1、プロローグ ④

 あの木箱が実在のものだという事は、例の夜に起こった出来事も現実である可能性が高い。では、硫化水素自殺というのは何なのか。なぜ、そういう事になっているのか。

 成瀬の脳裏に次々と疑問が湧きあがる。

「まず、色々と質問があるんですけど」

「何だ?」

「この箱は、いったい何なんですか?」

「コトリバコ」

 聞き慣れない単語だった。成瀬が質問を重ねようとする前に、穂村は先んじて口を開いた。

「これは、非常に危険なものだ。下手をすると、かなりの被害が出かねない」

「被害?」

 穂村は頷く。

 この箱では危険な細菌が培養されていた。もしくは、あの動物の血に思えたものは揮発性の毒物だった。成瀬の脳裏に浮かんだのは、その二つの可能性だった。

「それでは、久住さんと俺は、この箱によって……」

 穂村は首を横に振る。

「いや。君たちを襲ったのは、別なじゆじゆつだ」

「ジュジュツ?」

 その言葉の意味が解らず、成瀬は首を傾げる。

「……何だか解りませんが、俺と久住さんは硫化水素自殺に巻き込まれたんじゃないんですか?」

「それは、真実ではない」

「真実ではないって……」

 成瀬が言葉を詰まらせると、穂村は改まった様子で口を開いた。

「……これから先の話は口外無用で頼みたい。もっとも、誰かに話したところで、君がどうかしたと思われるだけだろうがな」

 成瀬はなまつばを飲み込みのどを鳴らした。この話を聞いてしまったら後戻りは出来ない。そんな確信があった。しかし、もう今さら、ここで引く事はできないだろう。

「解りました」

 成瀬は深々とうなずいて、話に耳を傾ける心の準備を整える。

 すると、穂村は普通ならば到底信じがたい事を口にし始めた。


 呪いやたたり。そして、怪異。

 そうした常識では考えられない存在によって引き起こされた不可解な事故や事件を特定事案と呼称する。

 穂村たちは、その特定事案の対処と情報統制、または原因となりうる人物や団体、場所や物の監視を請け負っているのだという。

 彼らは〝目に見えない危険を知らせるもの〟という意味の英語表現〝Canary in the coal mine〟から〝カナリア〟と呼ばれているらしい。

「当初は久住警部補の死因も、君が意識を失った原因も不明のままだった。それ以外にもつじつまの合わない報告がいくつかあがった」

「辻褄が合わないと言いますと?」

「台所の大型冷蔵庫の中から、あの家で独り暮らしをしていた各務善十朗の遺体が発見された。死後一年以上は経過しており、直接的な死因は不明。身体にはひどい暴行をしつように受けたあとがあり、ミイラ化していた。にもかかわらず、君たちの後に臨場した者たちから、その各務善十朗の姿を見たという報告が多数上がった」

「なるほど。確かに辻褄が合いませんね」

「各務善十朗は強力な呪術により、あの家へ無断で侵入した者を呪い殺すおんりようとされたらしい。本来なら特殊な手順で解呪されるまで、あの家にとどまり続けて訪れた者たちに霊障をもたらし続けるはずだった。しかし、どうやら君を呪う事でほとんどの力を使い果しており、とつぜん現れて驚かせる程度の事しかできなくなっていたようだ。後から各務宅に足を踏み入れた警察関係者で深刻な被害を受けた者は今のところいない」

「それは……」

 不幸中の幸いであると、思うべきだろう。成瀬としては複雑であったが、自分があの家に行かなければ、もっと多くの被害が出ていたかもしれないという事だからだ。

「……ちなみに君たちの後続による報告では、例の箱は発見されていない。おそらく箱の製作者が君たちを呪殺した後で持ち去ったものと思われる」

「つまり、久住さんを死に至らしめた何者かは、まだあの家にいたという事でしょうか?」

「そういう事になるな」

「通報者に関しては?」

「特定は出来ているが、行方不明となっている。現在、捜索中だが……」

 穂村が言葉を止めてせきばらいをしたので、成瀬は首を傾げた。

「何です?」

 穂村はわずかに苦笑する。

「君は、ずいぶんと冷静だな」

「そう見えますか?」

「普通ならば、疑うものだ。こちらの言葉を。呪いなど馬鹿馬鹿しいと」

「とんでもない話を聞かされるという覚悟はしていましたから。ただ、少し想定の斜め上を行くとんでもなさではありましたが」

 それでも、硫化水素自殺に巻き込まれたなどと言われるよりは、何故かしっくりときた。それが成瀬の偽らざる感想だった。

「……ただ、一つだけ疑問があります」

「何だ?」

「なぜ特定事案の話を俺に? 当日の話を聞きたいだけなら、わざわざ話す必要などないのでは? 何なら、警視がわざわざ出張って来る必要もない。口外無用なのですよね?」

 成瀬の問いに穂村は即答する。

「その疑問の答えは簡単だ。隠しておく理由がないからだ」

「というと?」

「君は今日付けで特定事案対策室へ異動となる」

「はい?」

 予想外過ぎて、成瀬はけんにしわを寄せた。対する穂村はへいたんな声音で話を続ける。

「これは、正式な辞令だ。君も〝カナリア〟になってもらう」

「俺、交番の警官なんですけど」

 警官になって二年目の新人巡査が警察庁の何だかよく解らない部署に異動など、呪いの実在よりも信じられない。何かの悪い冗談なのではないか。ようやくここに来て、そう思えてきた成瀬であったが、穂村の表情は真面目そのものだった。

「……特定事案対策室の担当官は、階級や警察官としての経験よりも〝資質〟で選ばれる」

「資質?」

 穂村は頷き言葉を続ける。

「……ごくまれにではあるが、呪いや祟りなどの力を受けにくい〝資質〟を持つ者がいる。その要因は様々であるが」

「それが、俺ですか?」

 穂村は頷く。

 そして、成瀬はようやく合点がいった。なぜ、久住が死んで自分だけが生き残ったのか。その理由に。

「〝資質〟を持つ者は希少だ。だから、超常の存在を相手にしている我々からすれば、君のような〝資質〟を保有する人材は喉から手が出るほど欲しいのだ」

「なるほど。まだ、少し信じられませんが……」

 にわかには受け入れ難い現実ではあった。しかし、これで、久住を死に至らしめた犯人を追い掛ける事ができる。それ自体は望むところであった。むしろぎようこうなのかもしれない。

 そう思う事で、成瀬は置かれた現状を前向きにとらえる事にした。


    ◇ ◇ ◇


 こうして成瀬義人は警備局公安課特定事案対策室所属の特定事案対策担当官、通称〝カナリア〟となったのだが、それは彼の常識や価値観だけではなく、日常生活にも大きな変容をもたらす事となった。

 まず、これまでの彼は埼玉県に採用された地方公務員という立場であったので、警察庁の特定事案対策室へ異動するにあたり、形式上ではあるが退職する事になった。更に特定事案対策室は表向きには存在していない事になっているため、退職理由は各務宅の一件での心身耗弱とされた。

 成瀬としては、周囲にどう思われようが構わなかったが、住んでいた独身寮から出て行かなければならなくなったのには頭が痛くなった。いちいち引っ越さなければならないのは、かなりおつくうだったからだ。

 ただ、警官を辞めたと思い込んでいる母親が盛大に喜んでくれた事だけは、たった一つの喜ばしい点ではあった。もちろん、本当の事を言えない罪悪感にもさいなまれる訳であるが。

 さておき、県警本部で穂村から異動を告げられてひとつき後、体力が戻りきったのを機に研修が始まった。

 その内容は、霊的なものへの基本知識、必要な法律、捜査における基本技術などなど……。

 そうした座学だけではなく、訓練と称してしんしゆうの山奥にある謎の廃寺に赴き、一夜を明かした事もあった。特に何もなく、拍子抜けする事となったのだが……。

 同時にコトリバコに関する捜査も続けられており、その経過を成瀬は耳にする事ができた。

 どうやら、例の事件発覚前に各務宅へ頻繁に出入りをしていた男がおり、この人物を重要参考人として追跡していたようだ。

 その男の事を、周辺住民は各務善十朗の息子か孫だと思っていたそうで、特に不審には感じてはいなかった。

 しかし、各務には四十九歳のときに離婚した妻との間に娘が一人いるだけで息子はいない。そして、彼は勤めていた保険会社を定年退職して以来、人付き合いをほとんどしていなかった。

 また各務宅に出入りしていた男について、周辺住民は一様に〝特徴のない顔〟や〝普通の人〟もしくは〝大学生のような男〟などと述べており、証言が定まっていない。似顔絵の製作も上手うまくいっていないのだという。

 そして、その男のものと思われる指紋はおろか、髪の毛一本発見されておらず、捜索は難航していた。

 次第に捜査に進展があったという話は聞かれなくなり、一年があっという間に過ぎ去る。

 そこで成瀬は実地研修という名目で、初めて特定事案に関わる事となった。

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