二章 7

 原崎はらざきかなめ


「ひとまず出血は治まったようです」

 千代ちしろの妻が元看護師というのは幸運だった。医学知識のある者の助けがなければ、新堂しんどうの容態はもっと酷くなる一方だっただろう。しかし、今新堂を襲っている症状の原因が何であるのかは特定出来ないようだった。

 だが、ただの風邪ではないのは確かだ。素人目に見ても異常なほど憔悴している。今は意識を保っているが、それでもその苦悶の表情から今の状態を察することが出来る。

 これ以上彼女を連れて歩くのは危険かもしれない。

「すまないな、助かった」

「いえ……」

 俺はそのまま裏口に向かい、北澤きたざわとかいう女の居た場所を探ると、ガソリンの携行缶らしきものが落ちているのを見つけた。

 千代邸の倉庫は、監視カメラの映像から推測すると、この裏口からは反対側の方だ。千代家のものではないだろう。ならばこれはあの女が持ってきたのか。

 人の家にガソリンなどを持ってくる理由を思い浮かべるが、どう考えても妥当な理由が無い。

 ──、という行為意外には。

 確保した携行缶を千代の妻に見せても、やはり心当たりはないそうだった。

 その時、玄関のインターホンが来客を告げた。

「夜分遅くに悪いですね、この度はお悔やみを……おや。弔問客ですか」

 帽子を外して千代の妻にお辞儀をしているのは、警察官の制服を着た男だった。

 俺はこいつに見覚えがある。千代の遺体が発見された時、現場に居た駐在だ。

 千代の妻が自分の友人だと取り繕うと、男は怪訝そうな表情を浮かべ、軽蔑の眼差しを俺に向ける。

「だいぶん外部のもんと知り合いが多いですね」

隼人はやとくんとは違って、元々外から来た身ですので」

 千代の妻が目線を落としたまま暗い声で答える。

 そのやり取りを横目で見ながら、俺は隼人と呼ばれた駐在の男の足元に目線をやった。ここまでの道のりは多少雪深い。道路の上こそ積雪は溶けているが、少し道を外れると雪を踏んでしまう。

 エンジン音のようなものが聞こえなかったところを鑑みるに、恐らく自転車か歩きできているのだろう、隼人という男の足元は雪を踏んだせいで多少濡れていた。

 あの時と同じだ。千代医院でこいつを見た時も、足元が濡れていたことを思い出す。

ひじりくんにでも言われて様子見に来たんですか」

 千代の妻が目を合わせないままそう質問する。感情の籠もっていない、淡々とした口調ではあったが、どこか棘を感じるような不穏な物言いに聞こえる。

 隼人がそれを聞いて顔色を変えたのも、場の雰囲気が変化するよう感じた要因の一つだった。

「……やな言い方せんで欲しいですね。聖はただの従兄弟で、命令されてるわけじゃない。俺らはあんたや北澤と違って昔から村のもんだで、構えられるのは慣れとるけども」

 そう言うと、隼人は深い溜め息を吐いて続ける。

「葬列は終わったし、ただお悔やみを言いに来ただけだもんで、それじゃ俺はこれで」

 そうぶっきらぼうに言って、隼人はそそくさと帰っていった。

 玄関でまだ俯き続ける千代の妻に、俺は言おうか言わまいか悩んだが、知らないよりはいいのかもしれないと思い、打ち明けることにした。

「奥さん、医院で旦那が殺された時、俺も遠くでその様子を見てたんだ」

 ぴくりと反応し、目を剥いてこちらを見つめてくる彼女に、俺はあの時見たものを説明した。

 足元の濡れた村人たち、そして今の隼人という男の足元も濡れていたという事を。

 話を聞き終わった彼女は、「やっぱりそうなんだ」とだけ呟いて、固まったまま拳を固く握り締めていた。

「新堂さんの処置は出来ることはしましたので、私は少し一人に……」

 そう言って彼女はくたびれた背中を見せたまま、寝室のある二階へと上がっていった。

 俺は小型のホロプロジェクターを取り出し、新堂から共有された篠宮村の地図を表示する。

 リンクスを使ってネットへ潜り、地方法務局のデータから篠宮村の公図を拝借し、新堂の地図と照らし合わせた。

 すると、村の西側、渓谷沿いの家屋の一つに「来栖くるす」の文字を見つけた。奴の行方の手がかりがあるかもしれない。向かってみるしか無いだろう。俺は車に乗り込んで、村の西側の方へ向かった。


 道中、夜だと言うのにやけに人通りが多いことが妙に気になった。

 新堂の話では、篠宮しのみやでは昼間ですら村人に会うことは無かったと聞いたが、今は道一つ曲がれば一人や二人歩く人間が居るほどだ。

 何か違和感を感じながらも、車が山道に差し掛かった時、けたたましい警告音が響く。

 何事かと驚いて急ブレーキをかけると、車のナビ画面に衝突警告と、夥しい数の人のシルエットアイコンが表示されている。

 それは歩行者との衝突を警告する機能だったが、明らかに状況がおかしい。目の前には誰一人いないというのに。

 嫌な予感を感じつつ、車のセンサー部を確認しに俺は外へ出て煙草に火を点けた。

 ライターの火に照らされて、一瞬俺の真横に人の顔が浮かんだ気がした。驚いてそちらを振り返ると、霧状の何かが宙に浮いている。

 それの表面が波打って人の顔のようなものを形作っていったが、煙草の紫煙がそれに触れた時、霧は霧散して空気に溶けていった。

 何が起きたのか考えている合間に、得体の知れない悪寒が背筋を走り抜ける。車の後方から、何かがやってくる気配がする。

 センサー部に何も異常が無い事を確認して車に戻ると、助手席から声を掛けられた。

「煙草、気付いてるんでしょ」

 助手席には、沙也加さやかが乗っていた。生前の、俺の記憶の中にある姿そのままで。

 目を剥いて固まっていると、後方の気配が濃くなった気がした。全身に虫が這い回っているような嫌な感覚だ。思わず背後を振り返ると、車のテールランプの光が暗闇の道路に何かを映し出した。

 もぞもぞと芋虫のように地面を這っているそれに、人間の両手らしきものが生えたのを見た瞬間、本能が逃げろと警告を発した。

 逃げなくては。あれに追いつかれたらマズイ。

 しかし、身体が硬直して咄嗟に動かせない。駄目だ、駄目だ、判断が遅い。そう思っているうちに、這いずる物体の手の先に何か長いものが現れ、鈍く光を発したのが見えた。

「煙草を捨てて」

 沙也加のその声にもう一度助手席を見ても、誰も居なかった。もう何が何だか分からないまま、俺はとにかく火が点いたままの煙草を窓から投げ捨て、アクセルを踏み込んだ。

 後方の影はどんどん遠ざかっていき、途中でぴたりと止まった。

 道中、今のは何だったのかと何度も思案するが、納得の行く答えは出ない。

 幽霊、という単語以外は。

 以前見た千代の姿もそうだが、それ以外に納得の行く解釈が出来ない。

 もしかして、千代邸を出てから見かけた人間も全て、そうなのか──?

 嫌な想像をしてまた鳥肌が立ったが、それから来栖の家に着くまで、這いずる物体も人間の姿も二度と見えなかった。


「原崎くんには、もう一度会いたいって思う人いる?」

 昔、大学の講義をサボって近所のコーヒーショップで時間を潰していた時、天城あまぎ沙也加からそう聞かれたことがあった。

「死んだ婆ちゃんに会いたいかもな。あの味噌汁の味を再現したいから、レシピを教えて欲しい」

「へー、意外。おばあちゃんっ子なんだ」

 俺達の会話に割り込むように、高村たかむら賢人けんとが口を開いた。

「俺も何人も居るよ」

 その言葉に一瞬、場は静まり返った。賢人は両親を最近亡くしたばかりだ。病死した父親と、それを追って死を選んでしまった母親。

「あぁごめん、不幸自慢とかじゃあないんだ。ただ、近しい人の死を受け入れるって、結構難しいことだと思うんだ」

 沙也加がそれを聞いて、神妙な顔で言った。

「亡くなった人に、いつでも会って話せたら良いのにね」

 その一言が、全ての始まりだった。

 その頃、人間の意識を擬似的に模倣させるAI技術で有名だったカクリヨ社へ入社し、俺達はメタバースとAI、そして人間の意識の研究を行ってきた。

 沙也加は、ニューロン解析技術の研究者だった両親の研究を引き継ぎ、そして困難な日々の末、来栖の発見した粒子によって、人間の意識をメタバースへ送り、死者の意識を電子的に保存が可能なYOMIヨミが生まれた。

 死者の意識を黄泉人よみびととしてメタバース、仮想空間上にコピーし、遺族たちがいつでも会いに行くことが出来るもの。それは沙也加の理想そのものだった。

 沙也加は一番の功労者だとして、粒子を発見した来栖を何度も研究チームに誘ったが、彼女はついに合流することはなかった。

「ニセモノの世界には興味が無い」と言っていたのが印象的で、来栖はその後、クルス粒子とそう名付けた粒子の研究をし続けた。

 それからいざプロジェクト完了という時、沙也加は倫理問題を指摘され、異常なほどの誹謗中傷を受け、ついに精神を病んで自ら命を断ってしまった。

 今考えれば、もう実装間近のタイミングであれほど異常な誹謗中傷が集まったのも奇妙だし、その後YOMIの権利がカクリヨに移動しているのも手伝い、俺はカクリヨへの信頼を失っていった。後に責任者として選ばれたのは俺だったが、気分は魂の無い傀儡くぐつそのものだった。

 賢人は早い段階で会社を見限り、復讐を計画していた。無理もない。恋仲だった人物をああも凄惨な失い方をしたら、誰だってそうなる。

 一歩間違えば、賢人の道を歩んでいたのは俺だったのかも知れない。賢人が沙也加に抱く気持ちを知っていたから、俺は気持ちを押し殺した。それでも、沙也加への批判は堪えるものだった。

 結果的に賢人は、全ての黄泉人よみびとを消滅させるカグツチというウイルスをシステムに放ち、大事件を起こしてしまった。

 他人事では無かったし、俺は責任者として事態の収束を命じられたが、事件の真相を知り、全てを終わらせたらカクリヨを告発しようと心に決めた。

 新堂や加賀美かがみたちの協力もあって、俺が作り出したワクチンプログラムでカグツチは消滅し、YOMIは終焉を迎えた。

 その時やっと俺は目的を果たせたと、死後も幽霊だ何だと恐れられ、冒涜され続けた沙也加を開放出来たと、そう思った。

 たった今、彼女の幽霊らしきものを見るまでは。

 もし、死者の意識が現世に留まるというオカルト話が本当ならば、彼女は未だに、現世に囚われたままなのではないか。

 そう考えて俺は、やるせない気持ちを煙草の煙とともに窓の外に吐き出し続けた。


 来栖の家は、寂れた外観から見るにもう長い事誰も住んでいないのが分かった。家屋自体は新しいもののようだが、手入れがされていないためかやたらと古く見える。

 さっき見た這いずる物体の残像が消えないまま、俺は家の横に停めた車から恐る恐る降りた。追いかけてくる気配は今のところ無い。

 電力が何故かまだ残っているらしく、玄関に予備バッテリー稼働の電子錠が掛けられていたが、遠隔でハッキングして解錠した。

 家の内部は酷く荒らされていた。誰かが土足で入り込んだ形跡もあるし、棚や収納はその全てが乱雑に開けられ、中身がばら撒かれており、まるで強盗に入られたような有り様だった。

 玄関脇にあるブレーカーを上げると、廊下の奥にある部屋から明かりが漏れた。コンピューターが自動で立ち上がっている。

 その部屋の荒らされようが一番ひどく、書類、本、クローゼットの何もかもが徹底的に引っ張り出されていた。

 俺は起動したコンピューターの画面を眺める。内部へログインをしようとハッキングを試みる。が、かなり強固で複雑なプロテクトが掛けられていた。

 多少時間はかかるが、俺のハッキングシステムなら解除は問題なく出来そうだ。解除を待つ間、吸いそこねた煙草に火を点ける。

 煙を肺いっぱいに吸い込むと、頭が明瞭になっていく。紫煙を眺め、さっきの沙也加の声を頭の中で反芻する。

 以前ここへ来た時に見た、千代の幽霊らしきもの、その後のつむじ風のようなもの、つまり怪異と呼べるものたちとの遭遇の後。

 そして今回も同じ。煙草に火を点けた時、それらの脅威が急に終わる。あの這いずる物体も追いかけてこなかった。

 そして沙也加のあの言葉。

 原理は不明だし、自分でも突拍子も無い推理だと思う。バカバカしいとすら思える。

 だが、この幽霊や怪異たちは、煙草の煙を拒絶する傾向があるのではないか。そう思えてならないのだ。

 昨夜、加賀美に無理を言って作らせたものが役立つかも知れない。

 と、その時、コンピューターのハッキングが終了した。画面上には、不自然に配置された一つのプログラムが表示されている。

 訝しみながらも、それを起動してみると、何かを書き出すテキストエディタが起動し、触れても居ないのに勝手に文章が書かれていく。ファイルを起動すると、予め決められた文章を出力する仕組みのようだ。

 出来上がった短い一文を読み、俺は思わず心臓が跳ね上がった。

「原崎君へ 篠宮神社の地下で待ってます 来栖」

 ロックの強固さからそうではないかと予想していたが、やはりこれは来栖のコンピューターだった。

 俺が来ることを予想していたのか──いや、俺が来るように仕向けたのだ。

 テキストエディタは閉じられ、その代わり今度は別のファイルが生成されていく。

 何かのプログラムが一つと、また別のテキストファイル。テキストのタイトルは「先に読め」だった。

 指示に従ってやると、再び文章が表示される。今度はかなり長い。

 虫の声すら聞こえない静寂の夜の中、俺はそれら全てに目を通した。


 来栖家から出た俺は、辺りに充満する血の臭いにすぐ気がついた。と同時に、さっきの芋虫のような物体に追いかけられた時の感覚が蘇ってくる。

 すぐに煙草に火を点けようとした瞬間、目と鼻の先で閃光が走り抜けた。

 咥えていた煙草が真っ二つに切り裂かれ、さっきも見たあの波打つ霧の中から、とんでもないものが現れた。

 血まみれの首なし武者のような奴で、振り下ろした刀のようなものが薄っすらと月光を反射している。

 右腕前腕が焼けたように熱くなったのを確認すると、破れた服の間から一本の線が腕に現れている。見る見るうちに血が滲み、斬撃を受けたのだと分かる。

 どういうことだ、物理的に危害を加えられたのか? 幽霊というものはあくまでそういう干渉はしてこないのではないのか?

 考える間に、次の一太刀を繰り出そうと武者は両手で刀を構えている。左脇に落とした刃をこちらへ向け、切り上げてくるつもりだと分かる。俺は咄嗟に刀と反対方向へ腰を落として飛び込んだ。案の定、奴は予想通りの軌道で刀を振り、空を切っただけだった。

 俺はそのままの勢いで突進するように奴の脇をすり抜けて車に飛び乗ったが、ドアを閉めた瞬間、窓ガラスを突き破って目の前を刀が通っていった。ガラスの破片が散らばる中、刺突は目の前を空振ったが、刃はこちらを向いていた。

 刹那、強烈に死を意識する。目の前にある刃が真っ直ぐこちらへ向かってきたら終わりだ。上体を助手席側へ倒すと、間一髪のところで刀がやはりシートを切りつけた。

 俺は上着のポケットから小さなシガレットケースを必死に取り出す。

 中を開いているうちに、奴はしびれを切らしたのか、やたらめったら車内に向かって刀を振りまくっていた。

 その勢いで数カ所が切りつけられてしまったのが分かるが、それを回避するよりもこっちの方を優先すべきだ。俺はケースの中身を乱暴に取り出す。

 煙草と似たような形のものだが、中身は違う。その一本の先端を、ケースの背に思いっきり擦り付ける。

 もの凄い勢いで先端に火が灯り、激しく煙が噴出する。嗅ぎ慣れた臭いが辺りを包んでいく。そして、奴の方目掛けて思い切り放り投げた。

 煙は瞬く間に充満していき、武者の姿を包み込む。本格的に一帯が煙に包まれていくと、車内を暴れていた刀も、奴の姿も、煙に揉まれるようにして消えていった。

 信じられない、本当に効果があった。

 俺は妙な興奮を覚え、そのままエンジンを始動してさっさとそこから去った。

 割れたガラスの破片を払い除けながら、さすがに新堂に恨まれるだろうなと覚悟したが、今は一刻も早くここから離れる事を考えるようにした。

 帰りの道中、俺は煙草にしっかり火を点け、さっき見た来栖のメモを思い出していた。

 目を通してすぐ目に入った一つの単語は、俺にとって、いや、多くの人にとって忌まわしきものだった。

 かつての同僚、高村賢人によって作り出された、黄泉人を消滅させ、天城沙也加の姿を模倣して人の意識に侵食する、呪い事件の全ての元凶。

「カグツチウイルス……」

 そして、それに続いて書かれていたのは、クルス粒子の真実だった。

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