二章 8.1

 箱守はこもり紫苑しおん


 鎧の化け物から逃げ出してからというもの、小麦こむぎさんはずっと青い顔を浮かべ、上の空で何かを考えていた。

 私も未だに震えが止まらないのだが、しかし同時にその時の記憶がぼんやりとしている。

 まだ思い出せない事も多いし、これも記憶喪失の弊害の一つだろうと自分を納得させるが、やはりもどかしい思いが残る。

 記憶がぼんやりする、というよりか、あの大雨のビジョンを見たときと似た感覚というのが正しいかも知れない。

 私が私ではない、また別の誰かの目線から私を見ている。その表現が一番しっくりする。

 だけど、小麦さんが取り戻してくれた記憶のお陰で、私は箱守紫苑だとはっきり自覚出来ている。自分の好きなものや嫌いなものも今では分かるし、アイデンティティは確立されている。

 でも時々そうやって、自分の意識が自分から離れていく事も感じる。何故だろう。

 まるで、もう一人の誰かが私の中にいるような──。

「ねぇ、ダムってあれじゃない?」

 小麦さんが前方を指差してそう聞いてきた。大きな川沿いを走る景色のその向こうに、そびえ立つ巨大なコンクリートの壁が見えてくる。

 初めて見るような、それでいて知っているような、奇妙な既視感に似た感覚を覚える。

「そう……だと思います」

 そう答えて、ダムに向けていた目線を横に向け、川沿いに向かって一段降りた場所に建つ数軒の家屋を見ていた時、この道に見覚えがあることに気がついた。

「小麦さん、停めて下さい」

 車から降りて私は道を歩く。

 朝は晴れていたが、今では空を曇天が覆い、雪が降りそうな匂いがしていた。

 ダムへ向かって伸びる坂道、そこから川沿いに向かって一段降りた位置にある家屋。それは、あの大雨のビジョンで流されていった家屋を見つめていた、あの道によく似ている。

 しかし、記憶の中に残る場所には家も何も無い。ただ埋め立てられた更地があるだけだった。

 それもそのはず、あの記憶が正しいものならば、ここにあった家は濁流に飲み込まれてしまっているはずなのだ。

 だがそれならば、記憶の中の私は何故あんなに泣いていたのだろう。

 箱守の家屋を思い返してみると、私が生まれてからずっと育った家にしては、環境が新しすぎるような気がする。

 建て替えたといえばそれまでだが、まだ思い出せていないだけで、私はここに住んでいたということも考えられる。この道に感じる懐かしい思いがそう告げているような気がする。

「もしかして、心当たりがあるの?」

 小麦さんも車から降りてきて聞いてきた。私は頷くと、小麦さんも周りを見渡していく。

 川沿いとは反対側に、村の中では比較的新しめの家屋を見つけ、小麦さんはそちらの方へ歩いていく。

 私はしばらくこの道とダムとを見比べていたが、その時、この道から見上げるダムの景色にやっぱり既視感がある。

 小麦さんに報告しようと彼女の方へ寄ると、家の前の表札を見上げて聞いてきた。

「ねぇ、これ珍しい苗字じゃない? なんて読むのかな」

 そこに書かれていた名前を口に出して読んだ瞬間、今までにないほど懐かしい気持ちが溢れ、なんだか意識が遠くなっていった。こっちに手を伸ばす小麦さんとの距離も遠くなっていくような錯覚を覚え、そのうち目の前が真っ暗になった。


「お前たちは先に外へ出ていなさい!」

 普段は温厚なお父さんの大声に、私は萎縮して固まってしまった。誰かから引っ張られて、家の玄関から外へ無理やり出された。

 避難用物資の沢山詰まった大きなリュックを私に渡すと、お父さんはまた家の中に戻っていってしまった。

 普段見たことがないくらいに怖い表情で家の中を右往左往するお父さんとお母さんが、なんだか違う人のように思える。

 さっきから響くサイレンが怖くて、私は渡されたリュックを地面において耳を塞いだ。あれが鳴るたびに、まるで怪物の鳴き声みたいに感じて、不安を募らせる。大きなものが何もかもをまとめて攫っていく想像をして、私は遂に怖くて涙を流した。

 身体に打ち付ける雨が冷たくて、それがどんどん激しくなっていって、不安と一緒に私に振ってくるのが嫌だった。

「大丈夫だよ」

 誰かが後ろから声を掛けて、私の肩を抱いた。

「お姉ちゃんがついてるから。おじいちゃんとおばあちゃんの家に行こう」

 お姉ちゃんにそう励まされてリュックを背負わされる。

 川みたいになっている家の前の坂道を登って道路に出た時、立っていられないほどの強い揺れと、轟音が響いた。

 振り返ろうとした私をお姉ちゃんが抱き寄せて走る。途中で転んだのか、何かに激しくぶつかって転がって、次に目を開けた時、お父さんもお母さんもいなかった。

 家があったところは全部が川と一緒になって、ただ暴れる茶色の渦があるだけだった。

 私はお姉ちゃんのいる背後を見上げた。

 奥の方の崖が崩れて、私にはそれが本当に大きな怪物が噛みちぎったように見えて、また恐怖した。

 誰かの叫び声が聞こえてくる。お父さんとお母さんはどこ?

 私はパニックになって、その場で泥だらけのまま号泣してしまった。

 真っ青になったお姉ちゃんに強く手を引かれて、私は半ば無理やりその道を走らされた。

 凄く長い時間走り続けて、雨のカーテンの遠くにおじいちゃんとおばあちゃんの姿が見えてきた時、私は現実に戻った。

 戻った時、身体のあちこちが傷んでいるように思え、思わずその場にへたり込んでしまった。

 小麦さんが駆け寄って私の肩を抱いた。その姿が、姉と重なる。そうだ、思い出した。

「私、あの大雨の日の災害で、両親を亡くしたんです」

 小麦さんを見上げると、小麦さんも目に涙を浮かべていた。きっと今の光景は彼女にも見えていたのだろうと察する。

「お姉ちゃんが助けてくれて、わたしたちだけは助かったんです」

 何もかも思い出した。

 両親を亡くして打ちひしがれる私を、お姉ちゃんは助けたがっていた。自分だって辛いだろうにいつも私を励ましてくれて、でも私は自分の殻に閉じこもるだけ。

 いつしかお姉ちゃんとは気持ちがすれ違っていってしまって、離れて暮らすようになって余計にそれが加速して。時間が経つにつれお父さんとお母さんに会いたい気持ちが募るばっかりで、でもそれは決して叶わないことが悔しくて、切なくて。

 知らない間に新しい家を建てて、お姉ちゃんはそこで住むようになったけど、私は辛くてその家に住むことが出来なかった。

 お姉ちゃんがある日突然訪れて、詳細は何も話さずにただ、両親に会う方法を見つけると言って、「必ず戻ってくるから」と約束し、それ以降私の前に現れなくなった。

 それからかなり時間が経って、お姉ちゃんが行方不明になったと聞いた時、私は凄く後悔した。

 お姉ちゃんはずっと私の為に行動してくれていたのに。ずっと私を想ってくれていたはずなのに。

 いつまで経っても殻に閉じこもるだけの私に呆れて、去ってしまったんだ。約束したのに。

 大切な人がみんな、私から離れて消えていく。

 そんな経験をするのが嫌になった私は、心を完全に閉ざした。もうこれ以上失わないために、誰とも関わることをしないと決めて、大好きな音楽だけに包まれて過ごすようになった。


「じゃあこの名字は……」

 小麦さんが表札をもう一度眺める。

箱守はこもりは祖父母の名前。両親の姓は、来栖くるすなんです」

 私はその名前を頭の中で反芻した。来栖紫苑、それが私の本当の名前だった。

凛苑りおんお姉ちゃん……ごめんなさい」

 私はお姉ちゃんの名前を呟き、涙を流した。小麦さんも涙し、ただ私をそのまま抱きしめてくれた。

 その時、誰かに引っ張られた感覚で私は後ろに倒れ込んでしまった。起き上がると、そこには凛苑お姉ちゃんが立っていた。

「約束、守りに来たよ。紫苑」

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