第4話 悪魔のオーヴァーチュア

それだけ言うとヨハンは会話を切り上げた。目の前の男はまた本に視線を遣る。もうロジェに興味が無いらしい。


半ば追い出される形でロジェは部屋から出た。ふわりと吹いた風が、そっと彼女の頬を撫でて。


「……あ。神器の使い方聞くの忘れてた」


ロジェが出ていってから数刻後、ヨハンは椅子に伸びてぽつりと呟いた。


「……エリックスドッター、か」


目をゆるりと瞑って思い出すのは、いつかどこかの果て遠き記憶。満天の星空の下、自分が全て間違ってしまったあの日を。


『ごめんね、××。嘘ついちゃって。』


『あたしもう、あの世界には帰らない。』


ヨハンは目を開けた。胸元にあるドックタグを光に翳すと鈍く銀に光るそれには、『アダム・マズル』と書いてある。


「『ラプラスの魔物』。面白い事になりそうだぜ」





「……ふうん。そっかぁ。そうなったんだねぇ」


まるでヨハンの呼び掛けに呼応したように昼寝をしていた少女はカウチから身体を起こした。肩程の紫の髪をリボンで一つに左括り、右の髪を三つ編み、残りを下ろしている。


齢は九歳、十歳程。深い紫のワンピースは可愛らしく、襟に付けられた大きなリボンのたれは、腰元にある二つのリボンを新たに作っていた。


「お嬢様。もう起きなければなりませんよ。ここ最近一日中寝てらっしゃるじゃありませんか」


「うふふ。起きるよぉ。面白いことが起こりそうなんだもん」


「良いですか、お嬢様。貴女は栄えある──」


「あ〜もう。分かってるのにぃ。聞き飽きちゃった」


少女はカウチに座ると、目の前の執事へと微笑んだ。近くに黒い犬を連れて。


「うん。偉いね、アミティエ。ちゃんとあたしのこと分かってくれるんだぁ……」


甘い声を己の犬へとかける。アミティエと呼ばれた犬は若く逞しく、番犬に相応しい体躯をしている。


「あたしは『栄えある『ラプラスの魔物』を受け継ぎし朧月夜家の当主』でしょ。聞き飽きちゃったなぁ。……ま、そんな事しか言えないようにしちゃったんだけどね」


「何を仰っているか分かりませんが、その自覚があるのなら結構です。お嬢様。いえ──」


執事は一拍置いて、


「オルテンシア・トラオム=朧月夜お嬢様。当主たらしい振る舞いをお願いしますよ、シアお嬢様」


シアはカウチの近くに置いてあったジュースを飲むと、ぺろりと舌なめずりをした。その艶やかに光る淫猥な舌には、太陽の周りに鉄の鎖が蠢く紋章が一つ。


「……うふふ」





そんなこんなで居候する事になったロジェがまず初めに行った事は、生活術を学ぶことだった。


寮生活では洗濯物くらいしかしないのだ。風呂を洗ったり、料理を作る事もしない。


料理に関しては『自分の飯だけでも作れるようになれ』とヨハンは色々ロジェに教えた。……出来た料理は味がやたら薄かったり濃かったりしたが。


一通りそれを終わらせた所で、昼頃ヨハンはロジェを庭へ呼び出した。


「何するの?」


「折角魔法が使える様になったんだ。得意な属性を調べておくといい」


「あぁ、あの……」


ロジェも経験した事がある。きっと魔法が発現するわよ、心配しないで。そう言って送り出してくれた優しい母。


ロジェが属性を調べる為の魔法陣の上に立って何も起こらなかった時、母は引き攣った顔をした事をよく覚えている。


「よぉし」


でも今は違う。魔法を使う手段を得たのだ。ロジェは円に星を書くと、その上に立った。これで魔力を込めれば、自分の得意な属性が分かる。


ぶうん、と音がして、魔法陣からオレンジ色の光が溢れる。が、どれだけ経っても何も起こらない。


「あ、あれ?な、なんで……?」


「落ち着け。魔法陣が反応してるんだからちゃんとソイツは機能してる。もう一回やってみるんだ」


「そ、そうよね」


魔法陣に対して力を込めると、また光だけが起こる。炎が魔法陣を焦がしたり、新芽が生えることもない。


「こ、この魔法陣は魔力に反応して光るから、確かに、魔法は使えてるのよ。なのに、どうして」


「お前、炎とか出せるか?」


「え?えーっと、確か呪文は……」


ロジェは目を瞑ると、一番最初に覚えた小さな炎を出す呪文を思い出す。そして人差し指を突き出した。


「人々を導きし小さ……あ、出た」


拳くらいの火の玉が出てくる。


「出るじゃないか。詠唱無しでいけるんじゃないか?」


ヨハンはじっとロジェの指先に出た小さな炎を見詰める。


「えいっ!」


今度は先程の炎よりも少し大きな炎が出た。ロジェはほっと胸を撫で下ろした。どうやら問題無く魔法が使えているらしい。


「魔法が使えてるしいいんじゃないかな」


「……そ、そうよね。大丈夫、よね」


空を見上げると、赤と紫色の空、星が綺麗だ。すっかり夕方になってしまったらしい。


「今日はもうこれくらいにしよう。用があったら呼べ」


「ヨハンさーん!いるー?」


彼を呼ぶ声にヨハンは振り返った。どうやら玄関の方に誰か居るらしい。老婆の声が響く。


「マヤばあちゃんか」


ヨハンはやるべき事を終えると呼び声に従ってスタスタと歩いて行ってしまった。


「あんたは本当変わらず元気だねぇ。ちょっと聞きたい事があるんだけど──」


ヨハンとマヤと呼ばれた老婆の会話が聞こえる。興味の無い事には本当に見向きもしない。 ロジェの目下の興味は、名前と容姿以外何も知らないこの男の事だった。


薄暗くなった庭にふわふわと光が浮かんでいる。蛍だ。水が流れる音がしないが、近くに小川でもあるのだろうか。


屋敷の中に入るとロジェが出す音だけが響く。夕飯を作ってお風呂に入ってさっさと寝てしまおう。


「今日はスープにでもするかなぁ」


ご飯を作る前にお風呂を沸かしてしまおう。一人が使うにはだだっ広過ぎる浴室に入るとロジェは蛇口を捻った。ぴちょん、と雫が落ちる音がして、


「……あれ。水が出ない」


蛇口を叩いても水が出ない。これまた一人で使うにはだだっ広過ぎる台所に走って蛇口を捻っても。


「水が出ない!」


次の目的地はヨハンの居場所だ。書斎に居るかもしれない。ごんごんと扉を叩くと、


『もっと丁寧に叩け。ボロいんだからな』


許可が出た。さっきの老婦人の会話を終わらせて、書斎の中にいるらしい。


「よ、ヨハン!大変なの!」


慌てて中に入ったロジェを、ちらりとヨハンは本の頁の隙間から見遣った。


「どうした」


「水が出ないの。蛇口を捻っても何にもでなくて」


「地下水位が下がったんだろ。また直ぐに出る」


ヨハンの視線はまた紙に戻る。ロジェの表情にも安堵が戻る。


「地下水から汲んでたの?てっきり近くの川なんかから汲んでるのかと思ったわ。」


「あぁ。庭の近くのか。綺麗な音がするだろ。寝る時には丁度いい音量だ」


「え?水の音なんてしなかったけど」


紙に向けていた視線を疑念に変えて、ヨハンはロジェを見遣ると。


「川のある場所まで行くぞ」







「……枯れてんなぁ」


行き場を失った蛍が、二人の周りをふよふよと飛んでいる。


「大きな川だったの?」


「そこまで大きな川じゃない。じゃないんだが……。いきなり干上がる様な川じゃない。三日前に雨も降ってる」


ヨハンはしゃがむと川底に触れる。べちゃべちゃな土が手に触れた。


「いきなり水が無くなったみたいね」


「ふー。ロジェ、お前元気か」


そう言いながらヨハンは立ち上がると、ぼーっとしている彼女に声をかけた。


「えぇ、まぁ、そんな辛くは無いけれど」


「それじゃあ行くぞ。着いてこい」


「わ、分かったわ」


茂みを抜けてヨハンは玄関を通り抜け、反対側の林の中に入った。一層鬱蒼とした茂みの中に鉄の扉が着いている。


「地下水はいつも此処から組み上げてる。暗いから気をつけろよ」


鉄の扉を引き上げたその入口にカンテラが着いていた。ヨハンはカンテラを掴むと、全くロジェの事を気にせず進んでしまった。慌ててヨハンにくっつくと、軽く返される。


「火をつける練習に丁度いいんじゃないか」


そうね、とロジェは小さく呟くと自分の周りに小さな炎を何個も出す。階段を降りきって鉄柵を抜けると大きな広間に出た。


そこはロジェが学んだ教科書範囲外の世界。この世のどの書物にも記されぬ、信じられない場所だった。


苔むした遺跡群の半分程は水に浸かっており、天井からは所々月光がこぼれ落ちている。底の方からは淡い光が込み上げて、至る所から心安らぐ水の音が響いていた。


「此処が地下水の汲み上げ場所……もとい、超古代文明の遺跡だ」


「名前とかは無いの?」


言いにくいじゃない、とロジェは付け加えた。弾かれたようにヨハンは振り返る。


「無い。そうだな。名前も悪くない。付けてみるか?」


「私が?ええっと。それなら」


数刻の後、


「……オフィール。『幻想閼伽げんそうあか遺跡 オフィール』。」


『オフィール!それぼくたちの家の名前!?かっこいいね!』


ロジェはヨハンに適当に返答をした。いきなりキャラ変するじゃない。


「それはどうも」


「俺じゃない。ソイツだ」


聞き間違えるなよな、という文字が顔に出ている。ヨハンの指先はロジェの足元に伸びていた。


『こんにちは!おにーさんとおねーさんはどうしてぼくたちの家に来たのかな!?』


声の主は幼獣だ。人懐っこい少年の様な声が辺り一体に響いている。ぺたんとロジェの隣に座っていた。


獣の見た目は狼の様で、彼女の腰くらいの大きさだった。毛並みは深い水色、そこまで強くなさそうな魔獣だ。


「えーっと、あなたは……」


『ぼくは此処に住む魔獣だよ!こんにちは!』


「中々利口な魔獣だな」


『えへへ!ほんと!嬉しい!ぼくまだちっちゃいから!うれしーな!おにーさん!名前はなんていうの!』


幼獣はロジェの傍を離れてヨハンの顔を覗き込む。鬱陶しそうに男は答えた。


「……ヨハンだ」


『そうなんだ!ヨハンおにーさんって言うんだね!おねーさんは!?』


「ロジェスティラよ。ロジェって呼んで。長いから」


『ロジェおねーさんって言うんだ!長いからね!ロジェって呼ぶね!ぼくの名前はサディコ!よろしくね!』


ぴょんぴょんと二人の周りを走る。サディコは天真爛漫そのものだ。人懐っこい、可愛い大型犬。


『ヨハンおにーさんとロジェおねーさんはどうしてここに来たの!なんで!教えて!』


「水が──」


と言いかけたロジェにヨハンが割って入る。その顔は怪訝そのものだ。


「ロジェ。もうその辺にしておけ。相手は人語を介す魔獣だ。近寄らない方が良い」


『おにーさんとおねーさんは水を探しているんだね!ぼく!水が何処から出てるか知ってるよ!』


「……ですってよ」


さもありなんという表情をしながら、じーっとロジェはヨハンを見詰める。


「そんな目で見るな。いいか。どうなっても知らないからな」


『大丈夫だよ!ねぇ来て!着いてきて!』


ロジェは言われるがままにサディコに着いていく。所々足元が崩れそうになったが、何とか歩いていけそうだ。


『ここからは歩くのが楽だよ!』


二人と一匹が歩いているのは川のそばだ。教会の様な天井が落ちていて、向こう側に木々が見える。どうやら奥に穴がある様だ。きっとあそこに水没遺跡の水源があるのだろう。


「サディコは此処に住んでるの?」

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