臨戦態勢を解かずに呟いた。
『はぁ?なに?もう早くしてよね。』
「ロジェ。ロジェスティラ・ヴィルトゥ=エリックスドッター」
『……あー。エリックスドッターの魔法使えない子だったの。それは知らなかったなぁ。ヴィルトゥ《いいこちゃん》のロジェちゃん』
サディコはじいっとロジェを見詰める。しかし、どうやら様子がおかしい。目の奥が、紅い、紅い目の奥が、もっと真赤に染まっている。
「お前が言った通り、ヴィルトゥは『善』とか『徳』とか意味があるよな。だけど、コイツの本性は違う」
鈍い地鳴りの後に地面が揺れて、ドドド……と、水が強く動く音がする。サディコは足元の水を掻き集め……水が無い!
「運命を操作する者。コイツの本性は、何処までも苛烈だ」
へら、とヨハンは嗤って、
「苛烈なのに得意な魔法が『炎』じゃなくて『水』っていうのも、なんか良いよなぁ」
元々静かだった神殿が更に静謐に沈む。ヨハンはニヤニヤしながらその場を退くと、神器を掲げるロジェの姿があった。
「『ヴァンクール』」
『認証中……。認証、完了しました』
魔法陣はもう出ない。そんなもの、要らない。生の魔法で、剥き身の闘志で。
「『ヴァンクール《勝利者》』。私はそれ以外の何者にもなったりしない!」
サディコも負けじと魔法を使って水をかき集めるが、ロジェの勢いには叶わない。
『それなら……!』
獣はロジェの頭上を遠く飛んで、また広間の方に戻る。どうやら空中戦を御所望の様だ。それならこっちも空を飛ぶだけ。
濃霧が起こって晴れたかと思うと、猛烈な勢いで魔法弾が飛んで来る。それは幾つかの塊になって、弾幕になった。
冷たい蒼い弾幕に、紅い朱い髪が踊る。全てを溶かしつく勢いで、なのにそれは軽やかで。猛烈な、猛る心で。
「あーもう!まどろっこしい!」
ロジェは水の弾幕に思いっ切り水をかけた。半ば嘲笑する様な声音でサディコは叫んだ。
『いやいや、お姉さん。ちょっと水に水っていうのは無理があるんじゃないかな……?』
「思い出したの。マルコシアスは『炎を纏った氷柱』で攻撃するって」
水をかけた勢いで、弾幕が一瞬弱まる。
「それに氷柱なんて壊して仕舞えばいいわ。だって私は」
その僅かな一瞬を縫ってロジェは、
「それが出来るだけの力がある……!」
サディコに突撃した。
それは宙をかける全てを破壊する星。
『真昼の彗星』。
全てを弥終に導く、そして全てを明かし尽くす、全ての者達の道標。
ロジェはサディコを叩き落とすと、そこから更に容赦なく魔弾を打ち込んだ。勢いで遺跡が崩れると、ロジェはズタボロ雑巾状態のサディコに近付いた。
『……マ……。』
どうやら生きているらしい。……となると、このキレて手の付けられないロジェがやる事と言ったらひったすら恫喝する事で。
「あー!?変なことしたら
『ママ!助けてママ!うわぁぁぁん!』
「逃げやがったわね!待ちなさい!」
崩れた遺跡を縫って逃げたサディコに彼女は容赦ない追撃を仕掛ける。それを見かねたヨハンが上から声を掛けた。
「お前が待てロジェ。俺まだちょっと元気じゃない」
が、落ち着いてもイラついているロジェには届かない声で。
「知らないわよそんなの。死なないんだから元気になりなさい。」
「いやそんな無茶振り……。うわぁ、ほんとに行きやがった。信じられねぇ……」
『ままぁ!助けてままぁ!』
サディコは背後に迫る殺気を感じ取りながら、遺跡の奥深くにある住処へと死に物狂いで走った。
『なぁにサディコ。貴方また碌でもない事をしたのね。今度は何?遺跡をまた壊したの?人間を八つ裂きにしたの?』
母は震えているサディコを優しく舐める。
『遺跡は壊れそうだし八つ裂きにされそうなんだよぉ!助けてママ!』
「待ちなさい!あんたをサーカスに売り飛ばすか実験材料にしてやるわ!」
怯え方が尋常じゃないと思ったら、またとんでもないの連れて来たな。母は半ば諦めた目でロジェを見詰める。
『……サディコ』
『ま、まま?』
『ちょっと其処に座りなさい。』
「ハァーッ、ハァーッ、まて、観念なさい……。ちょ、ほんと疲れた……」
肩で息をしながらロジェは視線を上げると、とんでもなく巨躯な狼がいる。その狼は水色の毛並みをして、蒼い鬣からは水が溢れていた。地面にぐっとくい込んだ、満月色の爪。
どうやらこの遺跡の水源はこの獣らしい。水があるということは動物が住めると言うことで、黄金の大きな角に木々が生えている。
『息子が大変御迷惑をお掛けしました。というかなんで私も謝ってるんでしょう』
「当たり前じゃない。殺されかけたんだもの。」
母はサディコを隠しながらロジェへと謝った。
『人間を喰べたり使うのが私達悪魔の本分でありまして……』
「殺せなかったから仕方なく無い?」
『容赦が無さすぎる……大体人間って生き延びたら逃げたんだけど……』
ずんずんとロジェはサディコに近寄ると、ほっぺたを掴みながら言った。
「水が出なかったのもアンタのせい?この歯のせいだったりするの?ねぇ。聞いてんの?ボケっとした顔してんじゃないわよ」
『ひいっ、い、いや、ひはうよ。ひゃぶん、みひゅがでにゃひゃったのは』
「お前の魔法だ、ロジェ。ふー、疲れた……」
獣の言葉を遮って、ヨハンは息も絶え絶えにロジェへと叫んだ。
「あ。ヨハン。元気になったのね」
「お陰様で」
「私の魔法が原因ってどういう事?さっきの魔法のこと?」
「いや。魔法の属性調べしただろ。何も反応していないと思っていたが、どうやら地下水脈が動いていたらしいな」
「知ってたの?」
「……そうじゃないかと思っただけだ。違ったら悲しいだろ」
どうやら完全に身体の再生が終わったらしい。気を遣ったヨハンの身体から煙が出なくなった。
「遺跡に住んでたのね?」
母狼に言ったつもりだったが、答えたのはぼろぼろのサディコだった。ちょっとやり過ぎだったかもしれないとロジェは思う。
『ううん。あそこはぼくたちの狩場。あそこでご飯を探すんだよ』
「人も喰ったのか?」
『喰べれるものは何でも』
「どうりであの遺跡、今まで誰にも発見されなかったのか」
なるほどねぇ、とヨハンは改めて理解する。その様子を見ていた母狼は、ロジェへと懇願する。
『何とか許して下さいませんか』
「別にもう襲わないのなら何でも良いんだけど……」
『それは約束致しかねます。我らの本分ですもの』
「えぇ……そんな虫のいい話ある訳ないでしょ。」
「契約しろ、ロジェ」
『契約』。人間と人外が同じ価値をかけて同じ程度の約束をすることを指す。使い魔契約もそう言った類のものだ。
「そう、ね。マルコシアスは悪魔だから、正直契約したくないんだけど……。それ以外無いわね」
ロジェは母狼を見ていた視線をサディコにずらした。
「あんたはそれで良いの」
『……お姉ちゃんに着いて行ったら色んなとこ、行けそう?』
おずおずとロジェに聞いたサディコの声を聞いてヨハンは切り返した。
「良かったなぁサディコ。俺の超古代文明探索に参加出来るぞ」
「実質強制参加なのよね」
はぁ、少女のため息一つ。
「そうね。色んなとこ行けると思うわよ」
『じゃあ契約したいなぁ。しよ?』
「はいはい、分かった分かった」
学園から追い出されて、変な研究者の家に居候して、悪魔と契約する。数奇な運命もあったものだ。
ロジェは手を出した。思いっ切り手をがっぷり噛まれる。痛みは治癒魔法で直ぐに無くなるが痛みを感じないわけではない。
……というかさっきこんなのに首を甘噛みされたのか。こっわぁ。
『うふふ。これで契約出来たね、お姉ちゃん。ロジェって呼んでもいい……?』
「好きにしたら」
上目遣いの視線に対して、吐き捨てる様にロジェは言った。これで契約だ。サディコの魂とロジェの魂をかけた、大きな契約。
『わぁ。ぼくの印が出来たね。死なないでね、ロジェ。ロジェが死んだらぼくも死んじゃう』
「はいはい死なない死なない。……ねぇ、この印、背中とかに移動出来ない?」
左の手の甲に出て来たマルコシアスの紋章をロジェは困った様に見詰めた。
『出来るよ。悪魔崇拝者って思われるの嫌なの?』
すぅっと印は消えた。恐らく背中へと移動したのだろう。
「まぁ。ちょっとくらいは気にするわよ」
『禁術地味た神器つけて今更何カマトト言ってんだか。ねぇヨハン?』
神器『ヴァンクール』を見た視線をヨハンに動かす。その視線は嘲笑に満ちていた。
「うるせぇ。中央に目えつけられなかったら何研究しても良いんだよ。何の為にこんなクソ田舎に居ると思ってんだ」
『仮にも『ラプラスの魔物』と面識あるのによくそんな事言えたね』
「……知ってんのか」
『ラプラスの魔物』、というワードにすぅっとヨハンは目を細める。サディコの目は更ににぃっと歪んだ。
『もちろん。悪魔だもん。人外ネットワークを舐めちゃあいけないよ』
「ね、ねぇ……!今『ラプラスの魔物』って!あの創造神の力を受け継いだ朧月夜家の人と面識があるの!?あの、魔法使いの中の魔法使いと!?」
対照的にロジェの目はキラキラと光る。『ラプラスの魔物』と言えば、全ての魔法使いの憧れだ。魔法が使えなかったロジェも例外ではない。
「碌でも無い奴だ。会わない方が良い」
『どうかーん。さ、地上に出ようよ。じゃあねママ。また来るね』
『気を付けてねサディコ。宜しく御願いしますね、ロジェ』
どうやらこのまま『ラプラスの魔物』について食い下がっても得られる物は無さそうだ。ヨハンは魔法使いじゃないし、サディコは悪魔だからあんまり興味は無いのかしら。
「……分かったわ」
知りたい事は知る事が出来ないし悪魔と契約するしで疲れてしまった。くわぁ、とロジェは大きな欠伸をする。
『あ。そうだヨハン。ぼく君よりも歳上だから』
「なんで俺の年齢知ってるんだよ」
『水脈の上に家建てたのヨハンでしょ』
ヨハンは肩を竦めた。それならある程度の年齢は分かるかもしれない。
「……幾つだ。」
『五百三十七歳』
「チッ。早く死ねよな」
『はい雑魚〜。マルコシアスは一万年くらい生きまーす』
「長命ムーブかましやがって」
「私が乗れないノリ辞めてもらっていい?」
サディコに着いていくと、直ぐにあの広間に出た。つくづく獣の狩場だと言うことを思い知らされる。来た時よりも水量が増えていて、これなら水も元に戻りそうだ。
「家帰ったら風呂かな」
「……えっ」
「朝飯でも食べて一回寝るか」
前を歩いていたヨハンは微笑みながらロジェに振り返った。
「お前はどうする」
……ヨハンの感情は、言い表すのが難しい。人間らしい営みを、この人は歩もうとしている。
「……私もお風呂入って朝ごはん食べて寝ます」
ロジェは何だか恥ずかしくなって目を逸らしてしまった。居心地が悪いの方が正しい。
『ねぇロジェ。ぼくには何かあるの?一緒にお風呂入らない?ほらぼく狼だから難しいことわかんな』
「馬糞堆肥に突っ込むわよ」
「汚れるからやめてくれ。堆肥が」
『ひょっとしてぼく虐められる感じ……?』
遺跡を抜けて地上に上がると旭が見えた。何だかぼおっと見詰めてしまう。
『疲れてるねぇロジェ。早くお家に入ろ。』
誰のせいで、と言いかけたが止めた。でも確かにお家に入ろう、と思った。それくらいもうロジェは疲れていて、瞼がとろとろだった……。
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