第2話 巴 幽霊の少女(2)

 リリスと名乗った悪魔に会ってから、一週間が過ぎた。

 あの時に何があったのか、記憶が虫食いではっきりしない。

 覚えてるのは何時の間にか家にいて、話しかけてくる美亜を無視。そのまま朝まで寝てしまった事と、そしてリリスによって紅の目玉を埋め込まれた事だけだ。

 あの出来事は全て只の夢なのだと、シンは自分に言い聞かせて何時も通りの日常を過ごしている。


 早朝、学校を行く為に顔を洗う。朝飯は食べない。その時間を睡眠にまわす。歯を磨きすすぐ。

 鏡に映る左目は勿論紅では無い。十七年間見慣れた自分の目玉に、間違いなかった。

「お兄ちゃん、いつまで鏡見てんの? 遅刻しちゃうよ」

 中等部の制服着た美亜が、洗面所まで迎えに来た。

「使う?」

 美亜は首を振ると、その動きに合わせてツインテールの髪型が綺麗に揺れ動く。

「なになに、そんなに妹の髪が気になっちゃう感じ」

 シンの何気なく向けた視線を敏感に感じとり、嬉しそうにくるっとターンを決める。ふわっとプリーツスカートが舞い、可愛らしい柄の入った下着が見えた。

「目が腐るッ!」

 じゃばじゃばじゅば、慌てて目を洗った。

「ひどーいお兄ちゃん。こんなに愛してるのに」

 美亜は泣き真似をしながら、抱きついてくる。

「ぬをっっ触んな! いいかコレは朝だからな!」

「もぅ、お兄ちゃんたら、準備ばっちり」

 頬を赤く染めて、両手を顔で覆う美亜をほっといて、シンは家を出た。



「プール掃除?」

「うん、今日放課後だよ、手伝うね」

 昼休み。舞姫と隣り合わせに机を並べ、雑談しながら昼飯を食べている。

 舞姫はハムや卵、野菜等を使った手作りのサンドイッチ。シンは家にあった袋に大きく『美亜の』と、マジックで書かれたメロンパンを持ってきていた。

 パン屑だらけの机とシンの制服を、舞姫は甲斐甲斐しく取り除く。


「鬼道夫婦、相変わらず仲良くて羨ましい」


 シンと舞姫の幼馴染、獅子神白虎。通称しし子を筆頭に、友人達の優しい眼差しと暖かい声に、鈍感なシンは気づかない。

 二人の仲はシン本人の意思に反して、クラス公認となっている。故にスケベだが、整った顔をするシンにアプローチする異性はおらず、何故自分はモテないのかと、悶々と悩んでいるのだ。

「……プール掃除……」

 首を捻る。

「むむむっ忘れてる。この前言われたでしょ?」

「あぁー授業サボって怒られたやつね。でも何故舞姫が一緒に掃除?」

「んっ、この前仕事手伝ってくれたお返し」

「ありがと! 流石、親友愛してるぞ!」


(親友って、舞姫頑張れ)


 しし子達がグッと拳を握って、舞姫を応援してるのをシンは知らず、メロンパンを頬張った。


 放課後になった。二人はジャージに着替え、プールサイドで合流した。

「ジャージかぁ」

 シンは心底がっかりして、舞姫を見た。

「うふふふ残念でした。制服に素足で掃除。うっかりシャツに水がかかって……ねっ妄想したでしょ?」

 ひらひらひらと、手を振り、顔を覗き込んできた。

「エッチんぐだね、シンは」

 ぐうの音も出ずに、しょんぼりと肩を落とすシンの耳元に、舞姫の唇が近づく。

「インナー、下着つけてないよ」

 ファスナーを少しだけ下げ、胸元のシャツを見せる。

 はふーん。鼻息荒く瞳に生気が宿る。

「ま、マジですか姫様」

「元気でた?」

「いたるところが元気です!」

 ペコペコと直立不動で、お辞儀を繰り返す。

「なら、ちゃっちゃっと終わらせよう」

「オゥッ!」

 二人仲良く腕を上げた。


 プールの水は事前に抜いてあり、二人はホースとデッキブラシを持つと、二手に分かれて清掃を開始する。

 落ち葉や昆虫の死骸を流水で飛ばし、デッキブラシでゴシゴシ。地味で体力を使うが、会話しながらの作業は退屈せずにスムーズに進む。

「……素晴らしい……」

 ゆさゆさゆさゆさ。ブラシを動かす舞姫の胸が揺れるたびに、視線が釘付けになる。

「手、止まってるよ」

 舞姫は、からかう様にニヤニヤと笑う。

「結構なモノをお持ちで……って」

 プールサイドに腰掛け、こっちを見ながら笑みを浮かべるセーラー服の少女と目があった。

 少女の腰まで届く長い髪は、墨の様に黒く艶やか。

 前髪は眉の上で、綺麗に切り揃えてある。

 大人びた表情から上級生かなとシンは思った。

「どうしたの?」

 舞姫が不思議そうに聞いてくる。

「知ってる人? セーラー服の子がこっち見てるんだけど」

「えっ」

 舞姫は慌ててファスナーを上げ、胸をガードしながらシンの背後に隠れた。

「んっ、どこにいるの?」

 恥ずかしそうに、聞いてくる。

 舞姫は何を言っているのか。すぐ目の前にいるのに。

 ズキン。

 左目が疼く。

 立ち去ろうとする少女の胸の中央で、真紅に光り脈打つ心臓が見えた。

「ァァッ」

 真紅に輝く左目を握る、リリスの姿を思い出す。

「ギャあぁあああぁああああ!」

 無理やり押し込め、封印した記憶の扉が開かれる。

 溢れ出す恐怖は悲鳴となり、口からもれていく。

「シン! どうしたの!」

 左目を押さえ、うずくまる。水面に映る自分の左目は紅に染まっていた。

「逃げろ舞姫、アイツが来る」

 足がガタガタと震え、胃がキュュウと縮む。胃液が逆流すると喉を焼いた。

 怖い。正直逃げだしたい。それでも自分には意地があった。舞姫が逃げきるまで、ここを通さない。

「……誰もいないから、落ち着いて」

 舞姫が優しく静かな声でそう言うと、背中から抱きしめてきた。

「見えないの……か」

 セーラー服の少女は二人に頭を下げる。

『怖がらせて、ごめんなさい』

 そう言って、涙を浮かべ今度こそ立ち去っていった。

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