三章 7
外は暗く、穏やかな風に乗って雪がひらひらと舞っていた。
吐く息が白く激しく濁り、気道が凍りそうなほど冷たい空気が肺に刺さって苦しかった。
もうこれ以上走れない。普段運動していないのだからすぐに限界は来るだろうと思っていたが、まだ本殿を出たばかりでこの様だ。
貫かれた傷の部分が酷く痛んでしまっている。それだけならまだしも、痛む度に両足の間隔が一瞬消えたりしてしまう。
しかしそれよりも、未だかつて体験したことのない感覚がまだ続いている事が心に淀んで離れない。
それは恐怖でもあり、怒りでもあり、殺人衝動でもあった。
目の前で
それは今まで気づかないようにしていた、私の中のもう一人の私。感情に飲まれた時に現れる、暴力そのものの私。
普段は強い理性という鎖で縛られているもう一人の私を、もう制御出来なかった。
背中に背負った朱音ちゃんの息はどんどん弱くなっている。それを認識する度に、私は強い衝動を抑えることが出来なくなっていく。
その一線だけは超えてはならない。だけど、超えてはならないという理性の存在そのものが邪魔で邪魔で仕方ない。
また私は大切なものを奪われる。あってはならない理不尽によって。それを実感する度に、私は暴力に全てを預けてしまいそうになる。
「ちょっと話をしようか」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、本殿の前に仁王立ちした
奴の姿を見た途端、私を繋ぎ止めていた何かが瓦解する音が聞こえてくる。
背負っていた朱音ちゃんを下ろし、紫苑ちゃんの手を離した右手が、気づけば聖の顔面に叩き込まれていた。
生まれて初めての暴力の感触は、信じられないほど気持ちの悪いものだった。殴った右手がびりびりと痺れている。
「はは、ははは。あんたそういえば、人に共感出来るんだったな」
聖はそう言って立ち上がると、初めて笑顔を見せた。
「見たんだろ、僕の記憶も。あんたの
あんなに邪悪で暗かったはずの目が、今では爛々と光っている。流れ出す鼻血も拭わず無邪気に笑うその姿は、まるで新しいおもちゃを買ってもらったような、純粋で綺麗な子供のように見えてしまう。
だが、私は抱いた印象を一瞬で払拭し、目の前の現実を直視する。
何がおかしい? 人を殺して、いたぶって、なおも笑顔を見せられるとはどういうことだ。
私は背後の動かない朱音ちゃんの痛々しい姿を見やって、また右手を振りかぶる。聖は避ける素振りすら見せず、当たった拳の勢いでまた地面に倒れ込んだ。
積もり始めた雪の絨毯が、聖の流血によって赤く染まっていく。
「はははは。あんた、僕と同じだよ。許せないよな? 大事な人たちを傷つけられてさ」
「お前とは違う!!」
私は思わず力いっぱい叫んだ。一声で喉が枯れるような大声だったのに自分でも驚いた。
「違わない、違わない。同じだって。あんたも人を殺せる素質がある。気付いてないだけだ、僕よりも遥かに濃い粒子を宿してるのを。……ああ、うちの先祖まで消して見せたのも納得だよ」
聖がまた立ち上がり、満面の笑みを浮かべて喋り続ける。
先祖。鏑木
あんなに正義に満ちた凛々しい人間が、命をかけてまで守った子孫というのが、こいつなのか?
私にはその事実がどうしても受け入れられなかった。会話を交わす度に、私の中の理性という鎖がゆっくり千切れていく気がした。
握りしめた右手が痛む。もう殴りたくない。それなのに、衝動は依然として私を唆し続ける。次の一発をいつでも繰り出せるよう、身体も自然と構えをとってしまっている。
「私はこの力を、人の為に使うって決めてるんだ! 人殺しの道具なんかに……するもんか……!」
強すぎる感情が私の目頭を濡らしていく。怒りなのか恐怖なのか、涙の理由が分からなかった。
「感情に任せるのは悪いことじゃないだろ? 理性のせいで誰かが死んでもいいのかい?」
聖が何かを口にするたびに、私の拳を握る力が強くなっていく。
「ほら、見なよ」
聖が指差した先には、さっき
「あの女、隼人を殺すだけじゃなくて自分ごと何もかも消し飛ばす選択をしたんだよ。旦那を殺された復讐だろうけどさ、感情ってそんな事まで出来るくらい人を動かすんだ」
確かに、私が穂香さんの立場だったら、同じことをしないという保証は出来ないかもしれない。そしてそれは、今私が居るこの立場と似ている。
「僕はたかが従兄弟を殺されたって何も感じないけどね。こんな奴家族じゃないし。でも大事な人を殺されたあんたたちは違うでしょ?」
聖のその言葉を受け、脳裏に要さんの姿が過る。
「そこの女も、自分の正義の為なら人を殺す選択をするよ。でしょ?」
聖が急に真顔になり、瞳を暗くして朱音ちゃんの方を睨んだ。私も背後を振り返ると、朱音ちゃんがうずくまりながら頭を抱えて呻いている。呪いの進行を早めているのか?
「新堂朱音。どんな気持ちだった? 間接的にとは言え、お前のせいで友哉は殺された。因果が生み出したんだ、お友達の死はな」
朱音ちゃんの記憶と、聖の記憶が私の中で混じり合う。
彼女が受けた依頼が全ての歯車を狂わせてしまった。それが偶然が生み出した悲劇だったとしても、因果は奇妙な縁を結んでしまった。
「……倫理を踏み外す決断をしたのはお前だ。
朱音ちゃんの弱々しく小さな声が聞こえる。
「ほらね。僕たちは似た者同士さ。考え方が違うだけ。本質は一緒だよ」
聖が飄々としながら言って、切れて出血する自分の唇を指で拭った。
そのまま一歩前に出て、突然私の顔を掴んだ。離そうともがくが、強い力で押さえられ、抜け出せない。そのまま聖は血を拭った指を私の口に押し込んだ。不快な鉄臭さと舌触りに私は気持ち悪くなって抵抗するが、すぐに指は引っ込んだ。
「さ、理由と方法は与えたよ」
聖がそう言って、両手を広げた状態で動かなくなった。
その目線がまた私の背後にあるのに気付いて振り返ると、紫苑ちゃんが朱音ちゃんのリストバンドに、最後の赤い薬を投与した後、胸に耳を当てて、首を横に振っていた。
「息が、もう……」
それを聞いた瞬間、周りの景色が真っ暗になった。突然、視界に入っている全ての人物の姿が人形のように切り替わり、暗闇の中にぽつんと浮かび上がっている。
寒さも、痛みも何も感じない。まるで無重力になったような感覚だった。
人形は上から糸で吊られている。聖も、紫苑ちゃんも、朱音ちゃんも。朱音ちゃんに繋がった糸はそのほとんどが切られており、既にもうあと数本ほどしかない。
私は聖の方へ向かい、その糸を全部束ねて掴み、引きちぎろうとする。
「もうやめて!!」
紫苑ちゃんが叫んだその声で我に返ると、戻ってきた現実の景色の私と聖の間に、誰かが立っていた。
私も聖も、紫苑ちゃんの声に反応してなのか、身体が止まっていた。身じろぎ一つ、指の先端すら動かすことが出来ない。
「お前も、御業が……」
聖が呟いて紫苑を睨みつけようとするが、震えるその身体は微塵も動かせない様子だった。額に血管が浮き出始め、相当の力を込めているのが分かる。動かす事が無理だと分かると、聖は自分の目の前に立つ人物に目線を移した。
よく見るとその人物は紫苑であるのが分かったが、背中には粒子が波打っている。
「聖、もういい。終わりだよ」
その紫苑ちゃんの姿の誰かがそう一言言ったかと思うと、纏う粒子が別人の姿になっていく。一瞬だけ振り返ったその誰かの顔は、悲しそうな顔をしていた。
やがて紫苑ちゃんを包む粒子が彼女から離れていき、空気に溶けて消える一瞬、彼が紫苑ちゃんに「呼んでくれてありがとう」と言った気がした。
紫苑ちゃんは彼に向かって優しい笑みを返し、しかし困惑した様子で膝をついて倒れた。
それが、聖の記憶の中で見た彼の友人、
まるで
混乱した頭で思考を纏めようとしたその瞬間、聖が獣のような絶叫をあげた。
透き通った冬の空気を裂いて響き渡るそれはひとしきり続き、しばらくして倒れ込んだ聖は、自分を抱くような格好で地面に丸まって、雪の絨毯を撒き散らして暴れながら、小声で何かを呟き続けていた。
「ふざけるな……僕の生きる意味を奪うなよ……!! 殺すために生まれてきたんだ……殺すために……。お前のために殺したんだ……」
私はそれを聞いて気付いた。
彼は、自分のためだけに行動していたのだ。
西森友哉は復讐を望んでいなかった。彼は友人である聖に、復讐に固執するのではなく、希望を見出して生きて欲しかったのかも知れない。
それなのに聖は、友人の本当の望みを無視し、利己的に他者を殺すことに生きる理由を無理やり見出した。他人の為に生きる朱音ちゃんとは真反対の思想を持って。
地面に倒れ込んで暴れる聖の姿が、私にはやはり小さな子供のように見えた。
彼には、それしか縋るものが無かったのだ。存在意義を復讐に見出すしか、彼の道は存在しなかったのだ。
歩く道が少し違ったのなら、私も朱音ちゃんも、もしかしたらこの人のようになっていたのかもしれない。
けれど、だからこそ。
この縁、因縁は断ち切らなければいけない。もう二度と誰も悲しまないように、これ以上誰も傷付かないように、それは誰かが背負わなければならない役目だと強く思った。
感情に支配されず、私は私の意志で、この男を殺さなければならない。復讐の連鎖は止めなければならない。
それは同じ力を持った者同士でしか分かり合えない、業のようなものに似ている。止められるのはきっと、私だけなのだ。
聖が絶叫を辞めて上体を起こすと、またあの暗い瞳で朱音ちゃんを見つめ始めた。
「お前みたいな奴が居るから駄目なんだ……。僕を否定するやつはいらない。殺してやるよ、
私はそれを聞いた瞬間、全身の毛が逆だった。
深呼吸をすると、私はまた漆黒の世界へ潜り込む。今度は自分の意志で、明確な目的意識を持って、今度は人形ではなく人の姿をした聖の糸を掴み、何も考えずに一気にちぎり取った。
生命が終わる音が聞こえ、聖は支えを失って倒れ込んで沈んでいき、やがて闇の中に消えていった。
視界が現実のものに戻ると、聖はぽかんとした顔になってすくっと立ち上がると、倒れている隼人の腹部に突き刺されたナイフを機械的な動きで抜き取った。
そしてこちらへ向き直り、真顔のまま自分の首に突き刺したかと思うと、両手を使って横一文字にゆっくりと引き裂いた。頸動脈が完全に断裂し、血しぶきが雪の絨毯に飛び散る。
最後に聖は不気味な笑顔を浮かべ、私と目を合わせた。
「やっぱりね」
血で濁った聖の声が、最後に私を穢した。
その瞳は、私と共にある深い漆黒を映し出していたような気がする。
聖が倒れたのを見届け、最後に振り返った時、私も地面に倒れ込み、紫苑ちゃんが泣きながら私を支えようとしているのが見えた。
本殿から火柱が上がり、篠宮神社はいつの間にか業火に包まれていた。しかし熱波はもう感じない。
むしろ頭上から降り積もっていく雪が異常に冷たく感じ、私の頭の中も白く染まっていくような気がした。
本当に、このまま何もかも真っ白になってしまえばいい。何もかも、雪に隠れてしまえばいい。そう願わずには居られなかった。
紫苑ちゃんの泣き叫ぶ声が遠くなっていき、私は夜空を見上げた。蠍座を探したくていくつもの星を繋げるが、何も見えなかった。
瞼を閉じる前、紫苑ちゃんの隣にお母さんが立っていた。殺人を犯した娘に向けるものではないのに、変わらぬ慈しみの笑顔で。
お母さん、私は誰かを幸せに出来たでしょうか。それは人を殺してでも叶えられるものなのでしょうか。
心の中でそう問いかけても、お母さんは何も答えずに、ただ私を優しく撫で続け、私を肯定してくれていた。
空から降る雪が私の頬に降り積もり、しかし涙がそれを溶かしていく。
まだやりたい事が沢山あった。まだ生きたい。でも、きっともう終わりだ。
勢いを増していくそれはまるで死に装束のように、背負った罪を隠しながら私を包んでいってくれた。
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