二章 8.2

 来栖くるす凛苑りおん


 黄昏を背負った雨上がりの夕方、向こうの空に現れた虹に向かって水たまりを飛び越えた。

 小さな私ではあの空に届きそうもない。そして、大人になっても届くことは無いだろうと、私には理解出来ていた。

 虹が何だか遠く見えて悲しくなって、私は背後に声を掛けた。

「虹はね、本当は無いんだよ。お日さまの光が曲がって、色んな色に見えるだけ。その人の目が曲がった光を見てるだけ」

 私の真似をして水たまりを飛び跳ねた正樹まさきくんも、虹を見上げた。

「難しい話だなぁ」

 正樹くんはそう言って、田んぼから出てきたカエルを追いかけた。それを横目で見ながら、私はもう一度虹を振り返って続ける。

「自分だけの虹なのに、触れない」

「じゃあさ、雲は触れるの?」

 カエルに逃げられた彼は、ようやく私と会話をする気になったようだ。

「触れるけど、掴んだりは出来ないよ。冬に息を吐くと白くなるでしょう? それと同じ仕組みなんだって。空気が冷えると雲になるんだよ」

 私が得意げに話すと、正樹くんは興味を持ってきたのか、質問を続けた。

「へー、じゃあ、空は寒いのかぁ」

 私はそれを聞いて思わず破顔した。他の皆は理解してくれなかったのに、正樹くんには私の話が通じることが嬉しかった。

 私は生まれつき高い知能を有しており、周りはそんな私を「ギフテッド」と呼んだ。故に、幼い頃から私は周りとは違うんだということもすぐに気づいてしまった。

 高い知能と尽きない好奇心を満たすために、学校の勉強を飛び越えて難しい専門書をただ読むだけでなく理解したり。

 文字通り天からの贈り物を受けた事実は、同時に、周りの子たちと馴染んで友だちを作る、という子供時代ならではの「当たり前」を私から奪っていった。

 周りに馴染むためにわざと知識レベルを落とすという事も出来たのだが、それはあるがままの私を隠す行為なので、自分自身の否定に繋がって苦しんだ。

 そんな中で、私の話題について来れるのは、クラスで私の次に頭が良かった、千代ちしろ正樹くんだけだった。

「でもさぁ、息はふーって吹いたら触れるよ。じゃあ雲も触れるんじゃないの?」

 私は正樹くんのシンプルだが的を得たような解釈を聞いて、そういう解釈もあるのかと驚いた。私の中の触るというイメージは、絵に描いたような雲を素手で掴むようなものだったからだ。

「……そうだね。もしかしたら、虹もいつか触れる日が来るかもね」

 解釈の違いというものは、時に良い結果を生むのだと、私はこの時学んだ。

 出来ないと思っていたことが、視点を変えてみたら出来るようになる。無理だと思っていたことも、やり方を変えたら可能性が見えてくる。

 科学の世界に足を踏み入れた時、そんな発想の転換が思いも寄らないひらめきを与えると知った。

 大雨による土砂災害をきっかけにダムが決壊し、氾濫した河川の激流に影響されて起きた土砂崩れによって、私の育った家は両親もろとも消え去った。ただ一人の妹、紫苑しおんを残して。

 深い悲しみに襲われた私達姉妹だったが、それでも私は生まれつきの合理的な考えしか持てなかった。妹からすれば、冷酷な姉に見えただろう。

 悲しんでいなかったわけではない。ただ、いつまでも両親の死を引きずり、前に進む事が出来ないのは生産的ではない。

 両親の代わりに、これから妹を守るのは私の役目なのだ、使命なのだと強く決意したから、前に進まなければならなかった。悲しんでいる余裕は無かった。

 だから私は塞ぎ込む妹を残して、飛び級で学校を卒業し、博士号を取得した。この時ほど自分が高い知能を持って生まれた事実に感謝した事はない。

 私はその後カクリヨへ入社し、素粒子物理学の研究に心血を注いだ。

 私が生まれ育った篠宮しのみや村には、昔から存在する土着の信仰が未だ根付いており、科学が支配した世界の中でも迷信や風習が色濃く残った珍しい地域だった。

 葬列のしきたりは特に強く残り、亡くなった人が出た場合、現代でも必ず執り行われる。故人の家を訪れ、最後のお別れをするというものだ。

 初めて葬列に出る時まで、私は村の風習をどこか冷めた目で見ていた。賢いがゆえに、それが大切な人の死と向き合うための、遺族の心の防衛方法だと分かっていたからだ。

 神秘など存在しないと知っているが、それでも尚村人たちがこの儀式にこだわり続ける理由が知りたかった。

 そして、私は確かにこの目で見た。祖父母の家で執り行われた両親の葬列の時、お父さんとお母さんが玄関先に現れたのを。

 そして私に「紫苑しおんを任せた」と言ったのも確かに聞いた。ついでに正樹くんが「オジサン痩せたね」と言っていたのも聞き逃さなかった。

 思い返せばその時から私の道は決まったのだ。信じがたいこのオカルト的現象を、科学的に解明する。

 そうすれば、塞ぎ込む妹に両親を会わせることが叶うんじゃないか。それが私の原動力の全てだった。

 私は篠宮の民俗学を学び、徹底的に調査した。

 篠宮神社を管理するのは祖父母のいる箱守はこもり家だったので簡単に調査を行うことが出来たし、村の人々は御三家である箱守の分家、来栖の人間である私には親切だったので、伝承や口伝を聞いて回る事も苦ではなかった。

 鏑木かぶらぎの御業についてだけは詳しく聞くことは叶わなかったが、それでも他の情報があれば充分だった。

 初めて篠宮神社の本殿に入った時、形容しがたい悪寒と寒気が走った事は鮮明に覚えている。

 奥に厳重に祀られた「さんかく様」は、まるで立体錯視のようにどの方向からでも同じ立体にしか見えない、不思議な物体だった。

 この村に伝わる不思議な現象は、全てこのさんかく様が起源だと私は考えていたのだが、しかし、何をどう調べようと成果に繋がりそうなものは見つけることが出来なかった。

「りっちゃん……りっちゃんか!? 遥かぶりだなぁ」

 正樹くんに再会したのは、そうやって研究が上手く行かず、煮詰まってた時だった。

「正樹くん、医院継いだんだね。おめでとう」

「まぁ他にやりてぇ事もねぇしな……。りっちゃんはこっちに帰ってきたんか?」

 篠宮神社の境内、他には誰も居ない静かな空間で、聞こえるのは二人の会話と風の音だけ。紅葉に染まるイチョウが風に乗って舞う、綺麗な昼下がりだった。

「うん。しばらくこっちにいるつもりだよ。仕事だけどね」

「なんだい、方言なんか全部抜けよる。こんな田舎忘れちまったかと思ったに?」

 私は、口調も性格も昔から変わらない正樹くんが、なんだかまだ子供の姿に見えて、つい笑った。

「ふふ、正樹くんはいつも方言で喋りっからかすもんで、もうちっと標準語勉強した方がいいなぁ」

 二人でそうやってしばらく笑い合った後、私の両親の話になった。

「葬列のあん時ゃたまげたなぁ。俺未だに覚えとるわ、りっちゃんの親父さんがおったもんでよ」

「……そうだね、私にも見えたよ。お父さんもお母さんも、二人とも居た」

 二人の顔を思い浮かべていたら、今まで抑えていた気持ちが溢れてくる。

 私が両親の分までしっかりしなくちゃ。妹を支えてあげなきゃ。今までずっと背負っていたものが、初めて重荷になっていたんだと気付いた。

「会いたいよ……。お父さん、お母さん」

 妹のためという理由を原動力にしていた私が、本当は自分も両親に会いたかったのだと認めた瞬間、感情がとめどなく溢れ、堰を切ったように涙を流してしまった。

 父と母、妹も含めて共に過ごした家族の思い出が浮かんでは消え、私は膝を抱えて、涙を隠すようにうずくまった。

 しかしもう、その願いも叶えられそうにない。妹との約束も守れず、何も得るものがないまま、喪失感を抱えたまま諦めなければならないのだ。そう思うと、溢れた涙はいつまでも止まらなかった。

 気丈に振る舞い、頼れる姉を演出することももう疲れてしまった。何もかも忘れて、妹とただ静かに暮らそう。喪った痛みは胸に仕舞い込んで、それでも前を向いて歩かなければならないのだから。

 正樹くんは、何も言わずにただ背中をさすってくれていた。

 次に風が吹いた時、イチョウの葉に隠れた鳥居の向こう、涙で滲む景色の中で、石段の先に誰かが立っているのが見えた。

 雲のようなものが波打った表面が形を成し、お父さんとお母さんの顔に見えた。しかし、次に波打った時、それはすぐに霧散して見えなくなってしまった。

 秋の風に溶けるその小さな粒たちは、まるで雪の結晶に見えた。

 しばらく今見たものについて思考を巡らすが、上手く考えがまとまらない。

「見たかい、今の……?」

 正樹くんが目を剥いて固まっている。今のが見えたのか改めて聞くと、彼はゆっくり頷いた。

「そうか……。虹だ」

 私は唐突にそれをひらめいた。虹は空気中の無数の水滴、水の粒子に太陽光が反射屈折して目に届く現象だ。それに似ていないだろうか。

 霧のように見えたあの物体、あれは、ではないか?

 届かなかった空の虹や雲が、触れる事の出来る距離にまで現れたような感覚だった。

 その日、正樹くんと共に見た両親の姿をきっかけに、私は篠宮のオカルト的現象に対して仮説を立て、立証し、正樹くんと協力してその現象の再現に成功した。

 それは、ある粒子が巻き起こす現象で間違いなく、さらにある程度人為的にコントロールが出来るものでもあった。

 これを用いた技術を確立させれば、妹の願いも叶えることが出来る。約束を守ることが出来るのだ。

 一筋の希望は意外にも身近なところにあった。篠宮の不思議な伝承の数々は全て、この粒子によって起こされたものだったのだ。

 私はこれをカクリヨに持ち帰り、と名をつけてもらい、さらに研究を続けていった。

 信じがたいことだったが、クルス粒子は、私達が生きるこの次元には存在しない。全く別の世界、別の空間から訪れたものだった。

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