1、プロローグ ②

 その家の前に成瀬たちが辿たどり着いたのは、無線があってから五分弱の事だった。

 風化した透かしブロック塀の向こうに荒れ果てた庭先が広がっており、その更に奥には一階建ての母屋が夜闇に沈み込んでいた。

 久住と成瀬はパトカーから降りると、懐中電灯の明かりを点灯させ、塀の向こうの家を照らした。見える範囲の窓から明かりは漏れておらず、すべてカーテンで覆われていた。表から見た限りでは通報にあった遺体は見当たらない。

「……めんどうくせぇな」

 そうぼやいた久住は、無線で臨場した旨を報告すると門の内側へと足を踏み入れた。成瀬も後に続き、二人は玄関前に立つ。

 薄汚れたりガラスの引戸の右横に、呼び鈴と『各務かがみ』と記された木の表札がある。そして、左側の壁には塗装がげてボロボロになった郵便箱があった。そこには、真新しい二枚の封筒が刺さっている。どちらも何かの支払いに関する窓付きの封筒で〝各務ぜんじゆうろう〟というあてが見えた。

 その郵便受けの隣の呼び鈴を久住が押すも、どうやら電源が入っていないようだった。成瀬は戸をたたき、屋内に向かって声をあげる。

「各務さん、夜分遅く申し訳ありません。警察です。お宅の住所に関する通報がありまして、ちょっと、お話をお伺いしたいのですが」

 返事はない。

 久住が引戸に手を掛けた。すると、かぎは掛かっておらずに、あっさりと開く。その瞬間、戸口の向こうからかすかに漂ってきた臭いに成瀬は顔をしかめた。それは以前に孤独死した老人の住居でいだ事のある臭いだった。

「珍しく、嫌な予感が当たってしまったかもしれねーな」

 久住が舌打ちをして玄関の敷居をまたいだ。成瀬も後に続く。にはつぶれたサンダルとボロボロのスニーカー、黒のゴム長靴、ベルトのついた革のショートブーツが揃えてある。どれも男物のようで同じくらいのサイズだった。そして、懐中電灯を照らした瞬間、ショートブーツのインソールのかかとにあった〝27〟というサイズの刻印が何となく目に入る。そこから懐中電灯の光を上げて家の奥を照らした。

 玄関から家の裏手に向かって廊下が延びており、左側に二枚のふすま、右側の手前に扉があり、その奥に磨りガラスの戸が見えた。そして、廊下の突き当たりにも磨りガラスの戸があった。

 成瀬は、もう一度だけ住人に声を掛ける。

「各務さん! 各務さん! 警察です!」

 やはり、反応はない。

 久住と顔を見合せてうなずき合う。

 そのまま家に上がって、廊下に並んだ部屋の入り口を左手前からのぞいていった。居間、トイレ、万年床の敷かれた寝室……。

 特に変わったものは見当たらない。しかし、成瀬は強烈な違和感に襲われていた。それを上手うまく言語化する事ができない。そのまま寝室の奥にあった扉を開いた。

 すると、その瞬間、突き刺すような悪臭がただよってきて、成瀬と久住は右手で鼻先を押さえつけた。

「何じゃこりゃあ」

 久住が成瀬の肩越しに室内を覗き込みながら、怪訝そうに声をあげた。

 そこは元々台所だったらしい。扉口の右隣には大きな食器棚があり、それを挟んで磨りガラスの戸があった。廊下の突き当たりの戸だろう。

 そして、奥の壁に並んだ窓にはガムテープで新聞紙が貼られており、その手前にシンクやコンロがあった。

 食器棚に収められているのは、皿や調味料などではなく、ノコギリやかなづちといった工具と、メスや剪刀はさみなどの医療用具、大小様々な薬瓶だった。

 シンクの右側には勝手口の扉があり、本来ならそこから家の裏手へと出られるはずだった。しかし、三和土に一般家庭には似つかわしくない大きさの冷蔵庫が置いてあり、扉を完全にふさいでいる。

 そして、何よりも二人の視線を集めたのは、室内中央の大きな作業台の上だった。ところどころ赤黒く汚れた新聞紙が敷かれており、そこに四つの不気味な木組みの箱が横一列に並んでいた。どれも20センチ立方程度の大きさで、それぞれの箱の前にはふたと思われるパーツがおいてあった。暗いあめいろで、れそぼったような光沢を帯びている。

 成瀬はその箱へと恐る恐る近づく。懐中電灯を照らして箱の中を覗き込んだ。

 そこには、赤い液体がいっぱいに満ちている。

 考えるまでもなく、何かの動物の血液だろう。この箱は、いったい何なのだろうか。

 成瀬にはまったく見当もつかなかったが、この箱がとてつもなくまがまがしいものである事は容易に想像がついた。その予感を裏付ける証拠とでもいうように、室内に満ちた生臭さに反して虫が一切湧いていない。羽音が聞こえない。季節がら、それはあり得ない。

 虫すら寄り付かない何かがこの部屋にはある。このまま、ここにいたらいけない。きっと、取り返しのつかない事になる。今すぐ逃げ出したい。

 しかし、成瀬は警察官としての職務をまっとうするために恐怖心をけ、その異様な台所へと足を踏み入れる。そして、大きな冷蔵庫の前まで来たところで、背後の久住がいやに静かである事に気がついた。

「班長?」

 成瀬は振り向く。すると、その瞬間、自分の目にした光景が理解できずに凍り付いた。

 久住は直立したまま全身をけいれんさせていた。まるでくびり死体のように白眼をむいて口を大きく開け、舌をあごまで垂らしていた。

「班長!」

 成瀬が駆け寄ろうとする。その瞬間、久住のひざが力なく折れて、床に崩れ落ちる。すると、彼の背中から白いもやのようなものが噴きあがり、まるで飢えた獣のように成瀬の方へと襲いかかる。

 そこから先の記憶がない。


    ◇ ◇ ◇


 目を覚ますと見知らぬ白い天井が目の前にあった。こつりと右手の指先に何かが触れたので、握って顔のそばまで持っていく。その動作だけで身体がび付いたように重く感じられた。

 手の中のそれをしばらくぼんやりと見つめ続ける。

 ナースコール。

 その名称が頭に浮かんだ瞬間、ここは病院のベッドの上だと、成瀬義人はようやく気がついた。

 ナースコールのボタンを押すと、すぐに背の高い禿とくとうの医師と少しふくよかな年配女性の看護師がやって来る。

 医師に「気分は悪くないですか?」とかれ、あつに取られながら首を振ると、そのまま健診が始まる。

 その際に説明を受けたところ、どうやら自分は四ヶ月も意識を失っていたらしいと知り、成瀬はきようがくする。

 信じられない思いでベッド左手の窓の方を見ると、カーテンの隙間から、すっかり葉を落とした病院の庭木が目に映った。確か季節は夏だったはずだ。しかし、聞いたところによると、もう今年も残すところ一週間しかないのだという。

 成瀬はまるで夢の中にいるような心地でつぶやく。

「……何で、こんな事に」

 その言葉を吐き出すと同時に、徐々に記憶がよみがえってくる。

 あの家。

 交番へ帰る途中に無線が入り『各務』という表札の古びた民家に向かった。

 その台所で見た奇妙な光景。血で満たされた四つの木箱。倒れた久住の背中から噴き出た白い何か……。

 成瀬は、はっとして声をあげる。

「班長……久住さんは……?」

 看護師と医師が顔を見合せた。訪れた気詰まりな沈黙。

「えっと、どうしたんですか……?」

 嫌な予感が鼓動の高まりと共に膨れあがる。そして、医師の口から、その事実が告げられた。

「お亡くなりになりました」

「は……」

 成瀬は唇を震わせながら絶句した。

 医師の話では、あの夜起こった事は次の通りであった。

 六十代男性が自宅で硫化水素自殺。

 通報を受けて駆け付けた警察官が一名死亡。一名意識不明の重体。

 けっこうなニュースとなり、各種メディアで報道されたらしい。

 そうなってくると、あの奇妙な箱や久住の背中から噴き出た白い靄は、混濁した意識が見せた幻覚なのかもしれない。

 何にせよ、あの夜、起こった事を正確に知る必要がある。

 そうでなくては久住が死んだなどと言われても、まったく実感が湧かなかったし、受け入れる事もできそうになかった。

 やがて、医師や看護師が病室を去って独りになったとき、成瀬はやはり何かの間違いなのではないかと、再び窓の方を見た。

 すると、夏とはかけ離れた灰色の空から、ちょうど雪が降り始めたところだった。

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