三章 2

 新堂しんどう朱音あかね


「もう一回、ゆっくり言ってくれる?」

 私はこれ以上無いほどのしかめっ面を作って、七彩ななせに聞き返した。

「三年二組の田上たがみ康介こうすけに、色仕掛けする」

「本当に嫌なんだけど」

 何度聞き直しても、その響きが耳に届く嫌悪感は耐え難いものだった。

 放課後の西日が照らす学校の廊下で、私は七彩と今回の依頼内容を改めて整理していたのだが、やはり気が進まなかった。

 その頃、私達が密かに続けていた探偵活動は知る人ぞ知るものであり、友達同士を伝っているだけのごっこ遊び。まだまだ探偵とは呼べない「便利屋」のようなものだった。

 依頼者は七彩の友人で、その内容は、現在その子の彼氏であるという田上康介なる人物の浮気性を確かめる、というものだった。

 もう既に何度か浮気らしき痕跡があるものの、確たる証拠は押さえられていない。そこで私に白羽の矢が立ったというわけだ。

 七彩は既に顔を覚えられているのだが、私の事は知られていない。

「朱音ならどんな男でも一発でオチると思うし、証拠さえ押さえられればあとは逃げればいいし、ね?」

 そう七彩に押し切られる形で、渋々だが依頼を受けることにした。

 そもそもこんな古典的で何のひねりもない作戦が、果たして上手くいくのだろうか?

 人を好きになる事こそあれど、恋愛までは発展してこなかった。だから誰かを口説いたことなど無いし、駆け引きや常套句などもまるで知らない。ドラマや映画で聞きかじったような薄い知識しか無いのだ。

 とはいえ受けてしまったものは仕方がない。七彩の面目もあるし、私は気が乗らないまま田上のもとへ向かった。

「ずっと前から好きでした。付き合って下さい」

 自分で思い返してもまるで気持ちの込もっていない月並みなセリフだと実感するし、感情ゼロの真顔で言ったはずだったのだが、それでも田上は二つ返事で承諾してきた。

 疑われる事など一切無かった事に拍子抜けするとともに、男というものはこんなにあっさりと浮気をするものなのかと内心で酷く蔑んだ。

 田上は、自分には恋人がいるということを徹底的に私に隠した。正直私としては告白を受け取った時点で依頼は完了したようなものだが、もっと確たる証拠が必要だという七彩に従って、偽の恋人としてのスパイ活動はもうしばらく続いた。

 とは言うものの、一切私の身体には触れさせなかったし、デートというのもその辺りのショッピングモールや軽いテーマパークに行くぐらいのものだったので、傍から見たら健全な恋人同士に見えただろう。

 だがその実、田上の持ってくる話題はどれも長ったらしく自慢気で、お世辞にも楽しいとは全く思えないものだった。

 親がどこかの企業のお偉いさんだそうだが、私にとっては何のアピールポイントにもならない。むしろ親の七光りを感じさせ、なんだか無性に鼻についた。

 この男は「親の持っている権力」を自分のもののように誇示しているだけだったが、それでもある程度価値のあるステータスになる。何も持っていない、家柄も普通以下の私とは違って。私にはそれがどうにも受け入れ難かった。

 ある日、痺れを切らした田上がついに家に招こうとする旨の下心満載なメッセージを送ってきた。ようやくこの悪夢のような日々から脱却出来るという喜びを噛み締め、今までの田上とのやり取りをまとめて依頼主の元へ報告をしに行った。

 七彩の友人は鬼のような形相で私達を待ち構えており、顔を合わせるなり激しく罵倒してきた。

 田上は既に彼女とは別れていたらしく、本来は浮気を問い詰めて田上に反省してもらうという目的だったようだが、依頼どころか関係すら台無しになったという事で激怒していたのだった。

 今はもう田上の恋愛熱は彼女から私にシフトしており、連絡すら取れない状況だ、どうしてくれると泣き喚かれた。しかし私に当たられてもどうしようもない。

 結果、彼女は田上とも七彩とも縁を切る形で、今回の依頼は失敗に終わってしまった。

「ごめんね、友達だったのに」

「ううん。特別仲が良いわけじゃないし、朱音が悪いわけでもないし」

 七彩はそう言って、シャツにぶち撒けられた飲み物をハンカチで拭った。

「むしろ朱音の方が大変になっちゃったね。あいつ結構しつこいらしいから、気を付けて」

 七彩の忠告をその時は話半分で聞いていたのだが、その後、事あるごとに本当に田上に付き纏われ、なんとか口実をつけて逃げ回る日々が続いた。

 元彼女からは非常に恨まれ、悪い噂を吹聴され続けたり、そのせいで一時期は誰からも依頼が来なくなって大変だった。

 だが世の理だろうか、数ヶ月も経つ頃には田上のストーキングも悪い噂も消えていき、いくらか快適に過ごせるようになってきた。

 七彩は進学せず、家の家計を助けるため就職することを決めていたので、就職活動の為に探偵活動を控えようと二人で決めた頃。

 忘れもしない九月のあの日、就職先の面接へ向かったビルで七彩は死んだ。

 ビルごと燃やして自分も死のうとした田上康介の自分勝手で愚かな行いによって、林藤七彩という尊い命が失われたのだ。

 火災現場のビルはMSTミズシマ・サイエンス・テクノロジーという企業のもので、田上の親はそこの幹部社員らしく、その当時も奴は形だけの面接として現場に訪れていたそうだった。

 しかし、本人の素行不良ぶりに親も庇いきれなくなり、就職活動は失敗、その結果があの放火だったそうだ。

 その時現場に居た、助かった他の生徒達の証言で分かった事だが、元彼女も田上の事も、七彩は助けようとしていたらしい。あんなに軽蔑されていたのに。

 生まれ持ったものも、与えられるものもあるというのに、何が不満だったというのか。私には到底田上の脳内は理解出来なかった。

 必ず罪を償わせると誓ったのに、田上康介も搬送先の病院で死亡が確認された。

 倫理を外れた悪人が死のうが苦しもうがどうでもいい。死ななくても良かったはずの七彩までどうして死ななければならなかったのか。正しい道を歩んでいたはずの彼女が命を奪われても良いはずがない。

 しかしもうどれだけ嘆いても、七彩が死んだ事実は消えない。それだけが私をずっとずっと苦しめた。


「ずっと枷になってたんだね」

 七彩の声が聞こえる。

 横向きにぼやけた視界の中、脇に七彩が座って私を見下ろしていた。

「全部背負わなくていい。朱音には、朱音らしいまま居て欲しい」

 あたしは七彩の意思を継ぐって決めたんだ。誰かの為に行動出来る人間を目指したんだよ。

 でもあたしはまだ弱い。未熟で、何も成せないまま。

「それが朱音を縛っちゃってるんだよ。もう余計なことなんて何も考えずに、感じたままに行動すれば良い。それが一番朱音らしいから」

 ……確かにそうかもね。もう、色々考えるのも疲れちゃった。これからは、感じたままに行動してみる。

「大丈夫。もしも道を間違えそうになっても、小麦こむぎさんやかなめさんが支えてくれるから」

「……何で七彩が二人のことを知ってるの?」

 私の言葉には答えず七彩は立ち上がり、部屋を出ていった。

 今の七彩の姿が夢じゃないかもしれないと思ったのは、ここが千代ちしろさんの家だと気付いてからだった。

 やけに暗い。見上げる部屋には電灯が点いているらしいのだが、視界がぼんやりとしていて上手く見渡せない。

 痛む頭を抱えつつ、裏口に現れた北澤きたざわを取り逃がして要さんに運ばれたところまで思い出してきた。上体を起こすが、その重さが身体が異常に衰弱している事を示していた。

 あちこちが痛み、力が入らず、視界も殆ど何も見えない。

 加賀美かがみさんから貰った青のカプセルはまだある。バンドにそれを補充し、投与した。赤も青ももう一つずつしかない。

判然としない意識のまま七彩の事を考えてしばらく過ごし、薬が全身に回って楽になってきた頃、外が慌ただしくなってきた。

「朱音ちゃん!」

 大きい声が脳内に響き、誰かにぎゅっと抱きしめられた。声と匂いと感触で、その声の主が小麦だと分かる。良かった、無事だったんだ。

「……一人で無茶したら駄目じゃん」

 小麦が鼻を啜りながら「ごめんね」と呟いた。背後からもう数人の気配がする。

「新堂、辛いだろうがこのまま話を進める。お前も聞け」

 この声と背格好からして、小麦の背後に立つのは要さんだろう。煙草の匂いも同時に香ってきて、それでまたいくらか楽になる。視界も僅かに光が増えてきて先ほどよりも見やすい。

 その横から小さな影が近付いてきて、私に何かを渡してきた。紫苑しおんだろうかと思ったが、どこか雰囲気が違っていた。

 まだぼやけてこそいるが、視界が少し開けてきて、見慣れた面々の顔がぼんやりと浮かんでいる。小麦、要さん、そして……誰だ、もう一人は?

「麦ちゃん、横にいるの……誰? 紫苑ちゃんじゃないよね。髪が長い」

 私の言葉に、その小麦の横に立つ影は固まっていた。

「見えているのですか?」

 驚いたような声色でその人が尋ねる。やはり聞こえてきた声は紫苑のようで紫苑ではない。

 ピントも合わず、視野も暗く、狭い。これを見えているとは言い難いが、何故か人物のシルエットだけはぼんやりと認識出来る。

 まるで砂の粒かあるいはノイズのような白い物体が蠢き、ざらついた表面を型取っている。表情などは読み取れないが、そこに誰が居るのかは判別出来る。不思議な視界だった。

 部屋の風景などは何も見えないのだが、そのシルエットだけは妙にハッキリと認識出来る。

 そして、この人の鮮明の度合いだけが何故か別格だった。表情も服装も詳しく分かる。

 紫がかった長く艶のある髪をふわりとさせ、真っ白な服を着ている。どこか遠くの景色を見ているような、儚い瞳の女性だった。

「ぼんやりとだけ」

「……紫苑の姉の、来栖くるす凛苑りおんです。吸って下さい。楽になると思います」

 今、来栖と名乗ったか? 要さんに位置情報を送ってきた人物が、何故ここに居るのだろうか。だが、考えを巡らそうとしても身体の気だるさがどうしても邪魔してしまう。

 彼女から渡されたものの感触は小さくて細い。手触りからして紙巻き煙草だろうというのは分かった。

「ちょっと、病人に何勧めてるんですか!」

 小麦が横で喚くのを制して、凛苑と名乗った彼女が続ける。

「何故かは分かりませんが、煙草の煙には粒子の結合を一時的に破壊する性質があるようなのです。吸えば血流に乗って全身に行き渡る。奴のを多少抑えれるはず」

 彼女が何を言っているのか理解は出来なかったが、言われるがまま煙草を咥えた。

 要さんが目の前で火を点けてくれ、一瞬それに驚き、煙を一口吸った瞬間むせ返るような不快感に思わず激しく咳き込んでしまった。

「続けろ、最初はそんなもんだ」

 喉に張り付いて刺してくるような異物感が耐えられないほど不快だったが、それでもこの香りはどこか落ち着く。私は言われた通りに咳き込みながらも吸い続けた。

「小麦さん。原崎はらざきくんと同じように朱音さんに記憶の共有を。その方が話が早い」

 凛苑さんの言葉で小麦が頷き、私の手を取る。その瞬間、彼女の経験が全て流れ込んできた。

 鏑木かぶらぎ永盛ながもりという武者に襲われながらもなんとか紫苑の記憶を取り戻し、彼女の中に姉である来栖凛苑の意識が覚醒したこと。

 クルス粒子の存在、それに伴う小麦の能力の進化と、意識が宿った粒子という存在の稀人と、それを止める方法も。

「カグツチを使う……!?」

 小麦から共有された記憶の流れ込みが終わった頃、私は思わず声を張った。

 記憶を読み取る小麦の能力が変化しているのも、紫苑の姉が来栖凛苑だということにも確かに驚いた。

 しかし何よりも、カグツチを使用して稀人とかいう訳の分からない存在を破壊することに一番衝撃を受けた。

 紫苑、いや凛苑がすぐさま補足した。

「そう、あれに備わった自己破壊プログラムを私が上書きしました。これをカクリヨの霊廟れいびょうに使います」

「霊廟って、あのカクリヨの新しいサービスの?」

 小麦が私の聞きたいことを代弁してくれた。

「現在、篠宮神社の地下に築かれた実験施設で霊廟は稼働しています。そしてそれは意識保存サービスを謳い、本来の目的である稀人に人柱を捧げるという役割を隠している」

 あれだけの事件があったにも関わらずカクリヨが霊廟というサービスを続ける事への疑問点は多かったのだが、私はその話を聞いて納得し、思わず声を漏らした。

「またカクリヨが裏で手を引いてたってワケか……」

「原崎くんにお願いし、私が保管していたカグツチを回収して貰いました。彼と実験施設へ向かい、カグツチをアップロードします」

 凛苑いわく、彼女の身体は今確保されており、実験施設へと幽閉されているのだという。

「あの、そもそも何で凛苑さんの身体はそんなふうになってしまったんですか?」

 小麦がまた私と同じ疑問を聞いてくれる。しかし、凛苑の影は俯いて答えを言い淀んだ様子だった。

「にわかには信じがたい事だが、来栖の身体は別次元と繋がってしまったそうだ」

 要さんが代わりに答えた。

 別次元。小麦から共有された記憶の中にあった単語だ。クルス粒子もそこから現れてきているのだとか何とか。

「……まずは意識が引っ張られ、今はもう身体も半分向こう側にいるようなものです。私はあの粒子に魅せられて、長く向こうを覗き過ぎてしまった」

 クルス粒子という未知の存在の解明に心血を注いだ結果、彼女の肉体と精神は別次元へ囚われていった。それも粒子の作用の一種なのだろうが、それを解明する前に肉体も向こう側へ引っ張られたのだそうだ。

「私はただ、妹と一緒に両親へ別れを言いたかった。妹が立ち直れないのは、死に向き合う準備が出来ないまま死別をしてしまったからです。私と同じ様に」

 クルス粒子には死者の意識と結びつく特性もあり、それによって引き起こされていた現象が、篠宮村の土着信仰の土台になっているのだという。

 未練を残したまま亡くなった死者が残した残留思念は、篠宮の地に蔓延するクルス粒子と結合し、幽霊となって現れる。

 鏑木の御業みわざも千代さんの感応も、更に小麦の記憶を読み取る力も、全てこのクルス粒子が引き起こしたものだった。

「脳波を通じてクルス粒子をコントロールする技術が開発され、リンクスが完成した頃、私はクルス粒子が訪れる先の別次元へ意識を運んでいました」

 それはYOMIヨミがメタバースへ人の意識を運ぶ理屈と同じで、凛苑はそれに成功していたのだという。

 向こう側の空間は粒子以外何もなかったが、クルス粒子が作り出す可能性は無限大だった。

 見たい景色、会いたい人物、何もかもが創造出来たそうだ。まるでそれは、自分が神になったかのような感覚だと。

「しかしある時から急に、忘れがたい感覚を覚えるようになりました。大勢の何かが、こちらへ向かってやってくるような感覚」

 私は再びその言葉を聞き、肌が粟立った。あの言葉だ。

 幽霊を見たと主張してくる依頼者達から聞いた言葉であり、私達も感じたあの形容し難い悍ましい感覚。

「最初の接触はよく覚えています。耳鳴りのような甲高いモスキート音が脳内に響き、頭の中でお前は誰だと問われました。その時、それが彼らのコンタクト方法なのだと気付いた」

「俺が神社で聞いたものと一緒だ」

 要さんが低い声で横槍を入れた。相当嫌そうな声色だった。

「クルス粒子が意思を宿したのだと気付き、私は急いで逃げようとしました。あれがこちらへやってくる前に。でもその時には既に現実には戻れませんでした」

 そうして、別次元の空間に無理やり現実への道を作り出し、紫苑の中へと意識だけ逃げ出したと、そういう事なのだそうだ。

「紫苑ちゃんの記憶が消えてしまったのは、それが原因で……?」

 小麦が聞いた質問に、凛苑は重く頷いた。

 別次元の空間は、この現実の空間のどこにでも存在するという。折り畳まれるように存在し、通常では知覚出来ないが、人間が持つ意識というものだけが半分向こう側へ浸っており、それ故に出来た芸当だったと凛苑は説明した。

 いくら詳しく説明されたところで直感的には信じられないし、科学的な理屈は理解に苦しむ。飲み込むまで時間がかかった。

「人が死ぬと肉体は現世に残り、意識はこの世界から切り離され、未練が無い場合は残留思念を残さずに、向こう側へ行くのです。……天国、あるいはあの世と言ったほうが理解しやすいですね」

 その説明を聞くと確かになんとなく理解しやすい。だが、あの世というものが本当に存在するというのは受け入れ難いのだが、しかしどうやらそれも事実であると飲み込まねばならないようだ。

 そう考えれば全て納得がいく。さやかの呪いが終わっているにも関わらず、人々が幽霊を見たと主張し、私達でさえも見た影たちの説明がつく。

「あなた達も、死者の姿を見ているのでしょう?」

 それを聞いて、小麦も要さんも、頷いたのか俯いたのか分からないように首を下げた。

 私はもう、さっきの七彩との会話もあり、見たと確信出来る。

 きっと七彩も、まだ何か未練があって、意識だけがこの世に残留してしまっているのだ。

 だとしたら、何故? 彼女が留まる理由を探して、私はさっきの七彩との会話を振り返り、ふと思いついた。

 もしかして、私を心配しているとでも言うのか。それならば、こんなところで倒れている場合ではないのではないか。

「……それじゃあ、人柱になった人たちというのは?」

 小麦が小さくそう聞くと、凛苑は俯きながら答えた。

「彼らに未練はありません。自らが信仰を持って死ぬのですからね。その後は、意識がクルス粒子、すなわち稀人へ結びついて……。あとの事は私にも分かりません」

 私はそれを聞き、あの気配の事を思い出した。「何かがこちらへやってくる」あの独特の感覚を。

 あれは、誰か一人がやってくるようなものではない。もっと大勢でもっと大きく、畏怖すら抱くようなものだった。

 思い出すだけで身震いを覚えるような、圧倒的な存在を前にした時に自分がちっぽけに見えるような、そんな感覚。

 凛苑は言葉を濁したが、私には理解出来た。

 きっと人柱の意識は、稀人に飲み込まれるのだろう。

「そろそろ出発する。新堂、畑川、お前たちの役目はもう終わりだ。休んでろ」

 要さんがそう言って、凛苑を連れて出ていってしまった。

 最後に彼女の後ろ姿を見た時、私は妙に納得した。あの白い格好、紫苑が見ていたという幽霊の正体は、凛苑なんじゃないかと。

 紫苑を保護したのが千代だということも、私たちに依頼してきたのも、全てが因果なのだろうか。それとも、それすら彼女は予見していたのだろうか。

 どちらにせよ、私達の役目は要さんの言う通り、ここで終わりだ。もはや最初の依頼内容が何だったかすら有耶無耶になるほど、話が壮大にこじれてきてしまった。

 後のことは、あの二人に任せておけば大丈夫だろう。

「千代さんからの依頼、完了扱いでいいかなぁ」

 要さんたちが去った後しばらくしてから、要さんの残した灰皿に煙草を押し付けてそう呟くと、小麦は明るい声を作って言った。

「いいんじゃないかな。依頼料は前払い分だけだけど」

 それを聞いて、改めて亡くなってしまった千代さんを想う。

 彼はきっと凛苑を通して全ての事情を知っていたのだろう。紫苑の事だけでなく、凛苑を通じてさんかく様や稀人、クルス粒子の事も、全て。

 全て知っていたからこそ、口封じに殺されてしまった。彼と最後に会った時、虹の話に異常な反応を示したのは、それが凛苑と自分の会話の記憶だったと気付いたからなのだろう。

 彼も彼なりに、この事態を自分に出来る範囲でなんとかしようとしていた。彼もまた、人の為に行動出来る人間だったということだ。

「千代さん、凛苑さんの事好きだったのかな」

 小麦の呟きに私も賛同する。

「初恋ってやつか。忘れられないもんでしょ、そういうのは」

「うん……。ねぇ朱音ちゃん、体調は大丈夫?」

 小麦が心配そうな声で聞いてくる。大丈夫だと答えたいが、こんなに近くにいるはずの小麦の姿すらぼやけて見えない。

「……麦ちゃんこそ、怖かっただろうに頑張ったね」

 私の労いに、小麦は嬉しそうにはにかんだ様子の声で「うん」と返事をした。

「やっぱり、神社行こう」

 私が決意を口に出すと、小麦も一拍置いて小さく頷いた。

 このまま私達だけ蚊帳の外というのはどうも寝覚めが悪い。

 紫苑が見ていた凛苑の影に、千代さんも薄々気付いていたのだ。虹の話で凛苑がまだいると確信したに違いない。

 ならば、千代さんの依頼は、きっと凛苑の目的とも一致すると考えられる。

 彼女の目的を後押しすることこそ、この依頼の最後の目標になる。少なくとも、私はそう考えた。

「そうだね。依頼、最後まで完遂しよう」

 小麦も考えていることは同じらしい。その言葉を軽々しく口にするのは恥ずかしかったが、彼女は紛れもなく、私が心から信頼し、共に困難に立ち向かえる相棒と呼べる存在だろう。

 私は小麦の存在が改めて頼もしく感じ、彼女をかつての七彩の立ち位置と重ねる。

「怪我の具合は?」

 小麦のシルエットが、恐る恐る腹部をさするのが見える。

「うん、大丈夫。凛苑さんの応急処置が早かったから、穂香ほのかさんに綺麗に縫ってもらえたよ」

 そうだ、自分が倒れている間、穂香さんに看病してもらっていたことを思い出す。彼女に改めて感謝せねば。

 そう考えた時、ちょうどよく穂香さんが部屋に訪れた。廊下の方からうっすらとシルエットが見える。

「穂香さ……」

 小麦が途中で口をつぐんだ。どうしたのかと様子を見ても、穂香さんはいつも通りまったりとした歩調で歩み寄ってくる。

「新堂さん。私からの依頼も頼めませんか」

「あぁ……勿論。お世話になりましたし、出来る範囲でなら」

 私が感謝の代わりにそう答えると、穂香さんは重い口調で、しかしはっきりとした言葉遣いで言った。

「私を篠宮神社へ連れて行って下さい」

 穂香さんは、理由を話さなかった。小麦も何故か何も言おうとはせず、私はその雰囲気に違和感を覚えながらも、私たちの目的地と同じなので承諾した。

「でも、あたし運転は……」

「わ、私が運転する」

 小麦が慌てたように言う。さっきからどうしたというのだろうか、何かに怯えたような、怖がっているような声色だ。

 まぁ、首無しの落ち武者と対峙して、さらにその記憶の中に潜るという荒業の後では、この具合が普通なのだろうか。それとも、さっきの会話を穂香さんに聞かれたのだろうか。それだとしたらだいぶん気まずい。

 車は千代家のを使っていいらしく、私は小麦に支えられながら立ち上がった。薬が効いたのか煙草の効き目なのか、そのどちらとも効果があったのだろうか、さっきより身体は動きそうだった。

「朱音がそうすると決めたなら、それが正しい事だよ。気をつけてね」

 千代家を出る時、背後からまた七彩の影にそう言われた。振り返ると、七彩の姿がくっきりと私の目に見えた。

 私の決意を後押しするように笑った彼女の姿は、在りし日のそれだった。

 彼女に微笑で返事をし、私は後部座席へ乗り込んだ。

 道中でも微妙な雰囲気で、穂香さんも小麦も無言のままだった。その空気に耐えきれず、私は少し窓を開ける。外は真っ暗で、顔には冷たい粒が張り付く。雪が降っているようだった。

 なんとなく、自分でも煙草を吸ってみようかと穂香さんに許可を取り、ポケットから要さんの煙草を取り出す。

 その時、何の前触れもなく視界が強く歪み、無くなっていたはずの頭痛がまたし始めた。

 しかしいつもと違って頭痛はすぐに治まり、視界には運転席とフロントガラスが映っていた。しかも、何の障害も無い澄み渡る綺麗な映像で。

 ハンドルを握る両手、見覚えのある腕時計をした左手首に視線が誘導される。去年の誕生日に私が小麦にプレゼントしたものだ。

 ということは、これは小麦の左腕だ。視界の左側、助手席には穂香さんが乗っている。

 今見ているものは小麦の視界なのかと困惑したが、何よりそれ以上に、穂香さんのその表情に意識が持っていかれた。

 こんな顔を浮かべる人を初めて見た。俯いていて暗い無表情に見えるのだが、瞳だけが嫌に煌めいて見える。さっきから瞬きの一つもせずに、どこか一点を見つめてカッと見開かれていた。

 思わず背筋が冷えた。幽霊の姿や落ち武者なんかよりも、ずっとずっと恐ろしいものを見たような気がして、思わず瞬きをして目をそらす。その途端に視界は元に戻ってしまった。

 今のが何だったのか考える余裕もなく、私もその後はただ黙って窓の外に紫煙を吐き続けるだけだった。

 しばらく後、神社へ到着した私達が本殿へ続く石段を登っていると、奥の方から人の気配がする。複数人が何かを話し合っており、要さんと凛苑ではないのは分かった。

 小麦に腕を引っ張られ、坂の途中に植えられている榊の裏へ身を隠す。指を立てて唇に当て、ジェスチャーで「静かにしろ」と言われた。

 会話が僅かに聞こえてきて、私は見えないなりに妙に気になり、木陰からその様子を覗く。小麦も続けて顔を出す。その瞬間、身体が金縛りに遭ったように固まってしまった。

 何人かが輪になって話し合っており、その中の一人だけ、誰よりもその姿がハッキリと見える人物が居た。

 服装や顔、表情や仕草に至るまで、周りの人間とはまるで比較にならないくらい鮮明に見える。ただ佇んでいるだけなのに、圧倒的な存在感そのものが輪郭を持っているような、なんにせよ人間を見ている感覚ではなかった。

 ただ見ているだけなのに、何故か本能が警告を促してくる。関わってはいけない、見続けてもいけない、とすら。

 そしてそれが、千代医院に集まった野次馬の中に居た、長身白髪の男だと気がついた。

「鏑木、ひじり

 穂香さんが小さくそう呟き、動けない私たちを差し置いて前に出た。止める間もなく、穂香さんは進んでいく。

 彼女に気付いた様子で、本殿前の数人が彼女の元へやってきて何事か話し始めた。

 さっきよりも小声になった様子で、会話は聞き取れない。

 しかし、何人かが本殿の中へ入っていき、人影は二つだけになった。その瞬間、隣の小麦が小さく悲鳴を上げて再び木陰へ身を隠し、ぶるぶると震え始めた。

 私も後ろへ引っ張られたので、何が起こっているのか分からないが、最後に見えた時に二人はもみ合いのような形になっていたような気がする。

 小麦が腕を握る力が異常に強く、何が何でもここから動かさないといった彼女の意思を感じる。

 しばらく経った後、急に背後から穂香さんの声が響いた。

「二人は行って下さい。原崎さんと凛苑ちゃんも中にいるみたいです」

 穂香さんはそのままその場所へ立ち尽くしていたが、それを聞いた小麦が震えながら私を掴み、そのまま何も言わずに本殿の方へ駆け出した。

 私は慌てて、ポケットのケースから青い薬剤の方をリストバンドへ挿れた。あとは赤い方が一つだけだが、これでいくらか小麦の助け無しに動けるだろう。

 境内の隅、脇の方で誰かが倒れているのは分かったが、それが誰であるかは判別出来なかった。何が起こったのか分からないまま、私は小麦に引っ張られるままに本殿の中へ押し入る。

「こ、殺した……穂香さんが……」

 小麦が震えた声でそう呟いたのが聞こえる。

 反射的に、どうやったのかは分からないが、その時視界が切り替わって明瞭になった。

 視界に飛び込んできたのは、血塗れの制服にナイフが突き立てられ、虫の息になっている駐在、鏑木隼人はやとの姿だった。

 細い腕がそのナイフを抜き取り、それから隼人の身体目掛けて何度も刃を突き立て、それをただ無機質に繰り返す光景だった。

 怒りや憎しみを通り越し、ただ機械的な動作で生命を奪い取るその残酷な光景に、私は思わず拒絶を覚えた。

 穂香さんだ、穂香さんがやっているんだ。この恐ろしい殺人行為を。

 湿ったうがいのような音が混じった声で隼人が何事か呟くが、喋ろうとする隼人の口を顎ごと強く押さえ、穂香さんは最後の一撃を首に突き刺した。

 そこでもう限界だった。拒絶した私の視界は一瞬で切り替わり、元の自分の視界に戻った。

「とにかく、地下に向かわなきゃ」

 精一杯そう絞り出すよう言って、薬が効いてきたのか多少明瞭になってきた景色を見て、絶句した。

 本殿の中には、恐らく御神体であるさんかく様らしきものが鎮座していた。

 それはどこから見ても同じ立体に見える不思議な物体だった。何より、さっきからこの場所であの「何かがこちらへやってくる」感覚が強く感じられる。間違いない。

 が、しかしその感覚がより強くしてくるのは、この謎の物体よりも遙か下の方だった。

 地下施設、話によればそこに凛苑さんの身体がある。「」という、小麦の記憶の中で聞いた凛苑さんの言葉が反響する。

 御神体の後ろ側を調べると、地下に続く落とし扉が開け放たれていた。要さんと凛苑さんは既に向かっているらしい。

 深淵のように暗く見えるその入口に向かって、小麦の手を握りながら一緒に飛び込んだ。

 深い水の中に潜ったような息苦しさに包まれながらも、下に向かって続く階段をただ駆け下り続けた。

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