2、人形はなぜ殺す ①

2、人形はなぜ殺す



 はちおう市東部に位置するながぬままちは一日の終わりに向けて静まり返りつつあった。その何の変哲もない夜の住宅街の端に『ハッピーハイム長沼』という五階建てのマンションが所在している。

 その一階に位置する115号室のベランダから、さくを乗り越えて一人の男が飛び降りた。

 ひげづら禿とくとう。身長は160センチ程度と小柄であったが、筋肉質で肩幅は広かった。

 男は駐車場の端にある植え込みの縁に着地するも、段差に足を取られてかたひざを突く。すぐに慌てた様子で立ち上がり、駆け出して来客用のスペースに止めてあった白いバンに乗り込んだ。

 震える指先で車のかぎを差し込みエンジンを掛ける。ギアを操作するとサイドブレーキを下げて、アクセルを踏み込み、急発進した。その直後、マンション住人のハイゼットカーゴと衝突しそうになるが事なきを得る。

 男の乗った車は慌ただしく、その場から立ち去った。


    ◇ ◇ ◇


 有名テーマパークの壁掛け時計の針は、二十二時三十五分を指していた。

『ハッピーハイム長沼』の115号室。

 その部屋は、ほんの少し前までは幸せに満ちあふれていた。

 広々としたリビングダイニングに並んだシンプルな家具には、穏やかな日常のぬくもりが染み付いていた。花丸印に彩られた壁掛けカレンダーには、そう遠くない未来に訪れるはずだったささやかな希望がうかがえた。よく片付いたキッチンとの間に横たわる仕切り棚には写真立てが置いてあり、その中ではなかむつまじい男女の思い出が切り取られていた。

 それらのすべてをなまぐさく塗り替えるのは、フローリングに横たわる無惨な死体だった。開け放たれたままだった掃き出し窓の方に頭を向けて、うつぶせになった寝間着姿の男が倒れている。身長は高く体格はかなり良い。

 その遺体を見下ろすのは警視庁鑑識課の二人であった。

「……これ、何だと思います?」

 大きなストロボ付きの一眼カメラを手にした鑑識官の若者がげんそうに、遺体と班長の顔を交互に見た。

 班長は遺体の傍らでしゃがみ込んで視線を落とす。ぼんのくぼに深い刺傷があった。どうやら、大きな血管を避けて神経に損傷を与えたためか、飛沫しぶきはあまり飛び散っていない。鮮血のどす黒い染みが被害者の首元から流れ落ちてまりを作っていた。

 その中に両手の親指を交互に押し付けたような模様が浮かびあがっている。

「まるで、小さな足跡みたいだな」

 班長は抱いた印象をそのまま口にした。その足跡のような模様を視線で辿たどると、血溜まりの縁からけつこんとなって二つの列を作り、掃き出し窓の方へ点々と続いているようだった。

 二人は互いに顔を見合せて、その血痕を辿る。すると、それは掃き出し窓を遮るモスグリーンのカーテンの前まで延びていた。

 班長が慎重な手つきでカーテンを開く。すると、そこで彼は目を丸くして、けんにしわを寄せながら声をあげた。

「……何だ、こりゃあ?」

 掃き出し窓の向こうのベランダの柵の前に人形が置いてあった。

 レースがあしらわれた青のドレスを着ており、くすんだ金髪の頭頂にはヘッドドレスを載せている。身長30センチ程度のビスクドール、もしくは、フランス人形。それが適切な呼び方なのか二人には解らなかったが、そんな人形であった。

 両足を投げ出し、ベランダの格子の柵に寄りかかるようにして座っている。二列の小さな足跡のような血痕は、その人形の下まで続いている。

 そして、その傍らには凶器と思われるまみれの包丁が転がっていた。


    ◇ ◇ ◇


『ハッピーハイム長沼』の玄関前は騒然としていた。

 黄色いバリケードテープの向こうで遠巻きに見守る野次馬たち。血のように赤い回転灯の明かりが暗闇の中で明滅している。

 そんな中、パトカーの後部座席で、魂の抜けたような女がうつむいていた。

 歳は二十代半ばから三十くらいに見え、黒いジャージの上下にトレンチコートを羽織っていた。彼女の名前はきくはる

 115号室で発生した殺人事件の被害者であるそうつばさと同居しており、近々結婚する予定であった。

「……では、二十一時三十分ぐらいに、近くのドラッグストアへ向かうために住居である115号室を出たという事だね?」

 と、菊池に語り掛けるのはネイビーのスーツを着た本庁捜査一課の刑事だった。彼の質問に菊池は少しだけ顔をあげると、沈痛な面持ちでうなずく。

「頭痛薬が切れていたので。頭痛がして眠れないって翼が」

「それで、どれくらいの時間で帰ってきたの?」

 刑事は再び質問を発した。助手席に女性警察官が同乗しており、二人の話にじっと耳を傾けながら調書を取っている。やや間を置いて、菊池が刑事の質問に答え始めた。

「十五分……いや、十分ぐらい? その……ちょっと覚えていないです」

「なるほど」と刑事は答えながら、真っ先に臨場した警官の報告を思い出す。このマンションの非常口やエントランスには防犯カメラが設置されているらしい。それらに残された映像を確認すれば、彼女が出掛けた正確な時間は解るだろう。刑事は話の続きを促した。

「それで、どうしたの?」

「その買い物途中、店内で同じマンションのいまがわさんと会って、彼女と一緒に歩いて戻って来ました」

 刑事は「なるほど」と、相づちを打つ。そして、助手席から響く筆記の音が鳴りやんだのを見計らい、再び言葉を発した。

「そして、部屋に帰って来ると、リビングで倒れていた相馬翼さんを発見したと?」

「はい……」

 菊池は消え入りそうな声で返事をした。それから、ぼんやりとした目つきで自らのひざの辺りを見つめだす。何かを言い出そうか迷っているように見えた刑事は菊池を促す。

「どうしたの? 何かあるなら言ってみて」

「刑事さん」

「何?」

「信じてもらえないかもしれないんですけど」

「はい?」

「翼を殺したのは、人形です」

「は?」

 刑事は目を丸くする。

 助手席で調書を取っていた女性警察官も、手を止めてルームミラーへと視線を向けた。鏡越しの菊池春風は長い髪の毛を幽霊のように前方に垂らしてうつむいていた。その左橫から刑事が彼女の顔をのぞき込むようにして問う。

「あの、もう一度、お願いできますか?」

「だから、人形が動いたんです」

「人形が? 動く? どういう事です?」

 刑事が怪訝な顔で聞き直すと、菊池は両手で顔を覆う。

「部屋に飾っていた人形が翼の背中に乗って、包丁で……刺していました。カメラを仕掛けて、あの人形を監視してください。きっと、私の言った事が真実だと解るはずです」

 彼女のすすり泣く声が車内に鳴り響き始める。

 刑事と女性警察官はルームミラー越しに視線を合わせた。


    ◇ ◇ ◇


 それは一二〇サイズ程度の立方体に近い段ボール箱だった。その側面には日付と管理番号の他に、次のような記載があった。


『八王子市〝ハッピーハイム長沼〟殺人事件』


 その箱をスチール製の棚から両手で抱えあげたのは、いかにもたたきあげのベテランといった雰囲気の刑事だった。白髪交じりのオールバックで、チャコールグレーのスーツを着ている。よしのり警部補であった。

 彼は箱を持ったまま、似たような段ボールばかりが納められた棚と棚の間を通り抜ける。

 その部屋は警視庁の証拠保管室の一つであった。ただし、ここにあるのは管内から集められた特定事案関連の品々ばかりである。

「……これだ」

 と、木田が壁際のスチールデスクに置かれた古い型のパソコンの隣に箱を置く。その箱を見下ろすのはスーツ姿の成瀬義人と、黒のパンツスーツをまとった女であった。

 その女は背中まで届く髪を後頭部でまとめ、お堅い印象の黒縁眼鏡を掛けている。顔立ちは整ってはいたが冷たい印象だった。

 名前をやまという。彼女もまた〝カナリア〟の一人で成瀬の一年先輩にあたる。

「開けますけど、よろしいですか?」

 山田が箱を指差しながら問うと、木田は「どうぞ」と答えて右手で促した。すると、彼女は能面のような顔のまま、ふたを開けて中身を取り出す。それは、ビニール袋に包まれたまみれの人形だった。少女の姿をかたどったもので、青いドレスを着た西洋の古い人形だった。ビニール袋の表面には奇妙な御札が貼ってある。

「この御札は……」と成瀬が問うと、木田は冗談のような事を真顔で言った。

「札ががれると動き出すかもしれない。気をつけて欲しい」

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