1、プロローグ ③

 精密検査を受けるも結果は異常なし。

 しかし、四ヶ月も寝たきりだった身体はうまく動いてくれず、しばらくリハビリのために入院を続ける事となった。

 感染対策のために面会や外出は固く禁じられていたが、病院から連絡を受けた母親が、言われずとも、着替えや日用品、スマートフォンなどを差し入れてくれたので特に不自由はなかった。

 そのお礼と心配を掛けたおびをしたくて電話をすると、盛大に泣かれてしまった。

 無理もない。そして、成瀬は思い出す。

 そう言えば、警官になると言ったときも母親は反対していた。そのときは強引に押し切ったのだが、今にしてみれば彼女の気持ちはよく解る。というより、自分はなぜ、そんな程度の事も想像できなかったのかと驚く。

 成瀬は、職務に殉じて命を失った父親にあこがれながら、どこかで自分は彼のようにはならないと楽観的に考えていた。自分が生まれる前に起こった事で、人づてに聞いた父親の死は、歴史上の出来事のように自分とは距離があると感じていた。

 成瀬は自らの考え方の甘さを指摘されたような気分になったのと同時に、警官は危険な職業である事を再確認させられた。

 一方で疑問に感じるのは、なぜ自分だけが助かったのかという事だった。同じ場所にいた久住は死んで、自分だけが生き残った。その結果をもたらした要因はなんだったのか。単に運が良かっただけなのか。

 そもそも、本当に硫化水素自殺に巻き込まれたのだろうか。あのとき見た奇妙な四つの箱や、久住の背中から噴き出た白いものは、いったい何なのか。

 それらの疑問の答えを得る事ができないまま、年が明けて二月の初週となり、ようやく成瀬は退院する事となった。

 とはいっても、まだ体力は戻り切っておらず、職場復帰はもう少し先の話となるはずだった。

 ともあれ、成瀬は退院した日の昼過ぎ、ずっと足を運ぼうと思っていた場所へと向かった。


    ◇ ◇ ◇


 呼び鈴を押すと扉の向こうから、パタパタと可愛らしい足音が聞こえてきた。がちゃり、と音がして、扉がわずかに開く。その狭い隙間から、かまちに敷かれたカーペットとスリッパ立て、左手の壁に掛けられた丸い鏡、木製の箱がうかがえた。

 そのまま少しだけ視線をさげると、まだ幼い少女が両手で扉を押さえながら、こちらを見あげている。少女はしばらくそのままでいたが、やがて黒目がちのひとみを潤ませて残念そうにうつむいた。

 インターフォンが鳴ったとき、玄関の外にいるのがいまだ帰らぬ父親だとでも思ったのだろうか。

 成瀬は胸が締め付けられるような思いに襲われた。すると、奥から白のチュニックとジーンズをまとった女性が姿を現す。

 柔和な表情を浮かべる小柄な彼女は、一見するとせいな雰囲気を漂わせており、やはり久住が言っていたような気性の荒い人にはどうしても思えなかった。

 名前を久住ゆきと言った。久住清司の妻だった女性で、扉を開けた少女──の母親であった。

 深雪はサンダルを突っ掛けて扉口まで来ると、娘の代わりに片手で扉を押さえた。そして、成瀬の顔を見ると懐かしげに微笑む。

「いらっしゃい。お久し振り」

「遅くなりました。申し訳ありません」

 成瀬が深々と頭を下げると、深雪は何とも言い難い表情を浮かべる。

「どうぞ」

「失礼します」

 成瀬は扉口をくぐり抜ける。そうして足を踏み入れた久住清司のかつての自宅は、まるであるじを失ってしょぼくれているかのように暗く静かだった。

 成瀬は深雪に連れられ仏間へと移動する。そこで、見慣れた笑みを浮かべる遺影の中の久住清司を見た途端、成瀬は理解する。

〝仏壇の中の人〟であった自分の父親と彼はよく似ていた。顔形はそっくりという訳ではないが、雰囲気が同じだった。

 たぶん父親が生きてまだ警察官をやっていたら、久住清司のような人間だったのだろう。彼を通して、亡き父親の姿を見ていたのだと成瀬は自覚した。

「久住さん……」

 込み上げる様々な感情を抑え込んで線香をあげ、手を合わせる。そうする事によって、ようやく久住の死という事実を受け入れる事ができたような気がした。



「……よく解ってないみたい」

 居間の座卓を挟んで成瀬の向かいに腰を下ろした深雪は、少し離れた畳の上でお絵かきに興じる娘を見ながら寂しそうに笑った。

 何が〝よく解っていない〟のかは聞くまでもない。父親の死だろう。成瀬も芽生の方を見ながら言った。

「俺の父親も、警官でした」

「そう……なんだ」

「俺が生まれる少し前に、その……殉職して……」

 奇妙な縁を感じたのか、深雪は目を見開いた。すると、芽生がスケッチブックにクレヨンで何かをき殴りながら声をあげた。

「おにいさんのパパもケイサツなの?」

「そうだよ」

 成瀬がそう答えると、芽生はそのまま言葉を続けた。

「めいちゃんはね、まだ、パパにナイショだけど、オトナになったらケイサツになるの」

 成瀬は言葉を詰まらせる。

 脳裏によぎるのは、あの家へと向かう直前に久住と交わした会話だった。深雪も初耳だったらしく、驚いた様子で娘の言葉に耳を傾ける。

「……だって、めいちゃんがケイサツになれば、ずっと、パパといっしょにいれるでしょ?」

 そう言って、スケッチブックを成瀬たちの方に見せた。

 そこに描かれていたのは、色合いなどから制服を着た男女の警察官であると思われた。

「ああ、うん……そうだね」

 成瀬はあいまいな言葉を返す事しかできなかった。

「パパには、まだナイショだからね?」

「ああ、うん」

「ぜったいだからね? ママも」

 深雪が涙をこらえながらうなずく。

 久住は娘が警察官になりたいと言い出したら止めるつもりだったようだが、今の成瀬にそんな事はできそうになかった。そして、自分とは違い、この子はきっと父親の死を知ったら悲しむだろうな、とも思った。

 理不尽な現実に憤りを覚えるも、成瀬はそれをぶつける先を見つける事ができないまま、久住宅を後にした。


    ◇ ◇ ◇


 久住の家に行った翌日、成瀬は県警本部へと呼び出されていた。各務宅の一件についての聴取が行われるらしい。もう既に半年以上も前の事となるので、成瀬にとっては今さらという思いが強かった。

 更に成瀬が覚えている事といったら、夢かもしれない奇妙な光景だけである。しかも、ところどころ、霧に覆われたように記憶が曖昧な部分もあった。

 いっそ、何も覚えていないで通すか、正直に覚えている事を話すべきか、悩めば悩むほどおつくうになっていった。しかし、当然ながら無視してすっぽかす訳にはいかない。

 うんざりしつつも、ダークネイビーのスーツとボルドーのネクタイを身に着けて、さいたま市うら区にある県警本部へと向かった。

 エレベーターに乗り、指定の部屋がある階へ向かう。緊張感はまったくなく、鼻白んだ気分で入室する。中では既に聴取の担当者が席に着いていた。

 神経質そうな銀縁眼鏡を掛けたグレーのスリーピース姿の男で、名前をむらいつと言った。肩書きは警察庁警備局公安課特定事案対策室室長。階級は警視。

 なぜキャリアの、しかも警察庁の人間が乗り出してくるのか。

 大きなくくりでは同じ組織の人間であるといえない事もないが、B区分で所轄の警官として採用された成瀬とは、別世界の人間と言っていいくらい接点がない。おまけに特定事案対策室など聞いた事もなかった。

 いぶかしげに思いながらも自己紹介を済ませて、穂村と簡素なテーブルを挟んで向かい合って座る。すると、彼は机上にあったレコーダーのスイッチを入れた。

「……では、さっそくだが、当日のいきさつを覚えているところから順に話してもらいたい」

「……えっと、夜間パトロール中に本部から無線がありまして。その通報者が、ある住所で遺体を発見したと」

「何時頃?」

「そうですね……たぶん、交番へと帰るところだったので、一時半を少し過ぎた辺りだったと思います。それで、班長……久住警部補と共に、そのまま無線にあった住所へと向かいました。呼び鈴を押したり、玄関で呼び掛けたりしましたが応答はなく、玄関の戸に手をかけたところかぎが開いていたので、開けると……その、死臭がしました」

「それで、家の中へ足を踏み入れた訳だな?」

「はい。えっと……にはサンダルとスニーカーと……えっと、あと何だっけな……」

 成瀬が記憶をはんすうしていると、穂村が言葉を発した。

「細かいところは思い出せたらでいい。そのあと、どうした?」

「えっと、そのあとは、久住警部補と一緒に手前の部屋から回っていって、その……」

 成瀬は言葉に詰まる。

 これから先の事をどう説明すればよいのか、結局決めていなかった。そのまま話すか。何も覚えていないで通すか……。

 口の中で言葉をさ迷わせていると、穂村がげんそうに問うてきた。

「……どうした?」

「えっと、その、ちょっと、自分でも記憶に自信がなくて」

「起こった事をそのまま話して欲しい」

「……でも、その、これから先の事は夢でも見ていたんだと思います。何かちょっと、変で……すみません」

 成瀬は申し訳なくなり、謝罪の言葉を口にした。すると、穂村は表情を変えぬまま言葉を発した。

「その夢の話でかまわない」

「はい?」

「覚えている事をそのまま話して欲しい」

「いや、しかし……」

「かまわない」

 そうまで言われるなら、仕方がない。成瀬は半分やぶれかぶれで語り始める。あの夜の事を覚えている限り。

 台所の奇妙な様子。そして、作業台の上に並んだ四つの奇妙な箱。更に久住の背中から噴き出た白い何か……。

「……そこから先は覚えていません」

 成瀬がその言葉で話を締めくくると、穂村は懐からスマートフォンを取り出して操作し始める。

「君の見た箱というのは、これか?」

 そう言って、スマートフォンの画面を成瀬に向かってかざした。

 そこにはブルーシートの上に載せられた木箱の画像が表示されていた。れそぼったようなあめいろ。各務宅の台所にあったものとは違ってふたがしてあるようだったが、明らかに同種の物に思えた。

「これです。この箱です」

 成瀬の言葉に穂村は得心した様子で頷く。

「この画像の箱は、数年前に徳島県のさる廃屋の屋根裏から発見されたものだ。君が各務宅の台所で目にしたのは、これと同種の箱で、製作途中だったのだろう」

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