三章 3

 原崎はらざきかなめ


 千代ちしろ邸から外へ出る頃には外は暗くなり、辺りには薄っすらと雪が積もり始めていた。

 新堂しんどうの車は運転席の窓が破壊されているため、飛び込んでくる風が体温を奪っていく。おまけに煙草は風に煽られてすぐ消えそうになる。これから向かう篠宮しのみや神社での事を思うと気が重いし、今のところ心境は最悪だ。

 しかし、それでも行かなければならない。

「カグツチのこと、よく知っていたな」

 少しでも気を紛らわそうと思って、隣に座る来栖くるすに会話を投げかける。

 座っている姿は彼女の妹の姿なので、元々の姿を知っている俺としてはまだその光景には慣れないが、来栖は表情を崩さずに答えた。

「向こう側に居ても、ネットに接続が出来ましたから。例えが難しいですが、接続制限の無いリンクスを着けているようなものです」

 何をどうやって可能にしているのかは全く分からないが、それを聞いて俺は妙に納得した。クルス粒子の詳細な説明を彼女自身から聞いたからというのもあるが。

 意識に結びつく粒子……。俺は今までその役割というものが、単に脳波や意識を担うものだと思い込んでいたのだが、まさかここまでのものとは思いもよらなかった。

「あんたが行方不明扱いだったのは、ずっとここで隠れて研究していたからなんだな?」

「そうですね。カクリヨが興味を惹かれるのは利益を生み出すものだけです。その後は天城さんに託したし、私は妹のために粒子の性質を全て解明しようと思っていました。もっとも、後半は意識が戻らなかったので、本当に行方不明のようになったのは事実です」

 来栖が窓の外に目線を向け、小さな声で呟いた。

「……天城あまぎさんの事、残念でしたね」

 俺は沙也加さやかの名前を聞き、あの夜の事を思い出した。

 篠宮神社へ以前訪れた時、葬列から逃げるために沙也加の姿の何かが俺を導いた事を。

「まだ終わってない。あいつはまだこっちに残ってるみたいだからな」

 俺のその言葉を聞いても顔色を変えない来栖の様子を見ると、どうやらそれも既に知っているようだった。

 つまりそれは同時に、本物の沙也加の意識がこの世に結びついている事が真実なのだという裏付けになる。

 俺が見たのは、俺を導いてくれたのは、正真正銘本物の沙也加の思念なのだ。

「死者の未練ってのは、殆どが恨みとか妬みだとかって畑川から聞いたぞ。あいつはやはりカクリヨを、世界を恨んでいるのか」

「確かにそれも多いですが、一番多いのは、成し得なかった事をやり残したまま死を迎えてしまったという後悔です」

「……後悔、ね」

 彼女が未だ抱える後悔とは何なのだろうか。それに縛られたまま、安息の時を迎えることも出来ず、ただこの世に居続けることの辛さを想像し、俺は胸が痛くなった。

 YOMIヨミをリセットし、世間に刷り込まれてしまった「さやかの呪い」というものを消し去った時に、彼女を開放出来たと思い込んでいたのは、俺の勝手な解釈が生んだエゴでしかなかった。

 真に開放する必要があったのは、死してなお汚い現世に取り残された本物の彼女の意識、いわば魂の方だったのだ。

 もしかして、来栖はそれを知っていたからこそ、俺をこの村へ呼び寄せたのだろうか。

 だとしたら、俺はどうするべきなのだろう。

 色々と考えているうちに、気づけばもう篠宮神社に到着した。

 石段の向こうには灯籠が灯されており、暗い足元に光を落としている。境内に続く鳥居の脇に奇妙な形の立体が配置された台座があり、それが普通の神社と似て非なるものを演出している。

 あの夜はとにかく逃げることに精一杯だったし、注意深く観察も出来ていなかったのだが、こうして改めて見上げると、異質な空間だった。

 石段の上では松明が灯されているのか、火が風に揺れて踊っているように見えた。

 人の気配もする。何人かが境内の付近にいるのだろうか。

「で、どうやって地下へ行くんだ」

「考えがあります」

 そう言って来栖は、迷いなく石段を登り始めた。まさか馬鹿正直に正面から向かうつもりではないだろうかと心配していたのだが、奴の行動はそのまさかだった。

 石段を全て登りきり、鳥居を越えた向こうに神社の本殿が見える境内をさらに奥へと進んでいく。

 本殿の手前に人集りが出来ており、それらは皆一様に薄い笑みを顔に貼り付けてこちらを向いていた。

 来栖は人集りに向かって迷いなく歩みを進めていく。俺はその後ろを着いていくだけだが、本当に大丈夫なのだろうかと不安になってくる。

 本殿の手前で村人たちに道を塞がれ、両手で制された。通るなという合図だ。

「輪の人間以外は通っちゃいけねぇ」

 中央に立つ一人の男性がぶっきらぼうに吐き捨てる。言葉や態度は威圧的だが、顔はうっすらと笑っている。そのちぐはぐな違和感に、僅かながら寒気を覚えた。

箱守はこもり家現当主、箱守紫苑しおんです。道を開けなさい」

 来栖がそう言い放った途端、俺は軽い頭痛を覚えた。今までの経験上、この頭痛はクルス粒子が近くで何かに作用している時に起こると学んでいる。

 すると、村人たちは笑顔を貼り付けたまま何も言わず、ただゆっくりと道を開けた。

 何が起きた? 来栖が何かしたのは間違いないのだが、身体は箱守紫苑のままのはずだ。

 その身に宿す粒子濃度は来栖ほど高くないと聞いたが、意識が来栖のままだから出来た芸当なのだろうか。

 どいた村人たちは一言も発さないし、立ったままぴくりとも動かない。

「行きましょう」

 そう言って本殿への扉を開けた来栖に着いていくと、中では奇妙な物体が鎮座していた。

 御神体が祀られている場所にあったのは、どこから見ても同じ形にしか見えない奇妙な立体。三角形がいくつも重なったような、不思議な形だった。

 それが安置されている場所のさらに奥に、落し戸になっている扉があった。開いてみると、それまでと全く違う空間が姿を表した。

 それまでの木造りとは違い、コンクリートや鉄を用いた近代的な建築物で構成された暗い通路だった。

 螺旋階段状の作りになっており、長く続く階段を回って降りていくと、最下層は長い廊下になっていた。左右に複数の扉があり、正面の一番大きな扉は頑丈そうな作りで、簡単に突破出来るとは思えない。

「原崎くん、解除出来ますか?」

 俺よりも来栖の方がリンクスの使い方は心得ているはずなのだが、ハッキングは専門のようなものだ。そう言われたならやるまで。

 だが遠隔で通信してみると、思ったよりも内部は堅牢なロックが掛けられていた。ただのハッキングではどうにもならない。

「生体認証が必要だ。あんたのでいけるか?」

「私のデータを紫苑に上書きしてしまいましょう」

 そう言って、扉横の認証機へと来栖が向かった。そのうちに俺は登録の上書き処理を終える。

 認証機から生体スキャンが始まり、上書き処理が完了すると、重厚な扉が滑らかにスライドしていく。

 開けた広い部屋の中央で、投光器に照らされて誰かが横たわっていた。

 周囲は暗闇に包まれ、どのくらい広い部屋なのかは想像もつかない。もしかしたら、壁など無いのかも知れないと錯覚するほど深い闇だった。

 そんな中で、YOMIへ繋げるダイビングチェアと似たような作りのベッドらしきものに横たわる誰かの姿。

 脇に備えられた机にぼんやりと浮かぶモニターがあり、医療用と研究用のコンピュータが繋がれて様々な状態を表示している。どうやら、これが来栖の身体のようだった。

「来ると思っていましたよ。来栖凛苑りおん、そして原崎要くん」

 奥の暗闇から抑揚のついた耳障りな大声が響いた。気色の悪い演技がかったような軽快で派手な足取りで、闇の中から横たわる来栖の脇に真っ白なスーツの男が現れた。

「お前の顔は二度と見たくないと思っていたんだがな、平岡ひらおか

 俺がそう吐き捨てても、平岡はけろりとして再び喋り始めた。

「使命を果たすために戻ってきたのです。あの時はお世話になりました」

 平岡がそう言って、わざとらしくお辞儀をしてみせた。腹立たしくはあるが、下らない皮肉を言われようと響きはしない。だが、奴の顔を見る度に、俺の中に煮えたぎるものはある。

「裏切り者の両親の立場を継ぐのが使命だと? 笑わせる」

「僕に当たらないで頂きたいですね。最後に決断したのは天城沙也加本人なのですから」

 この男の両親はかつて、沙也加のプロジェクトに参加していた。

 しかし、利益を優先させるカクリヨ側の考えに傾倒していた二人は、上層部からの提案を受け、自身が作った「伊邪那美の声」をYOMIの誓約者を増やす口実として信仰を利用したのだ。

 そしてYOMIが完成してから、カクリヨは沙也加から権利を取り上げるための強硬手段に出た。世論を操作し、世間からの非難を沙也加に集中させ、彼女が死んだのを機に権利を会社そのものへ移したのだ。

 こいつらのせいで、沙也加は自殺を選ぶほど苦しんだのだ。

「ここでも気色の悪い団体を立ち上げて、一体何をするつもりだ」

「信仰自体は昔からあったものですよ。僕は更にそれを洗練していっただけです。まぁ一服でもして落ち着いて下さい」

 その言葉を合図に、俺の脇から人影が急に現れ、胸ポケットに手を突っ込んだ。

 凍ったような無表情の男が、目の前で瞬きもせず俺のことをじっと見ていた。銀髪で長身、あの時千代医院に居た、不気味な男だった。

 どこに潜んで居たのだ? 全く気配を感じなかった。

 それより、この男から感じる威圧感のようなものが恐ろしくて堪らない。見つめられているその瞳の奥に深い深淵を見たような気さえする。

 見られているだけなのに身じろぎ一つ出来ないまま、俺は煙草をその男に取り上げられた。

ひじりくん、火を」

 聖と呼ばれたその男は、俺に一本煙草を咥えさせると、後ろを振り向いて誰かを手招きした。

 すると更に奥の暗闇から、千代邸に来ていた北澤きたざわという女が現れる。北澤は聖という男にライターを手渡すと、俺に咥えさせた煙草に火を点けた。

 それを見届けると、吸い殻のようなものを取り出し、俺を真似るようにしてそれを咥えた。俺の煙草の吸殻か? 一体どこで手に入れたのか知らないが、とにかく動作の一つ一つが理解しがたく、不気味だ。

 聖は俺から奪い取った煙草を箱ごと握り潰し、地面に落として力いっぱい踏みつける。

 もう、煙草の煙でどうにか切り抜けることは出来なさそうだ。

「原崎さんとの思い出話は終わりにしましょう。問題は隣のあなたですね。今更身体が恋しくなったのですか? 来栖さん」

 平岡は続いて来栖の方へ喋りかけるが、来栖は動じない様子で応答する。

「いいえ。をしに」

 それが何を意味する言葉なのか理解出来なかったが、平岡の表情が一気に変わった。にやけたような顔つきが真剣になっていく。

「随分と大胆なご冗談ですね」

「冗談ではありません。もう私の身体も、向こう側へ半分飲み込まれているのは知っているでしょう? 意識を身体へ戻しても、こちら側へ帰ることはもう出来ない」

 来栖は何を言っている? カグツチをあの身体に繋がれたコンピューターへアップロードするのではないのか?

 まさか、既に稀人とやらに精神を侵されているとでも?

 状況の把握が出来ないまま、来栖の言葉は続いていく。

「ならば私はもう、あちら側へ行きたい。ただこの妹の身体は本人に返したいのです。今後は自由にさせてあげて欲しい。御三家や篠宮に縛られず、自分らしく生きて欲しい」

「それを条件に、アセンションに同意すると?」

 平岡が真剣な表情のまま聞くと、来栖は重く頷いた。

「まぁいいでしょう。どんな魂胆があるのか知りませんが、大いなる者の前では無意味ですからね。……皆さん、集まって下さい!」

 周辺の暗闇になっている部分の辺りから、どこにそんなに居たのか、信者らしき人間たちの輪郭がぼやっと浮かんで現れた。

 皆同じような服装で、同じような薄い笑みを貼り付けながら、裸足で冷たい床を踏む音が響いている。その様は信者というより、囚人に近い印象を俺に抱かせる。

 その時、来栖から暗号化された個人通信が届いた。

「原崎くん、私にカグツチを」

「なんだと?」

「いいから早く、遠隔で私にアップロードして下さい」

 そんなことをすれば無事では済まない。カグツチは宿主の人間の脳に自己破壊衝動を植え付けるよう作用するのだ。

 来栖どころか、妹の身体にも作用しかねない。それにそんな事をしたところで稀人とやらに効果はあるのか?

 彼女の意図するところが分からなかったが、どちらにせよこの状況ではもうこそこそ隠れてアップロード作業を行うことも出来ない。今すぐに決断するしか無かった。

「予定通り、これよりアセンションの儀を行います! 皆様の信仰が実を結ぶ時なのです!」

 平岡の演説を受け、信者たちは皆一様に手で三角形を作って掲げた。医院で見た時と同じ光景だ。

「まれびとが訪れてくださいます。皆で歓迎の儀を行いましょう」

 平岡の一声で、信者たちが来栖の身体を中心に、手を繋いで輪を作り始める。来栖もそれについていき、輪の中に加わった。

 何が起きようとしている? 異様な光景の中、信者たちが大きく口を開けて、一斉に合唱のようなものを歌い始めた。いや、これは歌ではない。

 一音がただ伸び続けるだけの音。これは、あの夜に葬列を見かけたときにも聞いた音だ。

 これを聞いていると体が無条件で震える。この音を聞き続けていると、あの感覚が襲ってくる。「」のだ。

 俺は来栖と平岡を交互に見やる。何か出来るチャンスはもうここしかない。

 無理やり走ってコンピューターの元へ行くか? いや、そんな事をしてもこの何十人もの信者に取り押さえられるだけだろう。

 逃げて体制を立て直そうにも、もはやこの様子では次にこの場所を訪れることすら出来ないかもしれない。

 駄目だ、決断出来ない。俺はカグツチの入ったデータドライブをポケットの中で握りしめる。

 どうすればいい? どうするのが最善の策だ?

「凛苑を信じて」

 その時、背後から誰かに声を掛けられた。

 信者たちの声は段々と高くなっていき、耳を塞ぎたくなるほどの大きさになっていた。周辺の音が何も聞こえなくなるほどに。

 そんな中、ハッキリとその一言だけは聞き取れた。

 背後を振り返った時、そこに沙也加が立っていた。

 影ではなく、幻覚でもない。確かに俺の肩に触れ、微笑する彼女が確かにそこに居た。

「沙也加……」

 俺が思わず名前を呼ぶと、彼女はこくりと頷いた。

「妹さんに影響は無い。凛苑は最初からこうするつもりだったんだよ。もうあなたにしか出来ない。やって」

 そう言われた時、妙に納得してしまった。

 そうだ、来栖はずっと頭が良かった。先のことを予見する先見の明に始まり、天才故に俺達の考えも及ばないようなことをしてきた。

 普通と違う考えや大胆な思考、革新をもたらす者としてその姿は時として一般人には異端に映る。俺のような固い思考を持つものには理解し難いものなのだろう。

 何より、沙也加がそう言ってるんだ。

 俺はデータドライブを自分のリンクスに差し込み、アップロード先を来栖に指定する。

「天城さんの願いでもあるんです。だからお願いします」

 最後にこちらを振り返った来栖が遠隔通信でそう言った。もう一度沙也加を振り返ると、彼女は眉尻を下げて口を真一文字に結び、泣き出しそうな顔でそれでも俺に微笑みかけている。

 ……ああ、そうか。沙也加は全てにケリをつけたかったのか。

 自分で生み出してしまったYOMIのこと、自分が死んだことがトリガーになり、高村たかむら賢人けんとにあんなことをさせてしまったことをずっと悔やんでいたのだ。

 そして、彼女はやはり恨んでいたのだろう。カクリヨのことも、立ち向かえなかった自分の事も、何もしてやれなかった俺のことも、何もかもを。

 きっと本当に彼女の事を分かってやれたのは、賢人だけなのかもしれない。沙也加はこれら全部をひっくるめて、何もかも無かったことにしたいんだ。

 負の遺産となってしまったYOMI、それの跡を継ぐよう台頭している霊廟も、カクリヨも、自分が生み出した悪夢そのものを、何もかも全部消し飛ばしたいのだ。

 だが、死んでしまっては何もすることが出来ない。だから代わりに俺にやって欲しかったのか。

「利用するみたいになっちゃって、ごめんね」

 沙也加がまるで俺の心を読んだように言った。いや、もしかしたら心の内すらも彼女には聞こえているのかも知れない。もはやこの場所で起こることは、現実の基準で測らない方が良いのだから。

「いや……俺こそすまなかった。何もしてやれなくて」

 俺がそう謝ると、沙也加は最後に笑って、見えなくなった。

 リンクスを経由し、カグツチのアップロードを来栖に向けて開始する。

 信者たちの声はもう既に甲高いモスキート音を超えていきつつある。耳を塞ぎながら、俺は視界に浮かぶアップロード進行状況に目を向ける。

 まだ時間はかかる。だがこのまま何の障害も無ければ間に合うだろう。

「妹を、よろしくお願いします」

 輪の中で他の村人と手を繋いでいた来栖が泣き顔で振り返り、そう言ったのを最後に通信が途切れた。

 その時、急に視界にノイズがちらつき、光点がちかちかと激しく明滅した。割れそうな痛みが頭に走り、立っていられなかった。

 そのまま床に崩れ落ち、うずくまって頭を抑えるが、一向に痛みは引かないどころか強くなっていく。本当に割れているのではないかと錯覚するほどだった。

 顔を上げても、視界が酷く崩れて何も認識出来ない。景色どころか、レンズに投影されたアップロードの進行状況さえ光点とノイズに邪魔されて見えない。

 幾重にも重なった歯車のようなものが視界の中で明滅して動き回り、もはや視界は何も見えないほどぐちゃぐちゃになった。

 乱雑になった視界の中で、聖がこちらを向き、その暗い瞳で俺を見つめているのが微かに見えた。禍々しい色の目から、抗えない威圧感を確かに感じる。

 呪われたのか、俺も。

 信じられないほど身体が言うことを聞かない。視界が真っ赤に滲んでいき、垂れてくる鼻血を拭っても拭っても止まらない。

 落ち武者から受けた右腕の傷もいつの間にか開いたようで、鋭い痛みが腕を伝って激しく全身に響いている。

 失血が多すぎる。色の混ざりあった光点と歪んだ視界はいつまで経っても収まらず、ついに意識が朦朧とし始めた。

 リンクスまで破壊されてしまったのか、カグツチのアップロードは停止状態になってしまっているようだ。

 強すぎる痛みで全身に全く力が入らない。全身を刻まれているような激痛に、遂に俺の身体は地面へと倒れ込んでしまった。

 赤で滲んでぼやけた視界の端で、聖が俺のリンクスからデータドライブを奪い取るのが僅かに見えた。

 アップロードが終わる前にカグツチを奪われてしまった。失敗だ。

 何もかも水の泡になってしまう。俺の判断があと一歩早ければ成功していたかも知れなかったのに。

 だが今更後悔してももう遅い。輪になった信者達の歌が俺の耳で、頭で、反響し続けて大きくなっていく。

 稀人が来る。「何かがこちらへやってくる」感覚がどんどん近付いてくる。

 その時、データを奪い取った聖が俺の背後へ目線を送り、目を剥いた。次の瞬間、何かが弾けるような音と共に、聖が倒れ込むのが見えた。

 背後から嗅ぎ慣れた煙草の匂いがすると、先端で電撃の走るスタンロッドを構えた新堂が、聖に向かって構えているのが視界に入り込む。その背後にしがみついて隠れるように、畑川はたかわも来ていた。

「もう一回、目を貸して麦ちゃん!」

 俺と目が合うと、畑川は俺の名前を叫んで近寄ろうとする。もうほとんど動かない腕に力を振り絞り、俺は畑川に向かってシガーケースを投げ飛ばした。

 俺と記憶を共有したあの二人なら、この中身の使い方は分かるはずだ。

 そして、手が動かなくなる寸前で、聖の手からこぼれ落ちたデータドライブを指差した。

 確保してくれ、頼む──。

 言葉すらもう口に出すことが出来なかったが、畑川が俺の差した先を目で追い、意図に気づいたようだった。

 新堂が間髪入れずに駆け寄ってそれらを拾い上げ、何の迷いもなく自分のリンクスにドライブを差し込んで、シガーケースの中身を取り出して着火した。

 新堂はもう、立つことすら困難だったはずだ。それなのに、何が彼女をあそこまで駆り立てるのだろう。

 視野が狭窄し始め、自分の呼吸が小さくなっていく。閉じていく視界の中、新堂を支える畑川と、もう一人誰かの影が見える。波打つ粒子が彼女の姿形を形成しているのを見るに、死者だろうということは分かった。

 どんなにボロボロになっても、肉体が生きていようと死んでいようと、強い意志は消えることはない。例えば、彼女たちのように。

 辺りを紫煙が包んでも、俺の身体が元に戻ることはない。この煙は、お前たちが自分の身を守るものだ。そんな悲しい顔をするな。

 俺の考えが通じたのか、新堂は悔しそうな顔でこちらを一瞥した後、着火した発煙筒を信者の輪の中心に向かって投げつけた。

 さすが、判断が早いな。

 あいつらなら、きっとやり遂げてくれるだろう──。

 それが、俺の見た最後の光景だった。


 今まで聞こえていた音が全て消え、静寂が訪れていた。空気が透けて見えるように澄み切った空間は、今は何の音も聞こえない。

 不思議と身体が軽く、俺は倒れていた体を起こして立ち上がった。

「おつかれ」

 背後から声を掛けられて振り向くと、沙也加が笑顔で立っていた。俺は何をしていたのだろうか、ぼんやりとした頭では思い出せない。

「もう役目は終わったよ、後はみんなが引き継いでくれる」

 何かの作業の引き継ぎをしていたのだろうか。そう思って、なんだか懐かしい気持ちが蘇ってくる。

「なぁ、覚えてるか? 学生の頃、お前は課題が得意じゃなくて、いつも俺と高村たかむらに尻拭いさせてた事」

「懐かしいね。……でも得意じゃないっていうのは間違いかな。期限を守れないだけ」

「同じことだ」

 俺は笑って呟き、煙草に火を点けようとした。だが、ライターのオイルが切れでもしたのか、一向に火は点かない。

「煙草、辞めろってことじゃない?」

 沙也加がそう言って、俺が咥えた煙草を奪い取る。

「お前が、ワイルドな方が好みだって言ったんだ」

 本人はもう覚えていないかも知れないが、俺にとってはそんな小さな事でも重要で大切だったからよく覚えている。

 何事も慎重で奥手な俺とは違って、沙也加はいつも大胆で挑戦派だった。

 失敗を恐れること無く、前例の無いことでも実践して経験を糧にする。データとにらめっこして失敗を避ける俺とは真反対の性格だった。

 だからこそ惹かれたし、だからこそ理解者になりたかった。

 結局のところ俺はYOMIヨミなんかに興味は無い。俺はただ、お前の背中を支えたかっただけだったんだ。

「原崎くんは本当に頑張ってくれたね。私が居なくなった後も、YOMIを引き継いでくれた」

「他に何が出来るのか、分からなかったんだ」

「……ありがとう、原崎くん」

 沙也加がそう言って泣いて、俺の手を引いた。

「俺は、結局何も出来なかったな」

「色々してくれたよ。あなたの助けがあったから、みんながここまで来れたでしょ」

 火の点かない煙草は、もう俺には必要無い。改めてそう思って、口元から離した指が砂のように崩れていくのが見えた。

 もう、行かなくてはいけないのだろうか。

「大丈夫、あの時の原崎くんみたいに、今度はみんながあなたの意志を引き継いでくれるから」

 背後を振り返って、新堂と畑川に最後の頼みを託した。

 俺の出来なかったこと、沙也加の出来なかったこと、賢人の遺したもの、来栖が作り上げたもの。

 様々な人間の色々な想いが詰まったそれを、カグツチを、稀人とやらにぶつけてやれ。

 悲しそうな顔でこちらを見上げる新堂と畑川をもう一度振り返ってから、俺は沙也加の方へ足を踏み出した。

「向こうへ行ったらどうなるんだろうな」

「一緒なら怖くないでしょ」

 そうだなと俺は呟いて、笑みを溢す。

 不思議と、恐怖も後悔も感じていない。むしろ、暖かいものに包まれているような安心感や、開放感があった。

 ここらで休んだとしても、きっと許してくれるだろう。

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