二章 6
「朱音は、もっと自己肯定感ってやつを高めた方が良いと思う」
いつの事か忘れてしまったが、
私は自己肯定感という言葉の意味をあまり理解出来ず、ぽかんとしてしまっていた。
「どういうこと?」
私が意味を尋ねると、七彩は得意げな顔をして続けた。
「自分を認めてあげるってことだよ。朱音はいつも言うでしょ? 『あたしには出来ない』みたいな事ばっかり」
そう言われてみて思い返してみると、確かに私はいつも似たような言葉を口にしていた気がする。
「……失敗するのが、怖い?」
その七彩の言葉がまさに図星で、私はどきりとする。
何か行動を起こそうとしても、私は常に失敗を恐れてしまう。ならば最初からやらなければいい。
これといってやりたい事も目標も無く、ただ漠然と生きてきてしまったのは、根底にそういう意識があるからだったのかもしれない。
「そうなのかも」
私が俯いて答えると、七彩は言った。
「怖いと思うのは、物事の全体を俯瞰してちゃんと見れてる証拠。危機察知能力だよ。出来ないと思うことは弱さじゃない」
私はその言葉に、目が覚めたような気がした。
「それにさ、失敗したっていいじゃん。完璧じゃなくて良いんだよ。大事なのは行動に移すこと。意志の強さだよ」
確かに、二人でこれまでやってきた探偵活動は、失敗も多かった。尾行がバレたり、情報を聞き出す時に言葉選びを間違えて相手を怒らせたり。
でもその度に、次にどうするべきかを考えてリカバリーもしてきた。そして結果的に解決に導いた事件も多々あった。
七彩は正しい。失敗したっていい。怖くて当たり前だ。そう思う事が悪いのではなく、失敗せず完璧でなければならない、という固定観念が悪いのだ。
その時、七彩のおかげで私は、初めて自分を少しだけ認めることが出来たかもしれない。
車が道の窪みのせいで揺れた時、私は目を覚ました。香ってくる煙草の煙が心地良いのだが、それにしたって多過ぎる煙の量に私は思わず咳き込んだ。
「起きたか」
運転席に座る
「……普通、人の車で吸います?」
そう言って窓を開けて煙を逃がした私の言葉には返事をせず、要さんは灰皿へ煙草を落とした。どことなく不服そうな表情をした気がする。
車は既に山間部へ差し掛かり、
意識がまどろみから帰ってくると同時に、私は身体の重さと頭痛に襲われていた。
思わず頭を押さえると、右腕に付けられた見慣れないリストバンドのようなものが目に入る。それで思い出した。
小さなケースをポケットから取り出して中身を開けると、そこには液体が入った小さなカプセルが収納されている。
これは、
リストバンドは手首から体内へ繋げられ、薬剤をセットすると自動で投与してくれる仕組みだ。注射器の発展型みたいなものだ。
『青いほうが定期、赤い方は緊急だ。赤は効きが数倍違ぇけど、その分副作用が激しいから気をつけろよ』
加賀美さんの言葉を思い出し、私は青い方をバンドに装着する。
中身は詳しく知らないが、鎮痛剤だとか止血作用の成分だとか、アドレナリンの一種がどうとか言っていたような気がする。とにかく、身体が動くようになればそれで良い。
ミラーズワークショップは医療機器や義肢のデバイスも扱うことがあるため、病院と提携している。そのため、伝手を辿ればこのようなものも調達出来るそうだ。加賀美さん本人が言うには医療は専門外だと言っていたが、それでも多少の知識はあるようだった。
「着いたぞ。
要さんが車を停めると、降りようとした私を制して何か渡してきた。
それは、私のリンクスだった。差し出されて初めて、装着していなかったことに気付く。
「遠隔通信プログラムを弄っておいた。常に俺のリンクスと繋がっているから、情報の共有が即座に行える」
それは、私が
これを使えば、電子的なロックやローカルネットで接続されているIOT機器などへ「考えただけで」侵入する事が出来る優れものだ。ただ、当然違法なので使う機会は少ない。
それにしたって、強固なセキュリティで守っていたはずなのに……。要さんを敵に回すことだけは考えたくなかった。
しかしそれより、情報を共有すると言うことは常に五感が筒抜けということではないか。私はそれがどうなるか想像して嫌な顔をした。
「安心しろ、共有するのは視覚拡張レンズの情報だけだ」
見透かした様にそう言われ、渋々私はリンクスと視覚拡張レンズを装着する。キャリブレーションが行われ、プログラムが起動する。
試しに要さんの視界に切り替えて覗いてみると、酷く体調の悪そうな自分の姿が写る。
「酷い顔」
私がそう笑って自虐すると、要さんが不意に話しかけてくる。
「お前、視力悪いのか?」
私はこれまで裸眼で過ごしてきているので、眼鏡や矯正用コンタクトとは無縁だ。今使っている視覚拡張レンズしか使ってきていない。
私が否定すると、要さんは「まぁいい」と言って千代邸の方を向き、突然ハッキングを開始した。
いきなり何をしてるのかと私が驚いているうちに、視界には千代邸の監視カメラの映像が現れる。
「行くぞ、警戒を怠るな」
私は呆れながら降りて、門構えへ向かう。備え付けられたインターホンを鳴らすと、少しして返事があった。
「どうも、新堂です。
私が名乗ると、門構えは解錠され、要さんが中に車を駐車する。玄関先で出迎えてくれた穂香さんは、まるで別人のような顔だった。
「この度はお悔やみ申し上げます」
穂香さんは返事をせずにお辞儀だけして、生気の無い虚ろな目で私達をリビングへ案内した。
ここへ来るのは二回目になるが、どことなく空気の感じが違うような気がした。線香の匂いや、穂香さんの様子だけなら喪中の雰囲気だと理解できるが、それともまた違う感覚だった。
三人だけしか居ない空間なのに、誰かから見られているような──。
「あの、そちらの方は……」
「えーと、
要さんはどこか不服そうに私を一瞥し、眉をひそめたまま穂香さんに会釈する。
穂香さんは要さんの名前を聞いた時にピクリと顔を上げ、少し驚いた表情で見つめていたが、すぐに私達をリビングへと案内した。
少しその様子が不自然なのが気になったが、とにかく今は余計な事は言わず、夫を亡くした彼女の状況を慮るのが優先だ。
「奥さん、無礼を承知で本題に入らせてもらいます。千代正樹は、殺された可能性が高い」
要さんが座るやいなやそう言い放った。
この人は基本的に遠慮というものを知らない。穂香さんのメンタルケアがまず先なのに。
しかし、穂香さんはそれを聞いても全く動じていなかった。何の反応も示さず、ただ黙って下を向いている。
「穂香さん、どこまで事情を知っているんですか?」
私が問いかけると、穂香さんは少し間を置いて、静かに話し始めた。
穂香さんは篠宮の出身ではなく、外部から嫁いできた人間だそうだ。大学で出会った千代さんと恋に落ちそのまま結婚。千代家跡取りの嫁ということで、周りからはとても歓迎され、穏やかに過ごしていた。
篠宮御三家、ひいては篠宮村全体の内部事情を村長である義父から聞かされ、歴史ある良家に嫁いだことを最初は喜んだ。
それでも、土着信仰「さんかく様」に纏わる話はあまり信じていなかった。ちょっと変わった村の風習ぐらいに受け止めていたのだそうだ。
実際、今の時代は昔と違ってもう生贄など物騒な事は行っておらず、儀式なども簡略化されたり、現代に馴染んだ形になっていたから余計にそう思ったのだという。
だがいつの頃からか、
「『まれびとの輪』という正式な名前を付けて組織して、あの男を中心に村人たちは入信していきました。元からあった信仰心も手伝っての事でしょう、あっという間に村全体が信者と化しました」
やがて、「死者と出会った」、「神と対話した」などと言い出す者も現れ、人柱を捧げた過激な儀式をも執り行うようになった。
その頃には御三家の力は、平岡が入り浸った鏑木家に傾いていたという。
そして、千代さんが紫苑を連れてきた日、全ての認識が変わった。
「その日、村人の大勢が人柱になったのだと聞きました。主人は衰弱した
穂香さんは顔を落とし、重くなった声で続ける。
「紫苑ちゃんの保護者──
しかし、千代さんは自分の家の心配よりも紫苑の記憶を取り戻すことに必死だったそうだ。
箱守の人間はもう紫苑しか残っていない、見つかれば何をされるか分からない。だから千代は必死に紫苑の存在を匿って隠した。
「主人は私に何も言わずに出かけることがよくありました。あの夜、新堂さんたちを部屋に案内してすぐ主人はどこかへ行って、それっきり、帰ってこなかった……」
私はその日のことを思い出す。七彩の影を見た夜だ。思い返せばあの日、七彩を追って外に出た時、千代さんの車は確かに無かったと思い出した。
その時、千代さんの様子は変だった。何かに気付いたような、思考の海に潜っている時のような感じだ、私もそうなると、周りの声が聞こえなくなるから良く分かる。
「そんな事があったので、主人の訃報を聞いた時はすぐに思いました。殺されたのかもしれない、と」
暗い顔のまま語る穂香さんの目に、涙が溜まってこぼれ落ちた。それを拭いもせず、彼女は続けた。
「なので咄嗟にあの時、新堂さんたちに紫苑ちゃんを託そうと……。勝手な行動で申し訳ありません」
どんな理由があるにせよ、主人が守ろうとしたなら、それを継がなければ。そう思ったが故の咄嗟の行動だったと穂香さんは言った。
「あの……それと」
話が一区切りつくと、穂香さんは要さんの方を見た。
「あの日主人が出て行く前に、これを使えと渡されました」
そう言って彼女が見せてくれたのは、スマートフォンだった。穂香さんのではなく、千代さんから渡されたものだそうだ。彼のものでもないらしい。
要さんが手に取って即座に内部に侵入した。手癖の悪いというかなんというか、ある意味感心した。
要さんの視界を通して私にも内容が見えるが、しかしその内部には何も怪しいものはなく、オートメーションプログラムが一つあるだけだ。
だがその内容を解析した瞬間、要さんは驚いて声を上げた。
「何故これを……」
彼が驚くのも無理はない。その内容は、そのオートメーションの内容は、「原崎要に位置情報を送信する」というもの。
そして送信者、つまりこのスマートフォンのパーソナルデータは「
どういう事なのか一瞬理解出来なかったが、これを千代さんが持っていたということは、「千代さんと来栖に接点があった」という事実が浮かび上がる。
要さんを篠宮へ呼んだそもそもの原因が、今目の前にある。
「来栖、という名に心当たりは」
要さんが穂香さんにそう詰め寄った。
「え……と、はい。確か、村の外れの方に同じ名前の家があったはずです」
「なるほどな……。来栖は、この村出身だったワケか」
要さんがそう呟いたかと思うと、私に目で合図してきた。何だろうと思っていると、共有された監視カメラの映像が拡大表示される。
そこに映された千代邸の裏口らしき箇所で、何かが動いた。
人影のように見えるそれは、建物とカメラの角度で丁度死角になっている箇所でもぞもぞ動いている。
「……奥さん、悪いが洗面所を借りたい」
穂香さんに案内され、要さんは廊下の方へ向かっていった。
その視覚を追っていると、裏口へ飛び出た要さんに驚く誰かの姿が見えた。顔に見覚えがある。
「何をしている」
耳に要さんの声が響いた。驚いて戻ってきた穂香さんの方を見るが、彼女には聞こえていないようだ。
リンクスを通じて耳小骨を振動させる骨伝導システムなのだが、要さんの声が聞こえるということは、聴覚まで共有されているということだ。視覚だけというのは嘘じゃないか。私は呆れながらも、会話に耳を傾ける。
「ここは千代の敷地だが」
姿を表した人物は、役場で出会った
「なんであなたがここに?」
私がそう詰め寄ると、私の姿を見た北澤はたじろぎ、建物の角へ向かおうとして一歩後退り、しかしそのまま固まった。
要さんの視界の中で、ハッキングプログラムが動いているのが見える。北澤もリンクスを装着しているらしく、彼女は困惑している様子だった。
これは私も要さんに仕掛けられたことがある。リンクスを経由して神経系統をハッキングして身体の自由を奪われる。非常に不快なので出来れば二度とやられたくないが、今は頼もしい。
北澤は慌てながらも、口を開いた。
「……あなた、新堂朱音でしょ? た、助けて! 私、平岡のところから逃げてきたの!」
受け取った情報が多すぎて、咀嚼するのに時間がかかる。何から聞けば良いのか迷っていると、要さんが先に口を開いた。
「演技は辞めろ。お前、千代医院で野次馬の中に居たな。何者だ?」
北澤は驚いた反応を見せ、しばらく言い淀んでから返事をした。
「北澤
それはさっき、穂香さんから聞いた名前。村の土着信仰「さんかく様」を祀る宗教団体だ。
「
要さんの発言を聞き、記憶の中に残っていたその名前と、北澤の顔を照らし合わせて思い出した。
昔、新堂探偵事務所に訪れた時、私はこの女と会った事がある。平岡の横に立ち、「電子の世界に神は存在する」と言っていた白装束の女だ。間違いなく、要さんの言う通り彼女は元伊邪那美の声の信者だ。
平岡は、解体された伊邪那美の声の残党を集めて、この村の土着信仰を取り入れて新たな団体を作り出したということか?
一体何が目的でそんなことをしている? この村で奴は何を企んでいるのだ?
この北澤という女は、一体この場所へ何をしに来たのだろう?
そこで私の思考は、急に訪れた激しい目眩に邪魔され、かき消された。頭が割れそうなくらい痛み、全身が一気に重くなって立っていられない。
いきなり訪れた不快感に私は激しく咳込み、息もまともに出来なくなってしまい、思わず私は地面に崩れ落ちてしまった。
口を抑えた手のひらに、僅かに血が付着しているのが分かった。
すると、隣の要さんも苦しそうな表情を浮かべ、プログラムが停止される。
「……侵食が続いてるな」
身体の自由を取り戻した北澤は、最後に舌打ちと共にそう言い残して走り去っていってしまった。
今までと比にならない苦痛が私を襲う。要さんと共有していた視界が解除され、目の前が歪んでいく。呼吸が苦しくなり、咳が止まらない。
「おい、新堂!」
要さんが叫び、私の右腕を引っ張った。しばらくすると痛みは収まっていき、身体の重さも無くなっていく。心臓の鼓動が高まり、全身に血液が送られていくのを感じる。真っ暗になりつつあった視界がゆっくり戻ってきた。
赤い方の薬剤を投与されたのだ。その効力は迅速で、しばらくすると呼吸も落ち着いてくる。
「大丈夫か」
要さんに抱えられて立ち上がっても、まだ足元がふらつく。内腿の付け根辺りにぬめりとした感触を感じ、触って確認すると、手のひらに僅かに血が付着していた。
下腹部に鉛を入れられたような不快感と鈍い痛みが襲ってくるが、周期から考えて今は生理の時期ではない。不正出血している。
吐血と言い不正出血と言い、身体の内部に異常があることは間違いないのだが、それが何でなのかは分からない。思い当たることが一つも無い。
要さんが私を抱えたまま、家の中に戻って穂香さんに何かを大声で叫んでいるのを最後に聞いて、私の意識は途切れた。
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